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小説・ミステリ|月白に誘う

 取調室に入ると、蒸し暑い空気が動きマスクの内側にまで男の体臭が運ばれてきた。
 パイプ椅子に座る男の背後にある窓が開いている。換気のためだ。冷房で冷やされた空気は流れ出し、代わりに季節外れの真夏日で熱された湿っぽい空気が室内を満たしていた。
 もう10月だというのに、30度を超えるこの暑さは異常だ。しかし年々、そんな日が増えているような気がする。やがてこの異常さにも慣れ、疑問を抱くことなく日常として受け入れる日が来るのだろうか。
 そんなことを考えながら、東馬 文結(とうま ふゆ)は男の背後にまわり、腕を伸ばして横開きの窓を閉めた。動きの悪くなったクレセント錠を力を込めて持ち上げると、部屋の中はとたんに静かになり、空調のごうという音が耳につく。
 三畳ほど、縦長で狭い部屋の真ん中にはスチール製の大きなデスク、壁際には小さなデスクが置いてある。他にはなにもなく、ただ白い壁が囲んでいる。中央のデスクの前に薄いブルーの夏用制服を着た若い男が、西日を背負い座っている。文結は改めてその前に立って向かい合うと、腕を組んでデスク越しの男を見下ろした。
 椅子に浅く腰かけ、背をまっすぐに伸ばしたまま男は微動だにしない。膝の上で握られた両拳の関節には、かさぶた状になった赤黒い血の塊が見える。
 鍛え上げられたがっしりとした肩の上には、意外なほど細い首と小さな顔がある。黒い髪の毛を短く切りそろえた頭部はじっと動かず、デスクに落とされていた視線だけが上を向き、目が合った。見上げた涅色(くりいろ)の瞳が、しばらくの間、何か言いたげに文結を見返した。
「……マスクを外してもよろしいでしょうか」
 想像していたのよりずっと低い声が聞こえ、驚いた。
 窓を閉めたとはいえ、使い古された空調は効きが悪く室内はまだずいぶん暑い。見ると、男の額には玉の汗が浮いていた。
 確認してきた男に、黙ったまま頷いて見せる。
「ありがとうございます」
 ゆっくりとした動作で男が不織布のマスクに手をかける。白いマスクが外され、ようやく完成した顔が現れた。
 暑さのせいか薄い唇が少し開かれている。その生々しさに思わず、生身の男の口元をまともに見るのはいつぶりだろう、などと余計なことを考えてしまう。
 目の前にいるこの男が、どんな人間なのか――仕事として被疑者の取調べを行うことも多かったが、今日はいつもと勝手が違う。
 遠慮ない視線を送り観察していると、再び目が合った。くっきりと直線に伸びる眉の下、見返す瞳からは感情が読み取れない。
 そこにあるかもしれない狂気を捜すため、文結は細めた目で男を見据える。

 関 利一(せき としかず)、交番勤務の巡査である。
 先週の土曜日、午前2時過ぎ。夜勤中の関は勤務先の交番内で直上である田上康弘(たがみ やすひろ)巡査部長を素手で殴り、全治1ヶ月程度の重傷を負わせた。50代半ばの田上を30歳近く若い関が殴ったのである。年齢による体力の差は大きく、田上の傷は重かった。
 田上の証言によると、2人で会話していたところ、突然、関が田上の胸元を掴み上げて頬に一発。体勢を崩し床に倒れ込んだ田上の体に馬乗りになり、さらに顔面を両手で合計8発殴打したという。田上は顔面骨を骨折、左唇の上に3cm程度の深い裂傷を負い、前歯が欠けた。事前の聞き取りで目にした田上の顔は、顎から目にかけてぱんぱんに腫れ上がり、表皮からは血が滲んでいた。とくに左側の状態が悪く、瞼の腫れのせいで目を満足に開くこともできないようだった。唇上の裂傷は医療用ホチキスで止められており、そのあまりにも惨憺たる田上の顔面に、文結は思わず吹き出しそうになった。まるでホラー映画の怪物のようでもあり、コントで見る大げさなメイクのようでもあり、痛々しくも滑稽に思えたのだ。
 その田上は関のことを「頭がおかしい」と言い、怒りと怯えのないまぜになった表情を見せた。そして「俺を殺そうとしていた」とも。

