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ビートルズの革命性と反革命性

ドキュメンタリーGET BACKの公開で、またビートルズの話題に火がついている。昨日はジョン・レノンの命日でもあった。

私はビートルズファンとして、このリバイバルを楽しんでいる一人だ。

ただ、どうしても引っかかることが一つあり、それを書いておきたい。

栗本慎一郎は元左翼だったが、彼ら左翼が日本での革命を最終的に諦めたのは1970年代半ばだとどこかで喋っていた。

それは、60年代から、革命運動より、もっとカッコいいものが発明されて、若者が皆そちらに動員されるようになったから、というようなことを言っていた。

その話と、ビートルズとが、どうしても重なるのである。

ビートルズのメンバーも1970年前後に「政治化」して、メッセージソングをたくさん出したことはnoteの別の記事でも書いた。

ジョン・レノンの「イマジン」「女は世界の奴隷か」、ジョージ・ハリスンの「バングラデシュ」、ポール・マッカートニーの「アイルランドに平和を」などだ。

しかし、それらが具体的な政治運動に結びつくことはなかった。ジョージのそれが、有名人のチャリティを流行らせたくらいだろう。

彼らは、いま振り返れば、革命の季節の終わりを象徴していた。

ジョン・レノンとオノ・ヨーコの「平和運動」のトンチンカンぶりは言うまでもない。ジョン・レノンは、世間はオノ・ヨーコをいじめている、という被害者意識を持っていたが、オノ・ヨーコが特権階級の安田財閥の女だということ、それが階級性にこだわる左翼一般や大衆からどう見られているか、など全く意識になかったようだ。

そのことをいまさら責めるのも変な話で、彼らに罪があるとは言えない。

罪ならば、ローリング・ストーンズのような、「反抗者」のふりをして資本主義の恩恵をたっぷり受けつつ長生きしている連中の方に、余計あるだろう。

所詮はエンターテイナーで、幻想を持つ方がおかしいと言えばそうなのだが。

そして、西欧社会で革命が起きなかったのを私が残念に思っているかというと、それも違う。

ただ、1970年前後の時点を思い返せば、「幻想」には現実味があったし、その「幻想」を彼らが利用していた面も確かにあった。

いま50年たって、そうした政治幻想を徹底して脱色した「純音楽」としてビートルズを語るのが一般的になったことに、違和感もあるのだ。

ドキュメンタリーの中の彼らが、なぜ長髪でヒゲもじゃなのか、なぜ警察官などの「真面目な世間」と対立するのが「当たり前」なのか、といった文化的・政治的意味は、もう若い人には伝わらないだろう。

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