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嫉妬の時代

かつて心理学者の岸田秀が『嫉妬の時代』という本を出した。

最近も、どこぞの精神科医が、いまは嫉妬の時代だ、というのを聞いた。


まったくそのとおりだ、と私が思うのは、嫉妬深さでは私は人後に落ちないと思うからだ。

昨日、宮台真司を嫉妬して記事を書いたときもそう自覚した。

私が嫉妬深いのは、いまの時代が悪いのである。



嫉妬という感情は、古代から人々の注目を集め、多くの哲学や文学の主題になってきた。

ダンテの「神曲」の中では、嫉妬者は瞼を縫い付けられ、煉獄山で苦しみ続ける。


古来、「嫉妬」と「憤怒」は別の罪とされたが、現代では、嫉妬は「怒り」の一種と考えられていると思う。

動物にも「嫉妬」はある。

2匹の動物の飼育箱を並べて、一方に大量のエサ、他方に少量のエサを与えつづけ、それがお互い見えるようにすると、エサの少ない動物は、その少ないエサの量でも十分だとしても、怒りを表し、ストレスを溜め、やがてエサの多い方を攻撃しようとする。(そんな実験結果を読んだが、細部はちがうかもしれん)


嫉妬は、古来から劣情、つまり、倫理的に不適な感情とされる。

しかし、嫉妬が、人間を含めた動物に残っているのは、それが進化の上で必要だったからである。

嫉妬深い俗人の方が、嫉妬しない聖人より、たぶん生き残る確率が高かった。



私は最近、フィリピン・ミンダナオ島のYouTuber、Issaさんが、嫉妬のメカニズムをうまく説明しているのを見た。

フィリピンの女性は一般に、やきもち焼き、嫉妬深いとされる。

それは、フィリピーナの情が深いからだとされる。

しかし、Issaさんによれば、そうではない。

Aというフィリピーナの愛人がいる日本人男性が、Bという別のフィリピーナと浮気したとき、Aが怒るのは、男性への愛情が深いからではない。

フィリピーナにとって日本人男性は「カネづる」であり、Aが怒るのは、本来Aが得るはずだったカネが、Bに流れたからだ。

つまり、Aは、Bに、カネを奪われた、と認知する。だから怒るのだ、と。

ま、そういうことだと思う。


上の例で、もし女Bが女Aを直接に襲って、カネを奪おうとし、Aが怒ってBを殴っても、たぶん正当防衛だ。

しかし、女Aが、自分の男の浮気相手のBを嫉妬で殴ったら、(たぶんフィリピンでも)正当防衛とは認められないだろう。

嫉妬が「劣情」であるのは、同じ「怒り」でも、その怒りの正当性が、世間的に認められないからだ。

嫉妬という怒りは、正当に「解消」されることが難しい。

それゆえ、それは何より、本人を苦しめる。

だから、嫉妬するな、と嫉妬をいましめるのは、正しい。

だが、いましめられても、嫉妬は自然な性情として起こる。



身分差別がはげしい社会は、いじめを社会ぐるみでやっているのと同じだ。嫉妬という怒りがうずまく生き地獄になりやすい。

だから、身分のちがいを正当化する世界観を流布したり、身分別に住地を厳格に分けるなどして、嫉妬心が「発火」しないように工夫するしかない。

(ダンテは「自負・嫉妬・貧欲は、人の心に火を放てる三つの火花なり」と言った。)


むかしの日本の村では、貧乏人を怒らせると金持ちの家がまっさきに打ち壊されるから、金持ちはいつも腰を低くして村の雑用などを引き受け、祭りのさいには最大の寄付をする、というように気を使ったそうだ。

しかし、現代は、身分差別があるにもかかわらず、身分差別はないという欺瞞が流布されてしまっている。(この欺瞞の特徴は、識者が指摘するように、悪いのは時代や社会ではなく、「あなた」であると思わせるーーつまり「不幸の個人化」にある)

そして、貧乏人も、自分の家から少し移動すれば、金持ちの家があり、金持ちの生活がのぞけたりする。


最近の金持ちは厚かましく、頭(ず)が高く、ただ初期条件がよかっただけなのに、あたかも自分の実力のごとくふるまって、われら貧乏人を睥睨している。

そのうえ、その様子をSNSでみせびらかしたりする。

そらあ、嫉妬するわな。


私は昔から、「嫉妬してなぜ悪い」と開き直っている。

私が嫉妬深いのは、私が貧乏な身分に生まれたことと、時代が悪いのであって、私が悪いわけではない。

死ぬまで嫉妬して、死んだらおとなしく「煉獄山」につれていかれるつもりです。



<参考>




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