「田上巡査部長となにがあった」と、文結が問う。
 関は身じろぎせずに口だけを動かし、「なにも」と答える。
「殴ったとき、なにをしてたの?」
「話をしてました」
「どんな」
「……………………」
 しばらくの間、関は沈黙を続けた。
 田上にも同様の質問をしたが「覚えてない」、「なんてことない話だ」と言うだけで、はっきりとした答えを得ることはできなかった。女の文結には言いにくい、下品な話でもしていたのかもしれない。しかし、もしそうでないとしたら少し面倒なことになるかもしれない。
 仕事とも言えない、この馬鹿げた作業を文結は一秒でも早く終わらせたかった。
 そもそも、刑事課に所属する文結が交番勤務の関の不祥事の後始末をする必要などないのだ。ここに文結がいる理由は、男たちのくだらぬ思惑にある。
 関を前に、どこまでを報告書に落とし込むべきだろうか、と考える。これから自分が処理しなければならない作業について考えると、ため息が出た。
「すみません係長、遅くなりました」
 背後のドアが開くのと同時に、声が聞こえた。立ち会いを申し付けていた高城(たかしろ)巡査長だ。
「遅い」と叱責すると、「はっ、申し訳ありません」とわざとらしい返事があった。相変わらず調子のいい男だ、と文結はマスクに隠れた口元を歪ませる。
 文結の右隣、壁際の小さなデスクに高城が持参したノートPCを置く。狭い取調室がますます狭くなり、息苦しさを感じるほどだった。
 席についた高城を目の端で確認し、関に向き直る。
「もう一度聞く。なぜ田上巡査部長を殴ったのか。そのとき、なにを話していたのか。答えなさい」天板に右手をつき、少し身を乗り出し顔を近づける。文結の言葉に続き、高城がカタカタとPCのキーを打つ音が聞こえてきた。
「言い訳があるなら、しっかり説明を。でないと――」
「訓戒処分ではすまされない」
 よくわかっている、というように続けた関に、文結は肩をすくめて見せる。
 警察における訓戒とは、懲戒処分するほどでもない軽微な違反に対して与えられるものだ。簡単に言えば「説教して終わり」。田上は被害届を出す意志はないという。となれば、今回の件は交番内で行われた単なる身内同士の喧嘩に過ぎない。田上の怪我の具合が重い点は多少問題になるかもしれないが、所属長訓戒処分か重くとも本部長訓戒処分といったところが妥当な線だろう。田上と関の話をまとめ、報告書を提出すればそれで終わりにできるはずだ。
「懲戒にしてください」
 そう言い切った関の言葉に、小さく息を呑む。
「どうせ辞めるつもりです」
 裏腹に、関は淡々と続けた。
「ずいぶん投げやりな言い方ね。端から辞めるつもりで、わざと殴ったのかしら?」あえて嘲笑うように言ってやったが、関は表情を変えなかった。
「……もう、自分が警察にいる理由はありませんから」
「理由?」
 思わず聞き返すと、関はしばらくの間、黙って文結を見ていた。
「……東馬さん」
 突然の呼びかけに、文結は顔を顰める。
「なに」
「覚えてないかもしれませんが――」
 言葉を選ぶように、関の唇がゆっくりと動く。
「自分は以前、あなたに会ったことがあります」
 キーボードを打つ音が、不意に止んだ。

 5時間前、午前。
「本部から戻ってきて最初の仕事がそれですか」
 自動販売機に向かう高城が話しかけてきた。
 狭い廊下の突き当りに作られた休憩スペースの壁に寄りかかり、文結は高城の後頭部が左右に揺れるのを見ている。高城はペットボトル飲料が並ぶショーケースを端から眺め、コーラの前で一度、指を止めてから端にある緑茶のボタンを押した。ごとん、とペットボトルが落ちる鈍い音が響く。
「それって地域課の仕事ですよね。どうして刑事課の係長がやるんですか」ともっともな疑問を口にしながら振り返る。
「嫌がらせでしょ」と短く答えると、高城は「あぁ」と力なく声を上げてから、マスクをずらしお茶を呷った。

 警察本部からこの所轄署の刑事課に異動してきたばかりの文結に命じられた仕事が、他部署の内輪揉めの処理――すなわち関の暴行事件の後始末である。本来であれば関の所属する地域課内で処理されるべき仕事が、「人手が足りないから」という理由で文結に回された。先週から上長になったばかりの生気のない顔の男が「やることがなくて暇だろ。皆、忙しいんだよ」と、文結に言い渡した。本音を隠そうともしないその口調には、侮蔑の色が滲んでいた。
 田上と関の話をまとめて報告書を作成する。これがこの刑事課に配属されてから初めて文結に与えられた仕事である。この後、署名を入れずに文結が作成する書類は、本来、担当すべきだった地域課の誰かに引き継がれ、あるべき手続きを踏んで処理されるのだろう。「どうせ内輪の喧嘩だ」という緩みと、署を支配する男たちの強固な連帯感が、このあってはならぬ嫌がらせを成立させていた。

「笹島(ささじま)さんが本部にいたの、2年間でしたっけ」と高城が天井に目をやり、マスクを直しながら尋ねる。
「今は東馬。本部にいたのは1年」
「あぁ、そうだった。早い異動でしたね」
「しくじったのよ、いろいろと」
「……へぇ」何か言いたげな高城が、言葉を呑んだ。
 高城とは本部に行く前、別の所轄署で一緒に働いたことがあった。よく動き、上司である文結との会話でも臆せず軽妙に言葉を返す男だった。細身な体躯は、刑事課に多い豪腕自慢たちとはまた違ったが、空気を読むのが異様に上手く、そのしなやかな立ち振舞いに署内での評価は高かった。遠くない未来、自分を追い抜いた高城の下で働くことになるだろう――そう覚悟している。
 だからこそ、今回の仕事を高城に手伝わせることにした。署の男たちに対する「お前たちのお気に入りを巻き込んでやる」という文結なりの意趣返しのつもりだった。我ながらくだらないとは思いつつ、そうでもしないと苛立ちがおさまりそうになかった。

