見出し画像

ミモザへの視線ーー「壁をこえて対話するために」

築38年の家で暮らしている。
2年前に引っ越してきたのだが、そのときにはすでに庭の木が数本枯れていた。木にも寿命があるんだな〜と実感する。シロアリの巣になってしまうと困るので、がんばって根元から引き抜くことにした。

数ヶ月に及ぶ格闘の末、木はすっぽりと抜けた。
しかし今度は困ったことに、道ゆく人の視線が気になるようになってしまった。庭の隣は空き地になっていて、その奥に道路がある。その道路と家の床の高さが一緒で、外の人と目が合ってしまうのだ。

庭には灰色のブロック塀がある。
木を植えること前提だったのか、隣に家があるときは高くする必要がなかったのか、いずれにしても38年前には気にならなかった(であろう)塀の高さが気になるようになった。
道ゆく人にとっては、景色のなかのひとつの塀であったとしても、そこに暮らす自分にとっては毎日見つめる塀だ。
このままではなんだか落ち着かないということで、塀のまえにミモザ(ギンヨウアカシア)という木を植えることにした。一年経ち、葉が生い茂ってきて、ようやく視線が気にならなくなってきた。

塀の高さは変わっていないし、葉が茂ったといってもほんの一部しか目隠しの役割を果たしていない。
おそらく道路と家のあいだに見る対象が置かれたことによって、視線の所在が落ち着いたのだと思う。

* * *

先日、映画監督・坂上香さんの『根っからの悪人っているの?――被害と加害のあいだ』書籍刊行記念イベントとして、社会学者・打越正行さんとのクロストーク「壁をこえて対話するために」が行われた。

「壁を超えて」の表現には、刑務所の中と外に加え、若者たちや、被害者、加害者の立場を超えて対話するという本書の試みを意識しています。坂上は、映像制作を通して犯罪の加害・被害をめぐる当事者と、打越は、フィールドワークで沖縄のヤンキーの若者たちと語り合ってきました。彼らとのあいだには、さまざまな違いがあることを前提に、いかに語り合えるのか(あるいは、語り合えないのか)、探ってみたいと思います。

イベント詳細より

トークと交流会では、具体的事例を交えながら、壁はたしかにあること、対話による可能性が語られた。夜更けに及ぶ、刺激的な対話の時間だった。

このあとの文章は、トークでの話を受け取って、「壁」「対話」「あいだ」をキーワードに、いま考えていることを書きたいと思う。

* * *

「壁」、それはあちらとこちらの境界をはっきりとさせ、隔てるために、誰かが(あるいは自分が)作ったものだ。
制度、階層、年齢、障害、差別偏見、性別、人種、コミュニティ……社会のなかにはさまざまな壁がある。

坂上さんと打越さんは時間をかけて、壁そのものや壁の前で生きるひとを徹底的に見つめてきた。
壁はどんな素材をしているのか? どんな形状なのか? そこに暮らすひとにはどんな景色が見えているのか? 時の変化で壁の意味は変わってきたのか? 丁寧に記録して、表現してきた。

壁のまえに身を置き、徹底的に見つめつづけることで、すぐには壁を壊せなくても、フェンスを通り抜ける音や風のように行き来できる方法を発見できるかもしれない。あるいは壁をカーテンに変えるような動きが生まれるかもしれない。
第三者の目にはそんな可能性がある。

一方で、個人的な対話・ワークショップの体験からいえば、「壁」より「溝」に遭遇することが多い。これは、普段わたしが壁をこえて集まった人たちと対話していることが多いからだと思う。

同じ地平に立って、目を見て話していたと思っていても、ふとしたときに自分と他者のあいだに溝があることに気づく。一緒に歩いていたら、いつの間にかクレバスのような大きな溝が出現して驚く。身近な存在であればあるほど小さなひび割れでさえ絶望する。
ひとりひとり見えている景色は異なるはずなのに、わたしたちはついその前提を忘れてしまいがちだ。
時間をかけて話すことで、溝のうえで手を取り合えるときもあるし、溝を埋めた気になって逆に深くなっていたということもある。

わたしたちは無数の溝のあいだを生きている。
壁はなんらかの意図でつくられたものだとしたら、溝ははじめからそこにある。

* * *

大学受験のとき、志望理由書に「演劇(集団創作)は痛みを伴うコミュニケーションの方法で(中略)だからこそ生きる術にもなりうる」と書いた。つっこみどころ満載の青くさい文章だが、根底の思いはいまも変わっていない。

演劇創作も対話も同じで、必ずしも楽しいことばかりではない。モヤモヤするし、不快なことも多い。
坂上さんの学生たちがアメリカの囚人たちとのワークショップで手が震え、友人の涙に動くことができなかったように、対話の場では自分ひとりでは起こらなかった感情の波が立つ。
なにかを伝えようとすれば赤面することもあるし、動けない自分に気づく。また、自分にはなかった視点を獲得することは、感度が鋭くなって、他人の事情に巻き込まれることが増える。

しかし、他の人が場に置いたものを受け取っていくうちに、少しずつ共振しあって人は変わっていく。自分のものの見方を更新する。ひとりであることを実感しながら、誰かとともにいるあたたかさを感じる。
自分が変わらない立場から話していたら、それは単なる発表会や交流にすぎず、対話ではないのだと思う。

* * *

壁のむこうとこちらが行き来できるようになったら、わたしたちは向かいあう。
そこからはじまる対話では、いきなり自分の足元は見られない。その場にいるひとの視線は、わたしとあなたのあいだに置かれるものを見つめる。それは言葉だけではなく、音楽や美味しいご飯、焚き火かもしれない。
そうして視線をやり過ごしながら、訥々とした応答を繰り返していくなかで、次第に各々の立っている場所が明らかになっていく。相手の席に座ってみるようになる。
そのあとはじめて、わたしとあなたのあいだにある溝を見つめられるのかもしれない。

でも、やっぱり壁をこえていくのは難しい。わたしもまずは壁をじっくり見て、抜け道を見つけるところからはじめたいなあ。

トークを聴きながら、中島伽耶子《we are talking through the yellow wall》2023年、を思い出した。展示室を分断する大きな黄色い壁があり、向こう側の様子は音や光で窺い知ることしかできない。わかりあえなさ、対話における不均衡性や暴力性について扱った作品でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?