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silent love 13/13(短編小説)

 こんなところでも、と彼女は思った。

 机の下で拳を握った。胸が震える。心が震える。熱いものが体の奥のほうで生まれて、伝って、身体中を駆け上がってくるよう。

 こんなところでも我慢できたのは、恋人がいたから。恋人がいれば、いつかここから抜け出せる、と信じていたから。 


 鼓動が震えた。

 顔が瞳が、熱くなって、濡れて。

 彼女は声を上げてしまいそうだった。

 

 もしかしたら私は、十年経ってもこのままなのだろうか。

 

 正面を向いた彼女の瞳から、ぽろっと一滴、涙が零れた。

 彼はそれを見ていた。彼女が泣くのを、彼は見逃さなかった。

 それが魔法を解く鍵だったかのように、彼は一歩踏み出した。

 

 はっとして我に返った。

 いやだ私、泣いたりして。早くハンカチを出して、拭かなきゃ。

 そう思った。だけど身体が動かない。

 そして彼女は見た。彼がまっすぐに、自分のほうに向かって歩いてくるのを。

 それが彼女の魔法を解く鍵だった。

 彼女はがたんと音を立てて立ち上がった。それからゆっくり、カウンターの横を通って前に回った。何か言われるかもしれない、と心の片隅で思ったが、言われたってかまわない。

 

 彼女が席から立ち上がるのが見えた。どうしたんだろう、と彼は思った。彼女らしくない。

 だけど彼もまた同じだった。仕事中なのに、持ち場を離れて歩き出してる。

 後ろで同僚の老人が、「あ、あ~あぁ~」と言っているのが聞こえた。

 彼は、自分が何か不思議な力に引かれているような気がした。その力は、まっすぐ彼女に向かっている。

 この力に抵抗することもできるだろう、と思った。だが彼は間違えなかった。これに従い、導かれるままに。今、自分は彼女に向かって歩き出さなければいけない。その瞬間を間違えると、人は取り返しのつかないことになる。

 彼は歩いた。彼女に向かって。

 

 自分がカウンターの前に回ったから、きっと初めて、彼に自分の姿が頭から足の先まで見えているだろう。

 そして歩いてくる。まっすぐ、自分に向かって。

 彼女も歩き出した。彼に向かって。

 自分と彼との間に、見えないまっすぐな線があって、その両端に自分たちがいて。そして不思議な力が導いているみたい。

 

 彼と彼女の間には、二人を隔てていた何もなくなった。多分、今までだってずっとなかったのだ。

 二人は、二十メートルの真ん中で出会った。初めて、手を伸ばせば触れられそうなところに相手がいる。

 彼は、彼女が思っていたよりずっと華奢なのを知った。

 彼女は、彼の胸が思っていたよりずっと広いのを知った。

 彼は、何か言おうとして口を開いた。だけど言葉が出てこなかった。

 彼女は、彼を見上げて微笑んだ。それで彼も笑った。

 二人は一緒に笑った。

 彼も彼女も、その笑顔をずっと前から知っていたような気がした。

 それから彼は、もう一度口を開いた。彼女もそうした。

 遠くで、桜の枝の揺れる音が聞こえた。 

 

「初めまして、こんにちは。私は片桐直嗣(かたぎりなおし)といいます……」

「初めまして、こんにちは。私は雪川麻衣(ゆきかわまい)です……」 

 

                        了

 

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