『金閣寺』三島由紀夫 「テーマは美意識なんだよね」と、一発かます
○はじめに
このnoteは、まだ本を読んでいない人に対して、その本の内容をカッコよく語る設定で書いています。なのでこの文章のままあなたも、お友達、後輩、恋人に語れます。 ぜひ文学をダシにしてカッコよく生きてください。
『金閣寺』三島由紀夫
【三島由紀夫の作品を語る上でのポイント】
①「三島」と呼ぶ
②文章が力強いと言う
③生き方に感心する
の3点です。
①に関して、どの分野でも通の人は名称を省略して呼びます。文学でもしかり。「三島」と呼び捨てで語ることで、文学青年感1割り増しです。
②に関しては、本当に力強いです。何度殴ってもダウンしない強靭なタフネスの男のようです。
③に関しては、三島はまるで武士のように、「死に様」を常に考え生きていた人間です。文豪と呼ばれる多くの天才小説家と同じように彼も自殺をします。
○以下居酒屋での会話
■三島由紀夫の美意識が書かれている
「まだ20時だね。どうしよう、もう少しだけ飲んで2軒目行くか。同じのでいい?すみません、獺祭一合お願いします。
重厚感のある小説か。そうだな、三島由紀夫の『金閣寺』がオススメかな。知ってる?あ、そうそう。内容はちょっと難しいけど、その分濃厚でガツンと来て読み応えがあるんだよ。
三島の文章は力強くて読んでると疲れるんだけど、ノーベル文学賞の候補にもなったくらいだから、日本だけでなく世界的にも有名なんだよ。『仮面の告白』とか『潮騒』とか色々書いてるけど、その中でも僕が好きなのは『金閣寺』かな。『金閣寺』ではね、一貫して「美意識」について書かれている小説なんだよ。
金閣寺って今も京都にあるけれど、あれって一回燃やされてるって知ってる?確か1950年に当時金閣寺のお坊さんの修行をしていた青年が火を点けたんだよ。その事件を題材にして、どうしてお寺の若い修行僧が、どんな心理状態で、どんな考えを持って金閣寺を燃やしたのかを、三島由紀夫なりの解釈で語ったのが『金閣寺』なんだよ。
■金閣寺=美
『金閣寺』はね、貧しいお寺で育った溝口という少年が主人公なんだ。溝口は幼い時から、寺の僧侶であるお父さんから「金閣寺は美しい。この世で一番美しいものは金閣寺だ。」って言い聞かされて育てられたんだ。「お前は金閣寺で修行できるようになりなさい」って言われるんだよ。金閣寺は当時から超有名で、お坊さんにとってそこで修行するのはいわばエリート街道なんだよね。だから溝口も「金閣寺は美しい、金閣寺は美しい」ってずっと思って生活していたんだよ。だから例えば、お花を見たら「金閣寺みたいに綺麗だな」とか、夕日を見たら「金閣寺のように美しいな」みたいな感じに、金閣寺を美のイデアとして捉えていたんだよ。
そこから月日は経って、夢が叶って溝口は金閣寺に修行をしに行くことになったんだよ。溝口は、修行できるのはもちろん嬉しいんだけど、幼少期から心の中にある美の究極体である金閣寺をこの目で見られることに興奮するんだよね。とうとう対面の時がやってきて、溝口はドキドキして、夢の金閣寺をその目で見るんだけど、なんと、全然美しくないんですよ!溝口は衝撃を受けるんだよ。本物の金閣寺よりも、自分の心の中にある金閣寺の方が美しかったんだよね。この金閣寺が美しくないとおかしい、だけど、現実の金閣寺はどうもつまらない。こんな葛藤から『金閣寺』は始まるんだよ。
■「現実」の美と「イメージ」の美
溝口は悩むんだよ。現実の金閣寺、イメージの金閣寺、どっちが本当の「美」なのか。この葛藤がこの小説の主題。美意識。美とは何か。
この悩みは僕らも経験あるよね。例えば、海外旅行をすごい楽しみにしてウキウキで想像するけど、実際に来ると思ってたより綺麗じゃなかったり。有名だからとりあえず来てみたけど、マーライオン、こんなもんなの?みたいな肩透かし食らった感じ。想像より現実の方がつまらなかった経験たくさんあると思うんだけど、それをより高尚に扱っているのが『金閣寺』なんだよね。イメージと現実どちらが本当の美なのか。
■移ろいゆく金閣寺
そんな溝口だったけど、つまらない現実の金閣寺がある瞬間ものすごく美しく見える時が2回あったんだ。
1回は音楽が流れている時なんだよ。溝口の友達に尺八が得意な人がいるんだけど、その友人が尺八を奏でている時、金閣寺は物凄く美しく見えるんだ。例えばテレビでも映画でも、音楽が流れるだけで何気ないシーンが感動するものになったり印象深くなったりするでしょ。BGMとしての音楽。実は三島がここで音楽を出したのはそういう意味ではないんだよ。ここで三島はね、「音楽が流れると金閣寺が移ろいゆくものになる。だから美しく見える」って、書いてるんだ。つまりね、金閣寺って何百年もそこにあり続けた不滅のものでしょ。永久不滅で変化しない。一方、音楽は絶えず消えていくものでしょ。旋律は確かにあるんだけど、常に変化して流れている。形がなくて移ろい行くものだよね。
