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弱者に「無限に寄り添う」のは無理

私には「優しい心」がある。

流行っている店と流行っていない店があったら、流行っていない店に入らなければいけないように感じる。

美人と美人でない女がいたら、美人でない方に余計に気を使う。

蚊を殺すのはいいが、蚊だと思ってアブを殺すと引きずる。

(昔の)カンボジアとかインドとかに行くと大変であった。

物乞いとか足のない人とか、「かわいそうな人」だらけで、いくらお金配りしても足りなくなる。

人間には、ほぼ誰にも同情心(共感能力)がある。

しかし、誰でも生きていれば、それに限界があることに気づく。

学校も、メディアも、「人に優しくせよ」と教えようとする。

だが、人間の同情心は生まれつきのもので、教えて身につくものではない。

そして、その能力、その優しさには、限界がある、というもっと大事なことを、学校もメディアも教えないのである。

人間の悲惨をできるだけ少なくするのは人類共通の使命と言っていい。

そこで、人間がもっと優しくなれば、イジメも喧嘩も戦争もなくなり、完全平和な世界が実現できる、という考えがある。

宗教や、左翼リベラルの人が持ちがちな考えだ。(もっとも、初期社会主義を担ったキリスト教系人道主義者の「善意」の限界を突破しようとしたのが、かつての「科学的」社会主義者、マルクス主義者たちだったが)

しかし、人間はすでに十分に優しい動物である。

もっと「優しく」なるためには、人間性の改造が必要だろう。まあ「ロボトミー手術」のようなものだ。

それはすべきではない、というのが保守派や、まともな人間の考えだと思う(保守派も間違ったことをたくさん言う、それを踏まえた上で)。

それよりも、社会を制度的に変えることを選ぶ。豊かにする、とか、公正にするとか。

それは、「暖かい」心による社会改良というより、「冷たい」制度による設計であり、無味乾燥な役所仕事をともなうかもしれないが、世の中をよくするにはその方がいい、というのが、いまの主流の社会思想だと思う。

それは、個人の同情心には限界がある、という事実に基づいている。

それなのに、それを学校で教えないのは、おかしいと思うのである。


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