ビカクシダは地震に弱い
「それにしても奇妙な世界だな、珍奇植物は」
「ついこの間まで見慣れてた品種が、あっちで暴落し、こっちで廃墟になり
ちょっと目を離すと、キレイさっぱり消えちまってる。
それにどんな意味があるのか、考えるよりも早くだ」
「ここじゃ過去なんてものには、一文の値打ちもないのかも知れんな」
「俺たちがこうして話してるこのP. willinckiiだって、ちょっと前までは低価値だったんだぜ」
「それが数年後には、目の前のこのP. willinckiiに巨大なドワーフ市場が生まれる。
でもそれだって、あっという間に一文の値打ちもない過去になるに決まってるんだ」
「タチのわるい冗談に付き合ってるようなもんさ」
我々はどこへ行くのか、我々は何者なのか
パトレイバーの劇場版1作目での
後藤隊長と松井刑事の会話が大好きなのですが
新陳代謝の激しい場所は、だいたいに当てはまる気がします
廃墟が美しいのは、そこに死体がないから
(誰かが死んだ廃墟は、ただの事故物件)
30年くらい前に倒産したボロボロの廃墟なのに
そこで働いてた人間が、意外と50才くらいで
めっちゃ元気だったりするギャップが好き
むしろ生きるために
そこを捨てる必要あって、廃墟になったという感じ
人を育てた建物の、最後の仕事が
捨てられることだった、というところにグッと来るのです
今年の地震では
金沢の私は、室内の植物が2mくらい落下して
土を掃除するのが面倒だった、程度の被害だった
その後、奥能登に抜き差しならない用事があった
(以前、奥能登に住んでた)
何百個の廃墟を見て
助けたり助けられたりして
棚が崩れたまま開店してるドラッグストアで
ポイントカードはお持ちですかと、ちゃんと訊かれるシュールさに救われ
ヤシマ作戦のように停電した避難所で
氷点下で星を見て
ああ、完全にエヴァ序……って思って
国土交通省のロゴがある、折ったら刑罰と
10万円以上の弁償が待ってそうなポールが、折れて転がってて
ジャンプ台になった道路のヒビの前で
どうやったらブレーキを掛けてもらえるだろう
って考えながら、それを立てたり
灯籠って、地震の時に灯籠アタックする害以外に
なんの意味があるのだろう、って思ったり
別のヒビの前に、誰かが置いた灯籠の頭を見て
最後に役に立ったじゃん、って思ったり
道の駅のトイレで
奥能登から戻ってきたNHKの人とかが
手洗いの水が切れた状態で、つれぇわな表情で海を眺めてたので
水を渡して、ちょっと話して
いまの会話、FF15の最後の焚き火っぽかった、って思ったり
手を洗えなかった自衛隊の人にも話したら
車両に戻ればおしぼりがあるから、って断られて
「自己完結組織」と「おしぼり」って言葉のギャップに魅力を感じたり
自衛隊員が何かを受け取ったら、SNSに書かれるリスクがあるのか……
って反省したり
何十回も見た見附島の形が変わって
砂浜が消えて、台座が宙に浮いたままの鐘を鳴らして
初めて見る見附島だ……
でもこれからはこの形しか見られないから、レアでもなんでもないのか
今までの形がマンネリだったから、久しぶりに新鮮だけど
これからはどう観光客にアピールすればいいんだろう
巨神兵の顔と似てるので、ナウシカの聖地に……
って、頭ぐちゃぐちゃで通る道は、津波の跡で茶色くて
前にある村は、全壊率が100%で
布団の赤色がカラフルで
これからの見附島を背景に
警視庁のパトカーが走る田んぼの組み合わせは、超レアで
過疎の駐車場に
全国のナンバーが停まってる景色が、非現実的で
穴水の癒やしであるホームセンター、ココス、しまむらがある駐車場に
まるごと接収されたみたいに、特殊車両が並んでて
30°くらい傾いた交通信号が通電されて
最後の役に立つ数週間を活躍し
折れた電柱が、骨折の当て木のように
最小限のコストで復活し
