「愛にイナズマ」鑑賞録②

後半は、本物の家族にカメラを向けるところから始まる。自分をコケにした原や荒川を見返したいという反骨心から自分の信念を振りかざすが、果たして…

・父と兄
花子は実家の父にカメラを向ける。頼りなさげな彼は精いっぱい娘の想いに応えようとするが、演技経験もなければ趣旨もよくわからない。
 軽蔑さえ含む眼差しを花子に向けられつつも、どうにか娘の映画を成立させてやろうと残りの家族である兄2人を呼び寄せた。
 長男は、社長秘書というエリートであり、次男は敬虔なクリスチャン。しかし、家族仲は最悪で、一堂に会して尚、お互いへの罵倒が止まらない。

・治
 そんな父には、いくつかの秘密があった。鑑賞後の今思えば、それらは愛情に他ならない。頼りなさげなその振る舞いも、自分のことは二の次に娘や息子を想うその姿も、女が消えた真実も…
 父の愛情の源は何だろうか。子供達には真実を伝えず、ただ穏やかに生きていてほしい。そんな家族を思ってこその愛情だったのではないだろうか?
 彼は胃癌を患い、余命1年の宣告を受けている。だが、花子をはじめ子供達には伝えない。子供たちの幸せや喜びを只管に願い、ただ、出来るなら最期の前に集い、お互いの生身のぬくもりを感じたかった。そんな、父の愛。

・誠一
 なんだかいけ好かない男。乗りつけた高級車も、手に入れた役職も、何もかも。しかし、社長には「形ばかり」と呼ばれ、言うならば小間使い。でも、家族の前では踏ん反り返り「俺は長男だから」と虚勢を張る。
 そんな彼の虚勢は映画の終盤には、自分を奮い立たせる優しい虚勢となり、振り返れば痛々しくも微笑ましい愛情の具現となっていた。

・嘘
劇中にはいくつもの嘘が出てくる。
 すべてが、このどうしようもない現代社会の汚点を指している訳でない。腐敗の象徴である「嘘」と対になる愛情的「嘘」が混在している。
 また、嘘や否定は事実ないしは、真実を示す働きもしている。
 花子はきっと、嘘が嫌いで仕方がない。自分の存在を否定されるような、蔑ろにされているような気持ちになるからだろう。花子を思う優しい嘘も、その優しさを知っているのは何時も嘘をつく側である。彼女を蔑ろとする側なのである。その優しさに気がついた時、彼女は何を思うのか、羞恥か、それを上回る悔しさだろうか。

・機械的な店員
母親の携帯を解約するために携帯ショップを訪れるシーンにて、店員の女が「規則だから」「証明できるものを」と繰り返すシーンがあった。
 まるで機会に問いかけているような、一面的な回答には、視聴者もきっと辟易したことと思う。しかし、あの手の無慈悲は現代の象徴とも言えるだろう。
 どこに問い合わせしようにもチャットボットで堂々巡り、やっと人間にたどり着いても、契約だから規則だからと跳ねのけられる。自分が誰だかなんて分かりやしないのに、何をするにも証明を求められ、証明書の方が本体であるかのような、人間個体の存在の危うさ。
 書類がそろえば、人は生きていなくても存在ができてしまう。この世界が成立するためには、個人が必要なのではなく、ありとあらゆるそれらへの証明が必要なのである。
 現代において家族の証明は、いったいどうすればできるのだろう?愛情の証明はいったいどうすれば…

・花子
認知の象徴?

 主観であり、傍観であり、記憶そのものである花子。
構えたはずのカメラには尽く映像が記録されない。しかし、花子自体がこの物語における記憶であり、証明として存在できるのではないだろうか。
また、現代社会の認知者としての役割があったと言えるのではないか。

・遺灰を舐めた意図
亡くなった父を自分の中に取り込む。父の生き様や愛情、寂しさ、愛しさ。先ず浮かぶ解釈と、その異常性による場面の転換。
 食事とは、外ならぬ「生」との直結。花子に「父の遺灰」を食べさせることに、前向きな未来が表現されているのではないだろうか。

まとめ
 前半はアイロニックに現代社会を風刺するコメディであり、後半はそんな時代に巣食う愛すべき家族の物語。
 足を引っ張り合い、舐められ、嘲笑されるこの腐った世の中と、仮面を外し本音で殴り合うからこそ生まれる愛情と絆。
 映画が完成し、賞を取るような綺麗事で終わらない所に本気とブレなさを感じ、また自分事として大切にできる物語にしてくれた。

最後に....
松岡茉優さん最高です。


※この鑑賞録は筆者の備忘であり、デタラメな感想文にすぎません。

「愛にイナズマ」鑑賞録①はコチラ↓↓↓

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