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リベンジ思春期

 午前4時すぎ。蚊に五か所も刺されて目が覚めた。怒りと呼ぶにはあまりに陳腐なこの感情を消化するために、僕はベッドから降りてこれを書いている。まるで蚊に「起きろ」と命令されたような感じだ。

 「命令」という言葉を聞いて、良いイメージを抱く人はあまりいないかもしれない。「指示」や「指図」と比べても抑圧的であり、もしかすると生まれてからこれまで誰かに「命令」をしたことすらないのかもしれない。僕のなかではほんとうにそれくらいの認識で、小学校でサッカーチームのキャプテンをしているときでさえも命令はしたことがないと思っている。僕がしたのは、それこそ「指示」止まりだろう。

 しかしその「指示」でさえも、実際にやってみるとなかなかに難しい。特にチカラでキャプテンに選ばれたわけではない僕のような人間には大変なことで、なにせ正しいことを「指示」すればみんなが動いてくれるというわけではなかったことが辛かった。

 たぶんそれはそのチームの誰がやってもほとんど同じことで、あれぐらいの年代の子どもをまとめるという役目を、同い年に任せるというのはいささか難しいことのようにも思える。小学校低学年とかの子どもたちが言うことを聞く同い年って、そうとうに人望かつ実力がある人間だろう。

 でも実際にはそんな子って滅多にはいない。そうなってくると大人たちの出番ということになるのだが、大人たちが言うことにほぼ従っていたあの頃の僕たちは、実質的には「命令」されていたと言ってもいいのかもしれないなんてことを、こんな時間だからか考えてしまった。

 「命令」という漢字の成り立ちを調べてみると、「令」は儀礼用の帽子を被って神様にひざまずき、神様のお告げを黙って聴いている人の姿が元だという。そしてその「令」に神様への祈りの祝詞(のりと)を入れる器(口)を加えた字が「命」であり、それで神様のおおせのことを指すらしい。


 べつに先生やコーチみたいな大人たちのことを神様だと思ったことはない。だけれどそういう大人たちに歯向かったり、互いに議論をしながら何かを進めていくみたいなことをしてこなかったいい子ちゃんの僕たちが、「大人のおおせのままに」というスタンスを無意識のうちに確立していたことは否定できない。

 先生やコーチたちが抑圧的な態度で僕たちに接していたわけではないし、なんなら僕の周りにいた大人たちはみんないい人だった。だから決してこれは彼らが命令してきたとか、僕たちは逆らうことができなかったみたいな話がしたいわけでがなくて、その頃の僕たちにはあまり「大人の言うことを聞かない」みたいな選択肢が思いつかなかったという話だ。もちろん時代とか環境的なものもあるのだろうけど。

 「大人のおおせのままに」は楽だった。とにかくそれをすれば怒られるということは滅多にない。

 それは賢い生き方なんて呼ばれるものかもしれなくて、なんだかいちいち反抗したり、自分の意見を通そうとする生き方はスマートではない。だからそういう摩擦のない生き方を大学くらいまで選択してきたし、それで後悔することもほとんどなかった。

 ムカついても。違うと思っても。それをはらわたで煮込みまくって蒸発させる。それはもはや癖のようなもので、「言われたことは飲み込む」が常態化していたかもしれない。

 だけれどここ最近、ふと「もう言うことを聞いたり、怒られたりすることは十分だな」と思った。

 これまでさんざん大人の言うこと聞いてきて、怒られてもきたのに、学生じゃなくなった瞬間に今度は社会人として誰かに命令されるのかと。

 たぶんこれを飲み込んでもいいだろうし、そうすべきなのかもしれない。それを義務教育で習ってきた。そして今さらこんなことを考えているということが、色々な意味で恥ずかしくも思える。

 でもなんだかほんとうに「もうそういうのよくないか」って感じるようになってきた。上司に怒られている大人とかを見ると、心から立派だなと思う一方で、「大人」の意味を改めて考えさせられる。

 こんな状態をリベンジ思春期とでも言うのかもしれない。あー恥ずかし。

 


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