現場が裁量を持った状態での
現場の判断って、すさまじいスピードと応用力なんだなってビビって
会議室で活躍する人たちのほうも
穴水を巨大なラウンドアバウトにしようって決断した警察官の
L並みの頭の良さに感心したし
こういう即応するプロ部隊がいる
先進国ってすげーって思ったし
チェンソーは最高に役立つ道具で
夕方の地震から夜までの間に
初動で道を開通させまくった民間のおじさんたちは、チェンソーマンで英雄だった
そんな必須の職業に比べて
植物にあげる水もない状況では、園芸は必須でない娯楽に一気に落ちる
漁の神様への、初詣の直後に地震が起きた人にとっては
大吉の札は優良誤認の商品で
お賽銭は、詐欺にお金を取られたようなもので
神頼みしかない状況でも
鳥居が崩れた神社には誰もおらず
信仰も、余裕があるときの娯楽にすぎないとバレてしまってた
寺は食べ物、寝る場所など、信仰でない物質を提供してて
伝統宗教2つのギャップが激しくて、勝負あった感じがした
ミスチルのVocalの人間性は、歌手らしくウンコな部類だと思うけど
本当に価値あるものとは一体何だ
って歌詞は素晴らしくて
地震の精神的な第2波というか
それまでの価値観を揺らがされる中で、そのフレーズを思い出してた
人が亡くなってる状況では
それ以外の動物の命に価値はなく
トロッコ問題で人間の反対側に置く動物が
たとえペットだったとしても
クイズ番組の早押し並に解けるだろう
食べられない植物には、さらに価値がない
日本の気候に合わない植物は
人間の保護がなくなると、すぐ枯れる
植物の居場所がなくなるケースは、災害だけじゃない
園芸家が突然死すれば
その趣味の理解者が周囲にいない限り、故人所有の植物は枯れる
育ちすぎた観葉植物は
無償でも引き取り手が現れないくらい、日本では飽和してるし
むしろ迷惑な存在
育てた本人以外にとっては価値がない
1年草なら目的が明確で
花や収穫が済んだら、次の年は育てない自由がある
多年草や樹木には、その自由がない
それらの寿命は人間より長いものが多いし
園芸家のほとんどは大人だろうから
余命で比較すると、もっとヤバイ
常に突然死に備える必要はないけど
育てて、それでどうするの……?
って疑問には、ちゃんと解を用意しとく必要がある
多年草や樹木も、最終目標を決めておき
それを達成したらいつ全滅してもイイ、って覚悟しとくのが楽なんだろう
未練は煩悩だし
覚悟は幸福だぞ、エンポリオ
屋外の樹木の場合は、放置して巨木になるくらいなら
自分が死んだら切れ!
って書いとくほうが、滅びの美学で相続者は楽かもしれない
そう考えると、園芸ってかなり刹那的な趣味
ビカクシダに霧吹きをして
胞子葉の成長にブーストが掛かってきたー
って満足した1秒後に、震度7や心臓発作が起きたら、それで終わり
そんなこと考えてたら楽しくない
って思考放棄するのは逃げで、相続者に転嫁する邪悪なのだろう
刹那的であると納得した上で
閃光のように一瞬を大事にする、ってダイの大冒険の最終回付近のように
達観するのが前向きだと思う
そんな終わりの事態が、いつ発生するか
いま石川県にいない人は
その日がうんと将来かのように、感覚がズレまくってると思う
大陸プレート同士が衝突して、片方が下にめり込み
反発すると地震が起こるというメカニズムは、この地震には当てはまらず
沈み込んでる側のプレートに沿って
海水由来の水分が、能登半島の下まで流れ着いて
そこで上昇しながら、マグマで加熱されて体積が増えて岩盤を破壊したり
断層の間に染み込んで、潤滑油のように
ヌルっと滑らすことで発生した、という説がある
積雪の重みや
雪解け水による地下の圧力変化が関係してるという説もある
断層の割れ残り、という
いっそぜんぶ割れてくれたら良かったのによォォオオッ!!
