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【絶望三部作】『Evermore』第1章:いざ、イタリア ②(第3部:イタリア旅行記)

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 永遠の都、ローマ。

 イタリアの首都として機能するこの大都市には、コロッセオのような豪壮な建造物からフォロ・ロマーノやパラティーノの丘に散らばる無数の遺跡の断片に至るまで、ごろごろと野良猫みたいにところ構わず歴史が転がっている。
 街全体が巨大なタイムカプセルに閉じ込められてしまっているかのようで、かつての大帝国の ” 置き土産 ” は、今もなお、崇高な保全意識の下、守られ続けている。

 俺とシュンは、” あの映画 ” の聖地をとことん回ろうと決めていた。
 さしずめ、” 真実の口 ” に会いに行くべく、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会へと向かった。
 トクサのようににょきっと生えた高い鐘楼しょうろうに隣接するバシリカの前には、予想どおり、長蛇の列ができていた。
 聖堂の外壁に飾られた円盤状の石の彫刻は、元々、” 下水道のマンホール ” だったと言われている。
 そのマンホールに手を突っ込み、記念写真を撮影するという目的のためだけにローマの観光客は自動的にその長い長い待機列へと並ぶのだ。
 一時間ほど並び、ついに、ふたりの順番がやってきた。
 恐る恐る、シュンが不気味な男の…、いや、失礼。ギリシャ神話に登場する ” 神様 ” の口の中へ、彼の細くて長い指を挿入する。
 いいぞ、シュン。その不安げな顔…。まるで、すっかりアン王女のようではないか。
 軽くはにかみ、軽く強張った表情で、彼は ” 世界一有名な下水道のマンホール ” と共に、写真の中に収まった。
 その後、俺もその一連の行為に及んだ。シュンに「こっち向いてよ、有季」と言われ、一眼レフを向けられた。
 正直、写真を撮られるのは苦手なのだが、結局、俺も高揚した。

 それからふたりは「スペイン広場」へと向かった。そこは、あの映画の名シーンのロケ地としても知られる、ローマ観光において絶対に外せないスポットのひとつでもある。
 シュンはこの麗しい石造りの大階段で、アン王女にならい、優雅にジェラートを賞味することを目論もくろんでいたのだが、この頃にはすでに「階段での飲食は禁止」となっていた。
 敢えなくその夢が打ち砕かれたシュンは、すっかりしゅんとなってしょぼくれていた。
 その切ない背中に「近くに ” ベンキ ” があるみたいだから、そこでジェラートを買って帰ろう」と、提案すると、彼は幼い子どもみたいに、乾鮭色からさけいろしたバラのような頬で「うん!」と、うなずいた。

 ロショ…、なんとかという、地元でも有名なリストランテにパスタを食べに行った。生ハムの盛り合わせと白ワインで乾杯した後、濃厚でベーコンたっぷりの名物のカルボナーラをぺろりと完食した。

 夕食後、ほろ酔い気分でホテルまでの帰り道をぶらついていると、やたらきらきらとしたエデンのような場所を見つけた。
 そこは「トレヴィの泉」だった。
 透きとおったアクアマリンの水面はせわしく乱反射し、大理石の彫像はトパーズでライトアップされていた。
 シャンパンの海の中へ、どぼんと飛び込んでしまったかのようだった。
 ツーリストはスマートフォンを片手に持って、サバンナのヌーの群れの如く、ぞろぞろと歩き回っていた。
 そして、ふたりの周りには世界中の言語であふれていた。まるでバベルの街へと迷い込んでしまったかと思えるほど、たくさん!
 泉の縁に、男性同士の欧米人カップルの姿があった。
 彼らはセルフィーで写真を撮った後、泉にコインを一枚投げ入れていた。おそらく「また、この地へ戻って来られますように…」という、願いを込めながら。
 トレヴィの泉の ” お約束の儀式 ” を、俺もシュンも、どういうわけか、恥ずかしがってやらなかった。
 その時に抱いてしまった醜い感情を、今は、とても後悔している。

 もしも、あの日、あの時、あの泉に、” コイン ” を一枚投げていれば、ふたりの未来は変わっていたのかもしれない…、そう思うと ―。


 翌日、ふたりはA線の地下鉄に乗り、ローマ教皇が統治する国家、「バチカン市国」へと向かった。
 バチカンは、ルネサンス三大巨匠のひとり「ラファエロ・サンティ」のフレスコ画『アテナイの学堂』をはじめ、宮殿内の礼拝堂に描かれた『最後の審判』や『アダムの創造』など、名立たる文化遺産の宝庫となっている。
 数ある芸術作品の中でも、とりわけふたりが出会いたかったのは、カトリック教会の総本山「サン・ピエトロ大聖堂」に収蔵されている「ミケランジェロ・ブオナローティ」の最高傑作と称される大理石彫刻、” ピエタ ” だった。
 ミケランジェロは生前、4体の「ピエタ像」を手掛けた、といわれている。
 その内の3体は、晩年に制作期間が集中しているそうだ。そして、そのクリエイティビティの源となっていたのは「自分の墓に飾るため」だった、とも伝えられている。
 彼のピエタ像の中で、俺が個人的に好きな作品は、ミラノの「ロンダニーニのピエタ」だった。未完成ながらも死期を悟った彼自身の彫刻家としての矜持きょうじが色濃く反映されたマスターピースであると感じたからだ。
 だが、完璧性パーフェクションという意味においては、バチカンの「ピエタ」の右に出るものはないだろう。
 聖母マリアとその息子がまとう流れるような衣の曲線に、岸壁に打ち寄せる波のダイナミクスを感じる。
 絶命したイエス・キリストの表情にはしっかりと死が投影されているけれども、血管のうねりや隆起する肉付きには、連続した生が宿っている。
 髪や爪なんかは、今でも伸びてきそうで、恐ろしかった。

 この作品がルネサンスの ” 完成形 ” とうたわれるのも、無理はない。

 慈愛をたたえ、そっと微笑むマリアの口元には不思議と希望を感じさせる。彼女のその祈りのような甘い夢が、一層、鮮烈な絶望をもたらす。
 そして、死んだ我が子を抱きかかえるために自分は生まれてきたのかもしれない、という聖母の崇高な悟りは、鎮魂を携えながら、漆黒の中へと溶けてゆく…。

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 そんな彼女の気持ちを、今の俺なら、少しは理解できているつもりだ。

 愛しい者と別離わかれる苦しみは、ひとりぼっちの楽園を永遠に裸足で歩き続けるようなものなのだということを…。

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