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人間関係の自然淘汰

先日、職場のある方から

「絡むの久しぶりだね。」

なんてことを言われた。まあ小学校という職場においては基本的に学年で動くことが多いから、他の学年の先生たちとは接点がなければからむ機会が少なかったりする。その方とも担当する学年が違うので、そもそも接点が日々の職場でほぼなかった。

「本当ですね、久しぶりに話す気がします。」

と僕はテキトウに返したものの、じゃあ明日からその人に積極的に話に行くかと問われると、それはまた違う話な気がするのである。

***

子どもの頃からそうなのだが、僕は「みんな仲良く」「誰とでも仲良く」みたいなのが苦手なタイプの人間だ。他人への好き嫌いが激しいわけではないのだけど、満遍なくコミュニケーションをとりにいこうなどとは思わない。だから仕事で関係ある人や興味のある人にしか、仕事中にわざわざ話かけることはない。

だから、もし他の人に「もっと絡んでよ」みたいなことを言われてしまうと、困るのである。なぜなら仕事で関係ない話をするのは無駄な時間だと思うし、そもそもその人に興味がないからだ。こうして言葉にしてみると、なんだか自分が「冷たい人間」みたいに感じられるが、これが当たり前なのではないかとずっと思ってきた。

しかしながらよくよく考えてみると、職場には僕と真反対のタイプの人間がいたりする。積極的にあちらこちらに行き、いろんな人と会話をしている人だ。そんな人は、仕事の関係ある無しに、さまざまな話をしているものだ。そんな人をみていつもすごいなーとは思いながら、会話に巻き込まれるだけ巻き込まれたりする。

そんな行動力もいわゆる「雑談力」の一部なのだろうか。

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雑談自体、僕は得意な方ではあると思うのだが、いかんせん雑談する相手を選びがちである。「雑談」とはいえども、ある程度の時間も労力も使うものだ。雑談しても価値の見出せない人に、大切な時間と体力を使う必要はない。

例えば、政治の話が苦手な人に政治の雑談をしたとしても、相手は興味がないだろうし、会話は広がりも深まりもしないだろう。ただただ、お互いに苦しいだけの時間である。

だから雑談をするときは、相手を選ぶ。選ぶ相手によって、雑談を変える。そんな雑談をする相手とはやはり関係性が他の人たちよりも密である。それはもちろん仕事で日々接する人たちが多くを占めはするのだが、そう考えると僕自身、職場ではけっこう雑談をしている気がする。

だから職場で「久しぶりだね」なんて言われるということは、僕がほぼその人と雑談していないということを意味する。まあそれだけ仕事で接点がないし、僕の興味もないということなのだが。

それで事がうまくいっているのであれば、それでいいではないか。

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職場の規模が大きめだったりすると、全ての人と関わることは難しい。きっと自分の気質に「外交性」という要素がなければ、そのような行動はしないものだ。無理に外交的になろうとしても、苦しいだけだったりする。だから、僕は今の「あの雑談は、あの人に」ポリシーを維持するということでいいのだと思う。

僕たちの人生の時間が限られている以上、何かを得るためには何かを失わなければならない。だから、人間関係で捨てざるを得ない部分があるというのも、自然の話である。事実、大学時代に出会った友人たちでも、卒業から数年経った今で連絡をとっている人たちは限られる。


結局、自分と価値観や何かが「合う」人だけが、自分の周りに残っていくのだ。


そう考えると、職場で「久しぶり」をした人とは、きっと僕とは合わない運命の人なのだろうと思う。悲しいことではあるが、これが自然のことで。

まあきっと向こうもそんなに悲しさみたいな感情はないのだろうけど、しかしながら一期一会であるこの出会いは、いくらかでも大切にしたいものだ。


気が向いたら、絡んでみよう。
(ということは、おそらく絡まないのだろう。)

2024.01.27
書きかけの手帖

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