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安倍報道とマスコミ顕密論

時事問題にはコメントしないつもりだったが、長年考えてきたことと関連するので。


なぜ安倍叩きは過熱するのか

安倍前首相を弁護する気はないが(議員辞職した上で選挙の洗礼を受けたらどうか)、マスコミの彼への追及も異常である。

これは、私がマスコミにいるあいだから感じていた。マスコミ、とくに朝日・毎日・東京(中日)などの左派と、左派マスコミに育てられた(左派マスコミが言ってほしいことを言ってくれる)辻元清美のような議員は、安倍氏が登場した時から牙をむき出しにし、今も、何としても再起不能になるまで叩き潰したいと思っている。

(ちなみに、どんなに党名が変わっても、土井たか子のお気に入りだった辻元清美がいるところが「社会党」だ、と覚えておけばよい)

その情熱に匹敵するのは、私の記憶では、石原慎太郎を都知事選のたびに落とそうとしたときくらい、いや、それ以上であろう。

追及するのはいい。しかし、なぜそれほどに、というところが、一般の人には伝わりにくいのではないか。マスコミにいた私もよくわからなかったのだから。

マスコミを退職し、こういうことだったのではないか、と考えたのが、以下の説だ。


マスコミの権力性

ジャーナリズムの基本は、冷静な観察者であることだ。

よく議論になるが、たとえば戦争で人が殺されそうになった時、ジャーナリストは何をすべきか。人を助ける、ではなく、その「殺し殺される」場面を冷静に記録せよ、が正解とされる。

だが、マスコミに長年いて思うが、その現場にいて、「冷静な観察者」であることは不可能だ。

世の中を動かしたい、変化させたい、と思う。なぜなら、それができるから。

上に挙げたような戦争の場面では、現場への関与は本人も傷つく大きなリスクがある。

しかし通常、マスコミの中の一人一人は、匿名性に守られ、そのようなリスクはほぼない。社会に気づかれることなく、社会を動かせる。

そうすると、ますます動かしたいと思う。なぜなら、それが(ほぼ)リスクなしにできるから。


マスコミは「寺社勢力」

つまりは、マスコミも一つの権力である。それなのに、権力である自覚があまりなく、それ自体を制約する権力がない、というところに問題がある。

よくマスコミは第4権力と言われるが、そもそも「三権分立」というのはお題目にすぎない。とくに日本の司法はいわゆる「消極主義」で権力の一角になっていない。

私は、政治権力、官僚権力、マスコミ権力、の三つが日本を動かしている、と考えている。

そこで、黒田俊雄・京大教授(故人)が日本中世について唱えた「権門体制論」が参考になる。

黒田によれば、日本の中世では、「公家・武家・寺家」の三つの権力(権門)が、それぞれ閨閥で複雑に結びつきながら、対立・牽制していた。

つまり京都の貴族勢力、鎌倉の武士勢力、奈良の寺社勢力である。

今の日本に置き換えれば、霞が関の官僚勢力、永田町の政治勢力、有楽町の、と昔は言えたのだが今は方々に散らばった、マスコミ勢力だ。

マスコミは、中世に置き換えれば、奈良を中心とした寺社勢力に匹敵する。


権力を支える思想

仏教の寺院が、中世になぜそれほど力を持ったのか、現代の我々にはなかなか想像しにくい。

中世の終わり、織田信長が寺社を焼き払った、と聞くと、なんとかわいそうなことを、とか思う。

今の寂れた寺社を見ればそう思うが、中世の寺社はもちろん違う。僧兵などで武装していたのもそうだが、重要なのは、それが国家権力に正当性を与える「イデオロギー装置」だったということだ。

イデオロギー装置、というとマルクス主義的だが、要するに、宗教(仏教)が権力に根拠を与えていた。権力支配というのは、いちばん喧嘩に強いから、だけでは成立・安定しない。それを正当化する思想が必要なのである。

その役割を果たしたのが仏教だった。天皇家の祖先はブッダ起源の高僧の垂迹(生まれ変わり)であり、生きている天皇もまた皆仏教徒となり、飢饉や疫病のさいは天皇家が仏教儀式を主宰することで救われようとした。

いや、天皇家は仏教ではなく「神道」だろう、というのは今の考え方だ。古代から中世は、仏教がとにかく一番偉かったのである。明治以前は、天皇の代替わりも仏教式に行われていた。今の「神道」は、近世に整備され、明治国家によって完成した最近のものと言える。

ともかく、中世に寺社がになった権力の正当化作用を、今はマスコミが果たしている。そのさい「仏教」の代わりになっているのが「民主主義」だ。

中世では、仏教の考え方で正しいから権力は正しいとされた。同様に、今の権力は、民主主義という考え方で正しいから正しい、となる。

そしてその「民主主義」という教義を主祭するのがマスコミだ。中世の寺社が仏の道を示したように、現代のマスコミは「民意」を示す。それが、他の権力(政治権力・官僚権力)の正当化根拠になるのである。


法を超えた審判者

マスコミは、そういう意味で、司法以上の審判者だ。法的には問題ないことでも、マスコミが言えば「罪」になる。今だったら不倫、ポリコレ、セクハラ・パワハラなどの多くがそうだし(暴行、名誉毀損その他の法に触れるものはもちろん罪だが)、かつて大騒ぎしたリクルート事件だって法的には問題なかった。マスコミが騒げば罪になるのである。かつて中世の寺社が政治的敵対者を「仏敵」と名指しし、呪い殺そうとしたように、である。

