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悪気がなくても悪口

言いたいことは簡単なことです。「悪口は控えましょう」。これだけ。

イライラしたり腹が立ったり、誰かを悪し様に言いたくなってしまうことはありますよね。実際に言ってしまったこともあるでしょう。

今回特にお伝えしたいのは、昨今、様々なメディアでもよく取り上げられている「ネットいじめ」についてです。

書き込んでしまう可能性は誰にでもあります。一緒に気をつけましょう。

人に対して悪く言うことを「悪口(わるぐち)」と言いますが、仏教ではこれを「あっく」と読みます。お察しのとおり悪口の語源になったものですが、仏教辞典を引くと「人を悩ますことば。粗悪なることば。あらあらしい言葉。必ずしも『わるくち』ではない」とあります。

この悪口は「口の四悪業」として「十善法語」というお経の一種に収められています。

ここで言う「口の四悪業」、すなわち「口を使った4つの悪業」について一つ一つ見ていきましょう。

「妄語」……「嘘をつく」

「綺語」……「真実にそむいて巧みに飾りたてた言葉」

「悪口」……「「人を悩ますことば。粗悪なることば。あらあらしい言葉」

「両舌」……「両方の人に違ったことをいい、両者を離間して争わせることで、二枚舌のこと。また、かげぐち、そしり言葉」

私たちのくらしの中で「悪口」と言うと、悪気をもってわざと誰かを傷つけたり貶めたりするようなものを想像します。しかし、このように考えると、必ずしも意図的な悪意を自覚していなかったとしても、清らかでない邪な思いから生まれた言葉は、たしかに悪しき言葉なのだと納得できます。

よく、誰かを害したときに「悪気はなかった」と言い訳をする人がいますが、悪しき言葉を発するということは、相手を惑わせ、事実を捻じ曲げ、不快感を与え、いらぬ争いの種を撒くこと。言葉というのはすべからく自らの意思によって他者に影響を及ぼすツールですから、悪気はなかったなどという理屈はそもそも筋が通りません。百歩譲って、本当に何気なくポロッと出てしまった言葉で相手が傷ついたとして、その相手が泣く、怒る、落ち込むなどといったリアクションをとれば、そこで初めてその「何気ない言葉」が悪口だったと気づくわけです。自分の考えの足らなさ加減をよくよく反省し、次からはもうちょっと頭を回転させてからものを言うようにするといいでしょう。

さて、対面で発せられた言葉であれば無駄な言い訳のしようもありますが、これがネット上に書き込まれたものですとなかなかそうもいきません。

ネット上の書き込みは相手の顔が見えない分、あたかも独り言のような気安さがあり、ついつい強い言葉を使ってしまいがちです。しかし実際には相手が「見えない」というだけで、その書き込みを目にする人数は対面の比ではありません。自分の発した悪しき言葉でショックを受ける人の数も、「あの人(あの垢)はこんな悪口を書いていたよ」と拡散する人の数も、桁外れに膨れ上がります。鍵垢だろうとすぐに削除しようと関係ありません。スクショ(魚拓)をとられたらおしまいです。エンターキーを押したが最後、自分の浅慮な言葉は全世界に向けて永久に記録され、拡散され続けるのです。その恐ろしさは、軽い気持ちで悪口を書き込むような人間の想像など遥かに超えたレベルです。それこそ「お天道様が見ている」のレベルです。

仏教的な言葉を選ぶと、私たちの行いの全ては「業(ごう)」であると言えます。善い行いも悪い行いも業です。つまり、自分の行いの記録、ログ、悪い行いはさしずめ黒歴史といったところでしょうか。

悪口を言う度に、自分のログに黒歴史を記し、晒し続けるのです。どこの誰とも分からないほど大勢の人がそれを見ている。お天道様が知っている。何よりも自分自身が知っている。

言いたいことは簡単です。悪口を言うな。これだけです。対面でも架空でも同じです。
一度言ってしまった言葉、してしまった行いは絶対に絶対に消えないのです。それは他者を害し、自分自身を縛り、人生を傷つけるものです。
人間だもの。
おキレイな感情ばかりで生きてはいけません。腹も立ちます。嫉妬もします。自慢もしたくなります。でも、「思う」ことと「言う」「行う」ことは決定的に違います。
自分の行いが回り回って自身に跳ね返ってくることを「ブーメラン」などと言いますが、本当のブーメランなら、投げたものがそのまま返ってくるだけですからかわいいものです。
悪業のブーメランはとんでもない強さと大きさで末代まで自分を呪うでしょう。

お布施、お気持ちで護寺運営をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。