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ちょっとした、大人な夢

最近、電車の中でむさぼるように読んでいる本がある。

司馬遼太郎の熱狂的なファンではないが、作者の本は、父の影響でそれなりに読んできた。本屋で気になってふと手にしてみたのだが、この本からは本当の意味での「小説の楽しみ方」を教えてもらっている気がする。

小説を読む、といえば、だいたいはほぼ何も考えずに手に取り、あらすじやタイトルを読み、雰囲気で決めて、ただひたすらに読み進める。物語の登場人物に共感したり、反対意見をもったり、その世界に浸って楽しむ。作者本人のことはあまり気にしないのが正直なところ。文体や作風が自分に合うか合わないかくらいの話で、作者の過去をで遡ってまで読んでみたりはしない。

だが、作者の過去や生きてきた時代背景に焦点を当てると、その小説の一行一行やセリフの意味の捉え方が、大きく変わってくる。異なる味わいとなって、僕たちに語りかけてくるではないか。

そこまで分析して小説を読んで、はじめてファンと言えるのかもしれない。

そういう意味では、僕は誰かのファンと言えるほどにまだ小説を読んでいないなと感じるし、そういう「ファン」の読み方をしたいなと、憧れの気持ちも抱くものである。

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僕が好きな民俗学者で、赤坂憲雄さんという人がいる。その方の『柳田国男の読み方―もうひとつの民俗学は可能か (ちくま新書 7)』という著作の中で、著者が「全集」を読むことの魅力を語っていた。

全集を読むということは、作者についてより深く知ることだと思う。
初期から末期まで、ずらっと作品が並んだのが全集。時代を追うごとに見えてくる変化に気がつき、その理由わけを探る。そうすることによって作品をより味わうことができる。

いずれであれ、わたしの三十代はこの『定本柳田國男集』とともにあった。わたしが生まれてはじめて手に入れた全集である。そして、全集を読むことの不思議な快楽を教えてくれたのも、この『定本柳田國男集』だった。

柳田国男の読み方―もうひとつの民俗学は可能か』(ちくま文庫)/ 著:赤坂憲雄

赤坂氏が味わったのは、柳田國男であった。著書の中で、赤坂氏は柳田國男の様々な面を発見し、分析していた。それは、赤坂氏と柳田國男との直接対話であり、彼らが対峙している間は独特の空間と時間の流れがあったのだろうと想像する。その人の初期から末期まで時代を駆け抜けることができるのが全集である。

「不思議な快楽」が生まれるはずだ。

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僕も「全集」が欲しい。「全集」を読破してみたい。

が、まだそんな出会いもない。

出会いもないのだが、今この瞬間に出会ったとしても、お高い買い物である。買ってもいいのだが、なかなかの勇気がいる。いずれにせよ、まだまだそんな全集を読むようなタイミングに、僕はいないらしい。

今回、司馬遼太郎の過去に触れたことによって、司馬作品の味わいが以前とは全く変わったように思える。そのセリフの言わせ方や時代の描き方など、そんなところに着目すると、司馬氏の思想や考えが浮かんでくるような気がする。

もちろん、今の僕にはまだそんな能力はない。だが、いつの日かきっと誰かの全集に出会い、書いた人との対話を重ねることができる日を願っている。

それまでは、これまで通りの「乱れ読み」を続けていくだろう。


それが僕の、ちょっとした大人な夢である。

2023.09.24
書きかけの手帖

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