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お茶の水・残響の聖橋

神田明神。
医科歯科大。
丸善。
予備校。
神田川。
聖橋。

東京で一番好きな景色はどこ?と尋ねられて、お茶の水の聖橋から見える神田川と電車の行き交う風景を挙げる人は、少なからずいると思う。
私もそのひとりだ。
かつて江戸時代の治水工事で人工的に高地を削り、本来なら流れるはずのない神田川の流路を切り開いた場所が、ここお茶の水である。
妙に切り立った両岸にかかる橋の上から、斜度のある淡路坂を下る景色を臨む。

車両が真っ赤な丸の内線が、トンネルから隙を突くように川の上へ出る。
乗客に突然光が射す。
橋の上で、上下線が出会った。
すれ違いは一瞬だった。

総武線の黄色いラインの長い車両が、蛇のようになめらかに這い、低い轟音を上げながら眺めの向こうにかかる緑色のアーチ状の橋を通過していく。
残響。

聖橋の上を見渡す。
電車オタクの風貌の青年が一眼レフを構えている。何か珍しい電車でも通るのだろうか。
何十年と連れ添っていそうな老夫婦が静かにただ時を過ごしている。旅行だろうか。
動くものに興味津々な赤ちゃんが若い父親に抱っこされている。父親も電車が好きなのだろうか。
それから、私。
この景色が東京で一番好きだ。
ただ、それだけ。
顔を覆うように黒い日傘をさして、物思う。


この街には19の頃に縁があった。
神田を起点に歩き始め、神保町のワゴンセールの古本を漁り、坂道を登ってここまで来たら、丸善で外国産の黄色いメモ帳みたいなノートを購入する。
それがお決まりのルーティンだった。
お金がなくて80円のハンバーガーしか食べられないような生活で本当に惨めな思いもしたけれど、東京の落ち着いた場所にいられる喜びを味わいながらお茶の水周辺を散歩するのが好きだった。

けれど、この景色がこれほどまで素晴らしい事に気付いたのは大人になってからだった。
それもつい最近、一年半前の事だ。

6年前、訳あってこの街に再度ご縁が出来た。当時の私は子育てに追われ、歳の差のある兄妹を育てることに必死の毎日だった。

一人で過ごす時間なんて、ほぼ無い。
東京の狭い空、子育てでのんびりしてるように見えて、体力の限界と一分一秒争う日々。
そんな時に、空の抜けた、電車が丸ごと眺められるこの景色の存在に気づく事はなかった。

一年半前、私は自分が母である以前に一人の女性でありたい、ひとりの人間でいたいと強く願い、そう行動するようになった。
時が経ち子供たちがそれだけ大きくなった事、社会情勢としてのコロナ禍の終焉もあいまった。

時間と自由が再び舞い戻ってきたその時、初めてこの景色が心のうちに捉えられたのだ。

それ以来事あるごとに訪れるこの場所からの風景は、いつも独りで眺めている。
たった一度を除いては。

物思う。
日傘を深く差し直す。
日曜の午後。
こんなところにいたら、あの人に逢ってしまいそうだ。
想像力が残像を見せる。
日傘をチラと上げ、下から覗き込むように周囲の人を確認する。

電車の青年。
老夫婦。
赤ちゃんを連れた父親。

いない。
そうよね。
あの人は、いない。
それでいい。
それでいいんだ。

時の経過というのは優しく残酷だと言う。
その圧倒的な現実は、もうこの歳なら誰もが経験として知っているのだろう。
その現実に救われ、慰められ。
忘れたくないことだけは、どうか綺麗にそのまま…

丸の内線だったのかな。

悲しみも慈しみも、射した光も全て神田川に流されていく。橋の上には、残像も残すまいとしたあの人の面影がまだ、おぼろげに残っていた。

きっと、忘れる。
そのうち、忘れてしまうんだ。
どんなに覚えていたくても。

私は10年後もこの景色を愛でるだろう。
願わくば、その時も丸の内線は赤く、総武線には黄色いラインが施され、停車した電車から交差する人々を見せてくれますように。

ただ世界が、平和である事だけを祈った。

自分の足で立てるようになった私の事は、知らないままでいい。

長い時間を過ごした。
日差しも風も、何もかもがどこか懐かしく、新鮮で、うるわしかった。
電車は何本通っただろうか。
両隣の青年と老夫婦は、とうにいなくなっていた。

私も、そろそろ行こうか。

誰に向けるでもなく少し微笑んでみる。
あの人は、この笑顔も、知らないままでいい。

川下から昇る風が少し強く吹いた。
河岸を覆う蔦の葉の、青々とした初夏の匂いがした。

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