だから、ずっと昔からあって未来永劫そこにあり続ける不滅の金閣寺に音楽が加わると、そこに時間が流れる。時間を意識する。無限の金閣寺に音楽が足されると有限になる。そうすると金閣寺は移ろい行くものに見えるんだよ。だから溝口は美しく感じたんだ。めちゃくちゃ深いでしょ。
それともう一回の美しく見える瞬間はね、戦争が始まった時なんだ。第二次世界大戦のことね。戦争が始まると、果たして僕らは明日生きているのかって命の心配をするでしょ。金閣寺も同じように、そこに永久にあるはずだったものが、明日あるか分からないぼやけた存在になるんだよね。三島は、「金閣寺は時間の海を渡ってきた船のようである」って表現してるんだけど、そのずっとあり続けた金閣寺が、空爆で木っ端微塵に吹き飛んでしまうかもしれない。永久にあり続けると思ってた金閣寺が急に危うい存在になる。そうなると、また輝きだすんだよ。これはなんとなくわかるよね。もののあはれだよね。
■不滅の金閣寺
だけど結果として、溝口は同じ戦争から絶望も味わうんだよ。日本が負けて戦争が終わると、あたりは焼け野原になって人もたくさん死んだ。だけど金閣寺はとうとう空襲に焼かれずに残ってたんだ。これからも超然とそこにあり続ける金閣寺が溝口を絶望させたんだよね。もう移ろい行かない現実のものになってしまったんだよ。
最終的には、1950年に起きた事件を題材にしているから、この小説の中でも溝口は金閣寺を燃やすに至るんだよね。燃え盛る金閣寺を山の上から見て、タバコに火をつけて一服する。そして「これからも生きていこう」と心に決める。これで話は終わり。
僕らの日常生活でも時々起こる現実とイメージの美の乖離に真面目に取り組んだ小説なんだよね。
■三島はイメージの美を選んだ
この小説の中で明確に答えてはないんだけど、僕の解釈では三島は、結果として現実ではなくイメージの美を選んだと思うんだ。僕は『金閣寺』の最後のシーンは、現実と別れを告げてイメージと共に生きていく三島自身の決意証明だと思うんだよね。
これは本人の死生観にも繋がるんだけどね、三島はエッセイで、「男は45歳、女は35歳まで」って言ってるんだ。そこまでしか生きちゃいけないって意味なんだ。三島は自分の死ぬ年齢を45歳と決めていたから、そのゴールに向かって究極の死に方を常に自問してたんだよ。「どう生きるかはどう死ぬか」。三島は死に様を考えてたんだ。三島は30代になってから筋トレを始めて筋肉をつけたんだけど、その理由はかっこいい死に様を見せるためなんだよね。あるエッセイで「体に贅肉があったりやせ細っていたら死に様の体裁が整わない」って語ってるんだ。美しく死ぬためには筋肉をつける必要があったんだ。そして実際に三島は市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺をするんだよ。45歳の時に。
■三島のタイムリミットは45歳
例えば筋トレしたり勉強したり僕らが何かに努力をしている理由って、成功したいとかモテたいとかお金稼ぎたいとかただの趣味とか、色々考えられるけれど、要は全て「現実世界を充実させたい」からだよね。でも、三島が筋トレをしたり小説を書いたりするのは、全て「美しく死にたい」からなんだよ。確かに深く考えると、生きている時の行為は全て死ぬ時の状態に繋がっているから、生きることは死ぬこととほぼ同義なんだよね。だけど、僕らは明日も明後日も自分が生き続けるって思ってるから、今の行為が死に繋がってるとは意識しない、すなわち「死に様」なんて普段考えないよね。でも、自分のタイムリミットを45歳に設定してる三島は、朝ごはんも、筋トレも、仕事も、睡眠も、全て死に繋がっていると意識しているんだよ。確かに三島の考え方は一理あるけれど、ものすごいストイックな死生観だよね。
溝口にとっての金閣寺は、現実で普遍的に美しいから、燃えて現実から消えた時、そのイメージがより究極な「美」になったんだ。それと同じで、三島自身も、生きている時に数々の作品や言葉を残し、肉体までも美しいものにしたから、その体が現実から消滅した時(死んだ時)、そのイメージは究極な美になったんだよね。事実、三島が残したイメージに魅かれて、死後多くの人が彼を研究して愛読しているよね。現に今僕はここで、現実では会ったことのない三島をイメージだけで語ってる。イメージをより究極な美にするために、現実を強く、美しく生きる。そういう生き方を三島はしていたんだよ。かっこよすぎるよね。
よしじゃあ二軒目いくか。すみません、お会計お願いします。」