どうじんしかいわい - 『推しって呼べない』

「どうじんしかいわい」は『かいわい vol.2』で企画された、同人誌を紹介するコラムのページである。誌面では、ジャンル不定カルチャー誌『アレ』とストリップを扱う『イルミナ』の2冊をとりあげた。

今回のnote版では、CRずるやすみ企画のエッセイ集『推しって呼べない』をとりあげる。

まず書影をみてみよう。

一見してわかるのは、開きの方向だ。この本はメモ帳のように、縦に開いていく。
サイズ感は、ちょうど大ぶりなスマートフォンのようなサイズ感である。

『推しって呼べない』の造本は、つまるところその言説が発生する中心地であるネットへとアクセスするデジタルデバイスに見立てられているようだ。

読み手はあたかもスワイプするように、あるいはTLをスクロールするようにしてページをめくりあげていく。それぞれの「推し」への想いはつかのま読み手の視線をとどめては軽やかに流れ去っていくのだが、それは冒頭に置かれた、いつか床子によるベネディグト・カンバーバッチに対する軽快なエッセイに促される側面もある。

事実、平岡直子によって「その人」と呼ばれる「ある俳優」への語りは、巧妙にそれが誰であるかの特定を躱しつつ、もっぱら平岡自身のとまどいを焦点化しながらも、結末に突然仄めかされる「ある俳優」のシルエットによって読者は思わず文頭へとページバックしたくなる誘惑に駆られる。

ページはやがて、最後に置かれた渡邉千尋『とり乱しと問い直しのファン活動』と題された論考に行き当たる。この軽快な本にあって、論考はいかにも重い。にわかにページの読み込みは鈍くなり、しばしの遅滞を持ち込む。だがこの遅滞は単なる鈍重ではない。渡邉の思考の過程を反映する文体に沿っていけば、ある他者について「呼べな」さを感じるとまどいのリズムに共振することも可能だろう。

もはや狭義のアイドルにとどまらず、あらゆる場面に跋扈する外来種のような「推し」という言葉は、いささか問題含みである、と感じるからこそ気軽に「推しって呼べな」い者たちがいる。

ある関係を示す言葉は、つねに便宜以上でも以下でもない。便宜に委ねて不足を感じて不全を起こすとき、他ならない私自身の欲望の複雑さの反映がある。翻って考えるなら、それは他者の欲望の複雑さにも思いを至らせる契機たり得る。

渡邉の論考では、乃木坂46の(元)メンバーたちがエイプリルフールにSNSへ投稿した同性婚を思わせる "嘘"を取り上げている。この投稿はクィア・ベイティングとして一部から批判を受けたが、こうした批判自体に、他者のセクシャリティを無根拠に規定する粗雑さが埋め込まれていると渡邉は指摘し、しかしながらそれをもってアイドルや運営者たちに瑕瑾なしとするのも間違っているとして、どちらも他者の生へ無頓着にすぎると厳格に退けられる。こうした渡邉の態度は、本来「推」す過程でやり取りを行う他者たちを介して新たに生まれゆくはずの「私」の豊かさを手放さないことに賭けられている。その営みを渡邉は「かたり」と呼び、論考もまた自らの重要な他者との経験を示す、実際の「かたり」によって締めくくられる。

『推しって呼べない』は、言わずもがな、こうした「かたり」の集まりと言える。「かたり」は流れ去り、時おり行きつ戻りつして、同じところを回っているかと思えば、いつしか「かた」る者を意外な場所に運びもする。

それがどこなのかは、「かたり」という先の見えなさに身を浸した者だけが知り得る甘やかな秘密でもあるだろう。

文:結城

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