落ちる女 8/8 (短編小説)
翌日。今日は何を話そう。話す言葉は決まっていない。それでも早く会いたい。
だが落ちてきた彼女を見て、脩介の期待は不安に変わった。
薄くなっていた。もちろん、もともと普通ではない、どこか映像のような姿だったが、今日は彼女の向こうの闇が透けて見える。
「……………!」
何か言おうとしても、言葉が出ない。彼女が先に口を開いた。
(……あのね。私、もうすぐ消えるの)
氷のような冷たい手が、心臓を鷲摑みにしたようだった。
私、もうすぐ消えるの。
混乱した。目の前が真っ暗になった。だけどそれを、自分はどこかで知っていたような気がした。
「……消える? ……何で?」
(あなたが、私を知ってくれたから。……私の名前を呼んでくれたからよ)
そう言って彼女は、青い顔でにこりと笑った。脩介は何も言えなかった。言いかけた言葉たちは、つかむ前に消えてしまった。
(私はずっとここにいたのに、誰も私に、気がつかなかった……。私はずっと、落ちていたのに。誰も私のことを知らないなんて、淋しすぎる。そうでしょ。
でも、あなたが気がついてくれた。あなたもまた、一人だったから……あなたと私の淋しさが響き合って、それで私たち、出逢えたのよ)
氷のような彼女の声が、ささやいた。
(あなたが。あなただけが)
(私に気がついてくれたの……)
脩介は俯いた。身体の芯が熱い。熱い何かが体を駆け抜けていって、出ていってしまいそう。
「彩也子さん」
(なあに)
「……俺、脩介っていうんだ。あなたも、俺の名前を呼んで」
(脩介さん)
「はい」
(脩介さん)
「うん」
(脩介さん……)
そのまま彼女は落ちていった。ささやくような、彼女の声が耳の中でこだまする。
ああそうか、彼女だけじゃない、自分もまた、誰かに名前を呼んでほしかったんだ。ずっと長い間。だから自分たちは、出逢えたんだ……。
次の日。最後の〇時二十三分。彼女はきのうより、もう時間がない。
「彩也子さん」
(はい。脩介さん)
優しくて透明な声。脩介の身体を、甘い何かが満たしていく。
「俺は、あなたが好きだ。生きているあなたに、逢いたかった」
彩也子さんが微笑んだ。頬から、サファイアの滴が落ちて舞った。
(ありがとう……私も生きて、あなたに逢いたかった)
優しく微笑みながら、彩也子さんが、青い腕を脩介に向かって伸ばした。脩介もそうした。ガラス越しに、二人の手が合わさった。
彼女の手は、とても冷たかった。
「脩介さん、ありがとう……さようなら」
そう言うと、彩也子さんの身体は、ゆっくりと、完全に透き通っていった。
落ちたのではなく、消えたのだ。後には、ぼんやりと明るい、靄のかかった夜ばかり。
「さようなら」
その闇を見つめながら、脩介も言った。言い終わらないうちに涙が溢れた。涙は彼女の手の冷たさとは反対に、とてもあたたかかった。
「さようなら…」
そのあたたかさを感じながら、脩介は床にくずおれた。
それから、肩を震わせて泣き出した。
了
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