怒りも悲しみも
怒りも悲しみも、苦しみも痛みも本当には共有できない。
何故ならそれは個人的なものだから。
それがどれほど腹立たしく、どれほど悲しいのか。
どれほど苦しく、痛いのか。
その度合いは誰とも分かち合えない。
私たちが分かち合えるのは、その痛みに満ちた体験から学んだこと…つまり、新たな知見、乗り越えた強さ、相手に寄り添える優しさ……愛だけ。
自分にそのような賢さ、強さ、優しさがあったのだという気づき。
そして同じものが貴方にもあるのだ、と真っ直ぐに言えることだ。
だからこそ、これらの苦しみを他人と比較することは無意味だ。
「私の苦しみは、あの人に比べたら大したことない」
「君の悲しみなんて、このくらいの年になれば誰だって経験してるよw」
「それくらいのことで泣くんじゃない。情けない」
他人と比較してまで、それらを「大したことではない」と否定するのは何故だろう。何故、大したことであってはならないのだろうか。
大したことだと何が不味いのだろう。
本当に否定したいのは何なのだろう。
誰かと比較し、自分(あの人)の感情をディスカウントすることで、一体何を得た気になるのだろう。
怒りに悶えている自分(あの人)がいてもいい。
悲しみに暮れている自分(あの人)がいてもいい。
もがき苦しんでいる自分(あの人)がいてもいい。
痛みを抱えている自分(あの人)がいてもいい。
別にいいじゃない。
何の問題もない。
それがあるのは弱さじゃない。
それが大したことであろうとなかろうと、その感覚は何かを知らせたがっている。
何を知らせたがっているのか?
本当のわたしを見て欲しい。
わたしがどれほど深くわたしを愛しているのか知って欲しい。
怒りも、悲しみも、苦しみも、痛みも。
全てはその背後に、愛からの呼びかけを隠している。
わたしがどれほど深くわたし自身を愛しているのか。
常に完璧に守られていてほしい。
常に喜びに満ち溢れていてほしい。
常に痛みから自由でいてほしい。
常に豊かであって欲しい。
常に幸福でいて欲しい。
未来永劫、そのようであってほしい。
わたしにはその価値があるから。
と。
だからその声を、大したことないと軽んじて無視しないで欲しい。
誰よりも大事なあなたが抱く感情が大したことないなんてことはあり得ないのだから。
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