60年前の岸→池田、と今回の安倍→岸田の首相リレーの「気味が悪い」相似

岸田首相が、「目標は池田勇人」と言ったそうですが、

1960年、いわゆる「60年安保」の後に、岸信介首相が退陣し、池田勇人首相に交代した時の状況と、安倍から岸田へのリレーは、よく似ている。

安倍と岸田のあいだに菅が挟まっているとはいえ、60年後の「交代劇」の相似について、もうマスコミが書いているかもしれないが、ここでも指摘しておきたい。

・安倍はもちろん岸信介の孫。岸田は、池田に発する宏池会の会長で、同じ広島出身。

・安倍は憲法改正を唱えるタカ派で、岸も「9条廃止」論者のタカ派。それに対して、池田も岸田も、経済優先のハト派。

・岸は「60年安保」への反対運動での混乱の責任を取り退陣。安倍はモリかけ桜などのスキャンダル続きで退陣。

・しかし、結局は安保は継続された(反対運動は負け、岸が勝った)。モリかけ桜も安倍の法的問題にはならなかった(反安倍陣営が負け、安倍が勝った)。

・池田勇人は「低姿勢」を売り物に登場、岸田も同じ。

・岸退陣後の池田内閣は、高支持率だった(朝日新聞調査で支持51%、不支持17%)。岸田内閣も現状は同じ(支持率、不支持率もだいたい同じ)。

・岸退陣後の池田内閣時の政党支持率(「どの政党に投票するか」)でも、自民党43%、社会党22%(朝日調査)で、今回の岸田内閣と同様、自民党が野党に大きく差をつけた。

・池田内閣時の「どの政党が好きか」調査(朝日)で、野党第一党の社会党は結党以来初めて20%を割る不人気ぶり。現岸田内閣時での立憲民主党の不人気と相似。

・池田内閣発足の年に総選挙が行われた(1960年11月20日)が、自民党は9議席増、無所属からの入党加え、300議席の勝利。同じ11月に行われた今回の選挙結果と相似。

・1960年選挙時の野党第一党、社会党は、2年前の総選挙の後、社会党と民社党に分裂していた。民主党が、立憲と国民に分裂していたのと相似。

・1960年選挙で民社党は惨敗、しかし社会党は18議席増の勝利だった(127→145)。ここは、今回の立憲民主党の敗北と違う。しかし、事前の予想では社会党は敗北すると見られていた。選挙40日前に社会党の浅沼委員長が右翼少年の山口二矢に暗殺された事件があり、同情票が社会党に流れるという特殊事情があった。(竹内洋『丸山真男の時代』参照)

・しかし、分裂した野党の、一方が勝ち、一方が負けたという結果だけは似ている。


60年前の相似からくみ取るべき教訓。1960年安保闘争というのは、戦後を画する大きな反政府運動、というイメージがある。しかし、極めて一時的、かつ気分的なもので、岸を退陣に追い込んだあと、影響は長続きしなかった。しかも、安保は岸の狙い通り継続したわけで、自民党としては思い通りになっている。60年安保は盛り上がったから勝利というのは幻想だった。それは、「モリかけ桜」の虚しさに通じる。

(「政府はけしからん」という気分的な運動をいくらやっても、「顔」が変わるだけで、自民党は倒れないということを、そろそろ学んでほしい。)

そして結局、自民党政権が基本的にはその後も60年続き、ちょうど2世代(30年×2)で、安倍・岸田という孫の世代に引き継がれたわけだ。

戦前の東條内閣で商工大臣だった岸信介が戦後に首相になったのは、戦前と戦後に変化がなかった証だと言われる。

さらに言うなら、自民党のルーツは、伊藤博文の立憲政友会であり、明治以来の長州閥を中心にした政治が150年続いている、とも言える。

違うのは、岸信介は傷だらけになりながらも、安保を(双務的に直して)延長させ、政治的な果実をとったが、安倍は結局、岸が果たせなかった憲法改正をやはり果たせなかった(長期政権だったにもかかわらず拉致問題も北方領土問題も解決できなかった)。

そして、池田勇人は、日本の高度成長で公約の「所得倍増」を果たしたが、岸田の「所得倍増」が実現する客観的条件は乏しい。無理だろう。

なお、池田勇人のあとは、岸の弟、佐藤栄作だった。

岸田のあと、安倍の弟、岸信夫が首相になれば、その「再現」となる。


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