的ニュアンスを含んだ用語も登場した
プレートが反発してエネルギーを放出する地震(プレート境界型地震)なら
しばらく安全な期間ができることが多いけど
この地震は、前例がない
ニュースや政治家は、前向きな話をするのが仕事だけど
能登では、この冬も地震が起きる可能性が高いと思ってる人が多い
って大前提があって
ニュースは建前上、その大前提を共有できないから
もう地震は終わったのに何やってるの、みたいな無垢さで
「復興が進んでない」という言葉を選ぶ
能登にゆかりのあるタレントも
いま能登に行っても、能登から撤退済みの人には会えないので
残るって決めた人の価値観に偏った意見を拡散して
今年の冬にまた全壊するかも、って賭けに出てることには触れない
余震が続く中、土砂崩れが後付けで増えてく様子を見たので
地震でシェイクされたまま、いま擁壁を作り直せるわけがなく
次の余震で崩れるはずの場所が、きっと山ほどあって
土砂で埋まった川の、川底も掘れないままだから
前より氾濫しやすい状態のまま
次の台風でヤバい場所だらけだと思ってるから
いま以上に悪くならない前提の
現在進行形で危険なことを忘れてる感じは
賭けに出た本人については
前に進むための勇気とリスペクトするけど
本人以外が、その行動を復興のシンボル的に評価するのは
もう忘れたい、というストレスに負けたようで、危険なフラグを感じる
地震がまた起きても大丈夫だよ!
ってくらい、無責任方向に振り切った応援なら、まだ分かるけど
きっともう起きないから大丈夫だよ!(起きても責任は取れないけど)
を略した、クレバーな応援というか
漫画家や声優になりたい人に対して
応援するよ!って簡単に言って、戻れない道に誘導するようでキツイので
地震がまた来ようが、ほかの県で震度7が2回くらい起きようが
能登に寄付し続けるために自動引き落としを申し込んだ
みたいな応援のほうが、元気出ると思う
また全壊したら、次はどうしますか?
何回までなら、頑張れますか?
なんて質問は、人としてレベルの禁句だし
番組が冷めてしまう
テレビでは、被災者が考えてることの核心には触れられないので
真実は扱えない
禁句があるテレビは
被災者同士の生の会話をトレースして
真実を紹介するような場所ではないのだろう
その結果、ここにはかつて普通の暮らしや祭りがあった
それを取り戻したい的な、ヒューマンドラマの方向性ばかりに行く
3月くらいまであった科学的な方向性が、どこかへ行ってしまった
灯籠や鳥居で亡くなった人や遺族は
その神社に復活してほしくないだろう
信心の冷めた人たちにも取材したらイイのに
ヒューマンドラマ路線は氏名を出すから、それができない
とりあえず次の冬が過ぎることで
雪が原因じゃないっぽい、って思える心理状態にならないと
新築という、無駄になるかもしれないリスクは負えないでしょう
雪の中で、何十回も余震を経験した人たちなわけで
その因果関係が真なのか、オカルトなのか
まだ誰も証明できない
無責任に復興を願うのは、次の地震が起きないほうに賭けて住め
って言ってるのと同じ
能登という、物や景色の復興を
私は願ってなくて
そこに住んでる人たちが、命を失わず、能登からの撤退など
上手に立ち回って復活し
昔にその人たちの先祖が、漁業など目的あって能登に移住した時のように
目的あって能登からの移住が行われただけで
2世代後くらいで、もう新しい居場所に順応しきってるほうを願う
地震が起きる前から
すでに廃墟、空き家だらけで、漁業の全盛期を過ぎて
戦略的撤退の方向に進んでる能登を見てた
いま建ってる、もう住めない建物は
そこの住民が、これからも生きるために
脱出まで耐えるという、最後の仕事をした
と考えれば、最初に書いた廃墟の話と合流する
人を生かすために
捨てられる必要があって、廃墟になった建物ならば
寂しいけど、美しいと思う
その建物が生きてた頃からの
積分された価値が、今でも内蔵されている
存在価値を使い切った後
誇らしくそこに建っている
と思えば、建物の死体じゃなくて碑
その座標に新築して、賑わいを再現しようと努力する必要を感じない
懐かしむ人がいる限り、精神的な価値は、空間に残って完結してて
それを物理的に取り出す必要はもうない
以前の能登を知ってるので、寂しいけど
明かりが消えると寂しいので、消さないでほしいとか
1度でも人間が進出した半島から撤退するのは、国力が後退してるようでイヤだとか
頑張ってる人を応援するのが好きだとか
美しい復活ストーリーを見たいとか
それら、一般的に良いとされてる価値観を
ノーリスクの立場で述べる人が
カイジの三好とか古畑みたいな
無個性なモブにしか見えない
あと2ヶ月で雪が降り始める
能登への募金と同じくらい
地震後にビカクシダにも、お金を使った
すべてを能登への募金に回すほどの、聖人でもなく
どうせ永続しない、無価値な植物に水をやる
ビカクシダは無価値だけど
人と植物の、片方が枯れるまで
その場に作られる、閃光のような時間には価値がある
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