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silent love 12/13(短編小説)

 翌月曜日、彼女は朝から上の空だった。仕事にも身が入らない。いつものように、向こうに立っている彼と想像の会話をすることも忘れていた。

 隣の先輩の女子は、そんな彼女を横目でちらりと見たが、何も言わなかった。

 彼女はただ呆けたようにして、目の前の世界をぼんやりと眺めていた。

 先週までの彼女は、「こんなつらい職場にいても、遠くに愛し合う恋人がいる女」だった。だがもう、そうじゃない。

 彼女は、こんな、同僚といえば意地悪な先輩の女子一人しかいなくて、仕事といえばたまに訪れるお客だけで、そんなつらくてつまらない職場に勤めているただの女だった。

 休憩時間に楽しみに見るメッセージもない。心浮き立つような夜の電話もない。週末に会えることを想う相手もいない。  

繋がっているものがない、ただの女だ。

 目頭が熱くなるのを感じた。身体の芯が震えているようだ。いいえ、心が震えているよう。

 彼女は必死に歯を食いしばって、涙が零れるのをこらえた。だけど後から後からこみ上げてくる、心を打ちのめすような嗚咽を止めることはできなかった。

 わあああ、うわああああ、わあああん。ひどいよ、ひどいよ。

 こんなの、いやだあ。

 そうやって子どものように泣き喚きたかった。だけど彼女は勤務中で、そんなことはできなかった。

 今にも涙が零れ落ちそうな瞳で、彼女はぎゅっと前を見つめた。

  

 彼は今日も彼女の姿を見て、嬉しくなった。それを自覚してもっと嬉しくなった。

 いつものように心の中で彼女に話しかけた。だけど今日に限って、会話を想像するのがうまくいかない。

 なぜだろう、と彼は思った。彼女はいつもどおり、真面目にきちんと座っている。だけどなぜか、彼には彼女の様子がいつもと違って見えた。

 彼は目を細めて、彼女をじっと見つめた。

 彼女は震えていた。青い制服に包まれた細い肩が、わなわなと震えている。

 まさか、と彼は思った。仕事中だし、それにもしそうだとしても、彼の位置から見えるわけない。

 だけどそれならどうして、彼女はいつもと違うように見えるのだろう。

 

 ちょっとあなた、大丈夫なの、と先輩の女子が言った。彼女ははっとした。どうやら、傍目にもわかるほどぼうっとしていたらしい。

 あ、はい、大丈夫です。すみません。 

 慌てて返事をする。怒られるかと思ったが、先輩は、そうそれならいいけどと言っただけだった。

 いけないしっかりしなきゃと思って、背筋を伸ばして居住まいを正した。だけどそうやって必死で心を励ましても、お客は来ない。気を紛らわしてくれる仕事はない。だから虚勢はすぐに崩れてしまう。涙腺が弛む。

 心の中に浮かんでくるのは、かつての恋人のことばかりだった。

 だけど恋人はもういない。四年にも及ぶ付き合いは、一瞬で終わった。その間に蓄積して大きく育った愛情は、彼女のほうだけだったのだ。

 彼女には趣味もなかった。休みの日は恋人と過ごすか、恋人のことを考えて過ごした。だから恋人がいなくなると、何もなくなってしまった。そして職場はといえば、女の先輩一人と、来ないお客、ない仕事、狭くて古い小さな部屋。それだけだった。

~ つづく ~

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