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「パワハラ」を責める文化

河野太郎の「パワハラ」音声が文春に持ち込まれてニュースになっている。

私は河野太郎がちょっと好きだ。それもあって、言っておきたい。

「パワハラ」という和製英語でこれ以上人を責めるのはやめないか。

世間は「パワハラ」の話題が好きだ。なぜなら、それが「パワー」つまり権力を持った者の失態だからだ。庶民にとって、威張り散らしていた権力者の失墜ほど楽しいことがあるだろうか!

しかし、そんなことばかり喜んでいると、誰も権力を行使できなくなる。権力行使とは突き詰めれば無理強いだ。権力を持たない者がやれば暴言暴力でも、その権力に正統性があれば、その責任の範囲で正当化される場合はある。それがダメだというなら、無気力で無責任な事なかれ主義だけが横行する。

勝間和代が以前、本に書いていた。「女のあなたを怒鳴ってくれる上司は、あなたに見込みがあると思ってくれている有難い上司だ」(みたいなこと)。どうせ女は腰掛だというような企業文化では、女を怒って得すると思う上司はいない(サディストでないかぎり)。男と同等に育てようと思うからこそ怒るーーしかし、こういう文化はすでに時代遅れになった(勝間和代も、最近はこういうこと言わなくなった)。

それはそうだとしても、「パワハラ」で問題な一つは、今回もそうだが、「録音」が登場することだ。

相手の合意を得ずに会話を録音するのは、モラルに反する。

まず、これを基本として押さえてほしい。

スマホやICレコーダーの普及で、日常の音声が手軽に記録できるようになったために、そのモラルがあいまいになっている。

しかし、相手に無断で音声を録音することは、欧米では場所によって違法行為である。

新聞記者も、無断で録音はできない。映画などで、取材中の新聞記者がわざわざ机の上に録音機を置く場面を見るだろう。それは、合意の上の録音であることを示すためだ。

さらに深い取材のためには、オフレコになる。

日本では秘密録音の合法性や証拠能力には議論がある。

最近の弁護士は、「パワハラ」の決定的証拠として、従業員に秘密録音を勧めている。

それが正当化されるのは、秘密録音という反モラル的行為よりも、それによって防げる不正義のほうが明確に大きい場合だろう。

しかし、「パワハラ」音声を都合よく録音するのは難しい。あえて上司に逆らってわざと暴言を引き出すと、不当な証拠となる。

そうすると、これからの従業員は、日常、勤務先でのすべての会話を録音しておくべきだ、となるだろう。

恐ろしいことに、それは今は簡単なのだ。ICレコーダーの長時間録音なら、10時間くらいは平気で録音できる。

そういう世の中になるのだろうか。

飲んでいるときも、録音されていないか気をつけなければならない。

「パワハラ」を責める文化は、そういう世の中を招くことになる。

それが望ましい世の中なのだろうか。

白金高輪の「硫酸男」事件でも、群馬の夫婦が墨田区の女子高生の死体を遺棄した事件でも、犯人の姿をとらえた街頭の監視カメラの映像が、捜査に使われ、マスコミでも一部公開されていた。

われわれは、いつの間にか、そうとうな監視社会のなかに生きていることに改めて気づかされる。

街を歩けば、われわれの姿は映像に残る。そして、これからは、人と会えば、会話が録音されているかもしれない。

なんか話が逸れたが、てことー!

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