政治家に対しても、官僚に対しても、財界人・芸能人に対しても、最終的に審判し、時に社会的制裁を与えられるのもマスコミだ。

なぜマスコミがそのように強いのか、というのは、中世になぜ寺社勢力がそれほど強かったのか、と同じ問いになる。中世の権力が仏教に頼ったように、今の権力もマスコミに頼るしかない。他に権力の正当化装置がないのだ。

寺社権力の特異さは、貴族や武士の権力者と門閥で結ばれたいたことだ。貴族、武士の有力者の子女は寺社・僧院で「修行」をする。そこで権力者としての資質をはぐくむ。そのまま「遁世」して、名家出身者が寺社のトップに君臨することもあるが、普通に髪を伸ばして世俗権力への復帰もできる。

今も、政治家や官僚の子女は、いったんマスコミに就職することが多い。ここでも、中世の寺社と同様の役割である。


マスコミの「顕密主義」

以上は前段で、本題はここから。

それでは、中世仏教の教義の「中身」は何か言えば、それは「顕密」と呼ばれていた。これも、黒田俊雄の有名な「顕密体制論」だ。

中世の仏教で一番偉かったのは空海・最澄がもたらした密教であり、当時、それを学ぶことを「顕密を学ぶ」と言った。

顕密とは何か。「顕」は、仏教の経典を精査し、論理的に整合させ、書物に書き表わせる教義だ。人びとが一般に聞く説法はこの部分となる。

しかし、その奥に「密」がある。これは、直感によって把握するしかない仏教の奥義であり、高僧からの口伝でしか伝承されない。

この「顕」と「密」が表裏一体となったのが「顕密」だ。そして、「顕」よりも「密」がより重要とされていた。


マスコミが信じる「奥義」とは

今のマスコミも、同じような「顕密」で動いている。

「顕」は、論理的に説明できる部分だ。安倍前首相の行為は、民意によって決められた政治資金規正法の便宜供与に当たるから違法で罪だ、というのは分かりやすい理屈である。

(まあ、桜を見る会については、それに出席したネトウヨたちがはしゃぎ過ぎて、さらにサヨクの反感を買った、ということもあるだろうが)

しかし、その奥に「密」がある。それは、

1 日本の保守政治家の一部は、つねに前の日本の侵略戦争を正当化しようとし、機会があればまた侵略戦争をしようとしている。

2 憲法改正は、1の目的のために行われようとしている。

という「教義」に集約される。

これは、論理や証拠で明らかにされたことではない。また、言葉にされることも稀である。しかし、マスコミの一部はこれを「直感」で把握しており、多くのマスコミ人に、口伝で、というより以心伝心の形で共有されている。

これが、今の左派マスコミの教義の「密」に当たる。

これは、マスコミのみならず、戦後の思想界、論壇、アカデミズムにかつて広範に共有された信念でもある。左派マスコミ人の多くは、教育によってそれを取り入れ、まだ信じているのだろう。

実際、30年くらい前は、この「密」の認識が、エリート・ジャーナリストになる入り口だった。この「密」認識を共有することで、例えば東大教授とも、社会党とも共産党とも、以心伝心で話が通じたのである。

マスコミの「顕」(表に出す報道)は、この「密」と一体でないと意味がない。これがマスコミの顕密主義である。それによれば、「密」の部分こそがマスコミの行動原理になるべきなのである。

彼らにとって、「密」を会得したジャーナリストこそが、真のジャーナリストとなる。


安倍氏が狙われる理由

安倍晋三氏は、この「顕密主義」によって有罪とされている。彼が保守の家系で、とりわけ憲法改正に熱心だからである。

「密」の部分は、直感によって把握される奥義なので、いくら安倍氏が「いや、戦争なんて考えていませんよ」と否定しても、マスコミは聞く耳をもたないだろう。

安倍氏を叩いて、憲法改正などと言い出す者が今後出ないよう、見せしめの意味もある。

私は、この「密」の部分が、まったくの事実無根だと言いたいわけではない。一方、事実だとも思わない。要するに判断の根拠が与えられてない。

つまり、この部分を、マスコミは証拠によって明らかにしていないのだ。直感によってわかる人(左派マスコミ、立憲民主党の左派や共産党など)にしかわからない。そうした「直感」「霊感」を報道姿勢の根幹にもつ限り、わかりにくい報道になるのは当然である。


民主主義を妨害するマスコミ

私自身は、この「密」の部分の、「2」にはとりわけ疑念をもつ。

憲法改正に反対する、つまりは9条を護持すべきだ、と考えるならそれでもいい。

そうだとしても、一度は国民投票にかけるべきだ。戦後、日本で一度も国民投票が行われていないのは、民主主義の観点から、明らかに異常である。

その結果、やはり9条はそのまま、なら、それでもいい。それは民主的に決められた、となる。しかし、今のままでは、そこが曖昧なままである。

マスコミがおこなう世論調査を、選挙や国民投票の代わりにしてはならない。世論調査は、マスコミのサジ加減で、なんとでもなるものである。

世論調査を「民意」と考える限り、人々はマスコミに操作されてしまう。民主主義を真面目に考えるなら、世論調査の結果がどうであれ、国民投票で民意を確認しなければならない。


憲法反対勢力の一部、とりわけ朝日新聞は、これまで「護憲」をあまりに読者に説き過ぎたので、いまさら宗旨替えできなくなっているだけ、という気もする。朝日新聞だってバカではないので、時代が変わったことは気づいているだろう。しかし、「改憲にも意味がある」などと言えば、読者から猛反発を食らってさらに部数が減る。それが怖いのではないか。

しかし、世代が若返るにつれ、毎日新聞なども含めて、「顕密」の教義はぐらつき始めているようにも思う。

いずれにせよ、宗教じみたマスコミに支配されるのはごめんだ、と私は思うだけだ。

(終わり)







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