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随筆|上手い文章、良い文章、読ませる文章について。

 専門誌でライターをしていた頃、「文章、上手いですね」と褒められることがあった。そう言われてもあまり嬉しくなかったのは、それが単に「整理された文章」ってだけで、良い文章とも良い記事とも思えなかったからだ。

 なんて書いていてふと思ったけど、「良い文章」ってなんだろう。例えばある雑誌Aを読んでいると、きっちり校正を入れて表記ゆれを正し、整然と文字が並んでいるにも関わらず、情報の羅列ばかりでちっとも面白くない。ところがもう一つの雑誌Bの場合、誤字脱字が目立ち表記も記事ごとにバラバラ、だけど面白かった。その時に思ったのは、雑誌Bの文章には書き手の顔が滲んでいるせいではないか、ということだ。ただこれは読み手の趣味にもよるかもしれない。

 なので「最低限、伝えられる技術さえあれば、上手い文章なんて必要ない」という話でもない。小説における文章は漫画における絵柄のようなもの――と言ったのは津原先生だったか、はっきり思い出せないが、だからこそ上手い文章は、作品の大きな魅力ともなる。

 ところが、この文章の上手さというのが、絵や音楽よりもずっと伝わりにくいように思う。とくに書いたことのない人には、まぁ伝わらない。自分の文章が上手いと言うつもりはないが、それなりにライターとして経験を積んでからあるコンテンツ会社に転職した際に、おかげで苦い思いをしたことがある。

 その会社で所属していた部署には、文章を書く仕事をしたことのある社員がおらず、私だけがコピーやインタビュー記事など様々な文章の作成を任されていた。誰も手伝ってくれないから、一人でやるしかない。遅々として進まぬ書き仕事にうんうん唸りながらもなんとか書き上げる。そんな作業が続いていたある日のこと、とある年上の同僚が近づいてきて「ごめんね、俺、よく理解してなかった」と言い出した。

 なんのことかと尋ねると、「昨夜、テレビのドキュメンタリー番組で有名なコピーライターの仕事を紹介していたのを観たんだ。文章を書く仕事って、一文字レベルで考え抜く大変な作業なんだね」と屈託ない笑顔を見せる。唖然とした。ようはこの人、これまで私の仕事ぶりを見ながら「なにトロくさいことやってんだ。簡単な仕事なんだから、ちゃっちゃと書きやがれ」と思っていたわけだ。腹が立つよりも、泣けてくるほど悔しかった。自分の文章が特別に上手いとも思ってなかったが、それでもそれなりに培ってきた技術が、まるで伝わっていない。

 練習しなきゃ音の出ない楽器とは違い、文章なら誰にでもすぐ書ける。だからこそ、書かない人には分かりにくいんだろうけど、それでも技術は必要だ。その技術を磨いて、さらに芸術的な高みにまで持っていこうとしている文章は、それだけでめちゃくちゃ格好良い。

 ところで、自分の書く文章について一番嬉しい言葉をもらったのは、私がまだ駆け出しの頃だ。世界的に有名なゲームクリエイターのMさん(さすがに宮本茂ではないが、それでもかなり大御所)をインタビューした後、いただいたメールにその言葉はあった。

「僕はあなたの文章、好きですよ。情熱的ですし」

 読んだ瞬間、「おぉ、口説かれてるのか?」と思った話はさておき、この言葉は何よりも嬉しかった。おそらくMさんには、拙い文章の向こうに、わずかながらも私の顔が見えたんだろう。

 この「書き手の顔が見える」のに加え「技術力によって高められた文章」があれば鬼に金棒。それこそが「読ませる文章」なんじゃないかな、と今は考えている。

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