精神疾患と遺伝(3)私の生い立ち③
精神疾患と遺伝(1)私の生い立ち②の続きになります。
富士通を辞めてからわずか1年足らずでKDDI子会社、日本テレコムを退職したのですが、この短期間で転職活動をして相当な疲労度でしたが、嫌な事から逃げる事しか考えつかない浅はかな僕には、それしか手段がなかったので、後年、重度のうつ病となるなど想像すらつかず、ただ一直線に駆けるしかありませんでした。
次の転職先は、これまでのIT・コンピュータとは無縁な、フードサービスを提供している外資系企業でした。さりとて英語力はさほど必要なく、せいぜい月間レポートの英文を書く程度で日常会話での英語力が不要だった点と、無形商材、いわゆるモノ売りの営業ではなかったので、富士通時代のソリューション営業力が活かせる事をアピールしての入社となりました。
この会社には15年いることになるのですが、その15年は、居心地が良いから長く勤めた訳ではなく、もう逃げる事ができない、雁字搦め(がんじがらめ)になってしまったからです。
入社翌年、独身なのに3LDKの中古戸建を埼玉県で購入しました。これは将来両親を引き取る事を目的としていたのと、毎月7~8万円の家賃を払うのなら、住宅ローンも同じくらいで将来資産となると考えたからです。そして三十路を過ぎてから土日に自動車教習所に通い、AT限定ですが自動車免許を取得し、マイカーを購入しました。週末はドライブで関東近郊の温泉に浸かりに行く悠々自適な理想的な生活を入社して2年ほど過ごしてきました。
しかし、3年目に、別部署でクーデターみたいな派閥抗争が起き、私が懇意にしていた上席の幹部がその部門を掌握する事になりました。そして、私に異動して右腕として働いて欲しいと社内ヘッドハンティングされたのです。この異動に際し、ひと悶着はありましたが、その上席の幹部の部下として、身売り寸前だった赤字部門の経営再建に粉骨砕身で挑み、見事に1年で黒字化に成功を収めたのです。ここまでは順調なサクセスストーリーなのですが、その後、黒字化した後、部門長からふとした際に金を貸して欲しいと言われました。理由はわかっていました。上司とみんなで呑んでいた際に、競艇で70万負けたと大笑いしていたのですが、まさかそれが本当とは思わなかったで、一瞬躊躇しましたが、執行役員でもある上司が、まさかトンズラする訳がないと思いましたし、何よりお金を貸す事で偉大なる尊敬する上司に恩を売る事が出来るという下心もあり、その時に50万円を貸しました。それがまさか破滅のシナリオの序章となるとも知らずに。
上司は結局満額返済はせず、その後も幾度となく金を無心してきました。私はなかなか断る事ができない性格で、貯金も相当額ありましたし、何より金を貸すたびに「あんたは近いうちに営業企画部長にしてやるから」というリップサービスもあって、まだ30代後半の若造の私は、すっかり熱病に冒されていました。気が付いたら貸した金は300万を超え、貯金はすっかり底を尽きていました。そしてそんな状況を知っているのに上司はなおも金をせびってきました。金が無ければ借りて来い、と言わんばかりで、この時にもう貸した金を諦めて「逃げ」れば良かったのですが。いつかは返してくれるだろう、という淡い期待感と、貸さなければお前の出世は無いと暗に恫喝してくる上司のオーラに負けて、ついに私自身がカードローンで借りて、その金を上司に貸すという事になりました。今思えば、上司にしてみれば、私は体のいい金づるだったのでしょう。だんだん私も金銭感覚がおかしくなり、気が付けば上司に貸した金は500万円に達し、私自身は最終的に450万円の借金を背負う事になったのです。もう貸す金が無い私に何度も上司は無心してきましたが、もうカードローンも組めないと断ると、クレジットカードを現金化しろと凄んできました。さすがにそこまで堕ちる訳にはいかず、頑として断りましたが、もう限界で、尊敬していた上司でしたが、さすがに逃げようと思いましたが、おり悪くリーマンショックの時期でもあり、今の給料と同額で雇ってもらえる会社は無かったのと、アラフォーで手に職も無い私は書類選考だけで落とされること百数十件、もうさすがに今度ばかりは「逃げ」る事ができませんでした。今月の借金返済の為にカードローンで不足分を補い、そんな自転車操業が数年続き、今までにないほどに精神的に摩耗し切っていました。2009年に初めて心療内科でうつ病と診断された後も、うつ病なんてただの心の風邪程度にしか考えていない状態で、不眠・寝坊・気だるくて無断欠勤、そんなことが常態化していましたが、唯一悪魔だった上司が天使に見えたのは、そんな私に「やる時にやればいい、休みたい時は休め」と、今思えはそんな風になったのはあんたのせいだろうが!と思ってしまいますが・・・。
私の不良社員っぷりは、当たり前ですが周囲からは快く思われておらず、その後社長レースに乗る為に営業部門での実績つくりの為に経営企画部から乗り込んできた専務からは当然ながら目をつけられ、もうさすがに上司も専務には敵わずに助けてもらえず、北海道支社に左遷させられてしまうまでに至ってしまったのですが、幸いに専務は社長レースから脱落し、勝ち残ったのは別部門の常務で、その側近の事業部長とは北海道時代に懇意にしてもらい、私は晴れて北海道から東京本社に返り咲くことが出来ました。
もうかつての上司からは金の無心は無くなりましたが、返済の意志もありませんでした。そんな中、専務が失脚し、退職していったので社内で役員異動があり、上司はワンランク上に出世しましたので、私の直属の上司ではなくなり、その間に別の事業部長が私の新しい上司となったのですが、その事業部長が専務派の残党だったので、私は当然ながら激しいいじめに遭いました。もうさすがに限界で、辞める事はできないが何とかならないかと考え、休職して傷病手当金を貰えば給与の7割(組合健保が1割上乗せしてくれたので)は貰えるので、今でもギリギリだけど何とかなるかもしれないと思い、休職に踏み切りました。本来なら金を貸した上司の事も含めて労災、いや詐欺告訴もできたのですが、その時はとにかく執拗ないじめから逃げたいだけでしたので他になにも考えられませんでした。
かくして1年半、私は休職し、その間に借金を完済できた事は、以前のnote
(こちらをご覧下さい)にも書きましたので、この長かった外資系会社での生い立ちは、ここで終了させて頂きます。
次回からは、私の家族の事をnoteします。タイトル回収ともなる、遺伝についての事を書きます。
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