 文結もまた、かつて高城と同じように将来を嘱望された刑事だった。古い言い方ではあるが刑事課の期待の星と囁かれ、出世の道を猛スピードで駆け上がっていった。本部に引き抜かれ異動したのが去年の10月。当時は、いずれ女性署長になるだろうと目され、上役からの評価も高かった。
 しかし、それからわずか1年で所轄署に戻された。異例の早さである。
 辞令が出たとき、健康上の理由により――と申し渡されたが、そのせいだけとは言えない。もっとも身体的には不安があり、加えて文結の抱えている問題は多かった。
 今年の5月に子宮を全摘出した。子宮頸がんだった。
 発覚したのは1月に夫と別れ、新たな生活を始めようとしている矢先のことだった。続く不正出血を、壊れかけの結婚生活によるストレスのせいと思い込み、長い間、放置していた。離婚後、山積みになった郵便物を整理していると、役所から送られてきた検診用のクーポンが目に入った。これまで病気知らずだった文結が気まぐれに受診を思い立ったのは、今思えば虫の知らせというやつだったのかもしれない。
 ステージはIB期。手術さえ受ければ予後は悪くないといい、5年後の生存率も90%近いと説明された。ただし、子供は望めなくなる。
 総合病院にある婦人科の診察室は人が多く、パーティションの向こうにある隣室の物音が丸聞こえだった。その白い空間で、年配の女医に進行の程度と今後の治療法について説明された後、「もし妊娠を強く希望するなら、他の方法を考えることもできる」と告げられた。一方的な思いやりに満ちた、強い眼差しだった。
 文結には子供がいなかった。元夫と、「いずれ、そのうち」と日々の忙しさにかまけて考えることを先送りするうちに、35歳になっていた。
「もし妊娠を強く希望するなら」
 女医はそう言った。その目が「命を削って子供を求めろ」と迫っているようで、見返すことができなかった。
 結局、文結は全摘出を選択した。
 離婚したばかりで若くもない自分に他の選択肢があるはずもない。そう、自分に言い聞かせた。
 10日ほどの入院期間を経て、職場復帰すると予想していなかった不調が次々と襲ってきた。病の元を摘出するために行われたはずの手術が、まるで、それまで身体の奥に隠してきた弱さを暴いたかのように表出させ、それは身体と精神、どちらにも及んだ。
 鈍った身体と心を抱え、仕事に術前の倍以上の時間がかかるようになった。するとすぐに同僚からは“使えない兵隊”として邪魔者扱いされるようになった。加えて、理解できるはずもない女の病を抱えた文結を、刑事部の男たちは改めて女として認識するようになった。そうして部内に、“兵隊”から“女”に成り下がった異物を排除しよう、そういった意識が働き始めていった。それは、そこに揺るぎないコミュニティを築き上げていた男たちによって。
 わずかにいる他の女たちもまた、そのコミュニティにしがみついていくのに必死で、文結のことを気にかける余裕などなかった。
 心無い言葉の数々、無視、馬鹿げた嫌がらせ。濃厚な男社会に渦巻く膿が一気に噴出したかのように、文結にぶつけられた。その様はあまりにも子供っぽく、くだらなく、唖然とするほどだった。
 文結は孤立し、空虚さを抱えたまま立ち尽くした。
 自分が今いるこの場所の正体は、いったい何なのか。そして、なぜ自分はこんな場所にいるのか。
 振り返ってもなにも見えない、これから行く道も見えてはいない。

「勤務態度はよかったみたいですね」
 高城の言葉に文結は顔を上げた。
「誰が」
「関ですよ。同じ交番に同期がいたんで、ちょっと聞いてみたんです」
 高城に関の仕事の手伝いを頼んだのは、ついさっきのことだ。関の暴行事件は署内で噂になっていたので、声をかける前から探りを入れていたのだろう。同僚との会話のネタにでもするつもりだったのか。こうした抜け目のなさが高城の鼻につくところであり、美点でもある。
「真面目でしっかり仕事する奴だそうですよ。ただ……ちょっと怖いところがあるって」
「怖いって、なに」
「よくわかんないんですけど、真面目すぎるとか純粋すぎるとか。とにかく仕事ばっかりで無口だから、一緒に働いてたのにプライベートのことはなんにも知らないって。独身らしいんで、何回か合コンに誘ったらしいんですけど、全然興味ないみたいで断られたって言ってました」
「その同期って男?」
「女です」高城が目尻を下げる。
「まぁとにかく、その子に言わせると仕事してる姿しか見たことないと。で、密かについたあだ名が“忠犬リーチ”」
「リーチ?」
「下の名前ですよ。利益の利(り)に一(いち)って書いて利一(としかず)でしょ。だからリーチ。今つけるなら“リーチ1発”ってとこかな……いや、8発か」言いながら、握った拳を突き出し空を切って見せた。
「他にもそいつが言うにはですね、リーチ君は警察官になってなかったらテロリストになってたんじゃないかって。そういう奴らしいんです。正義感が強くて思い込んだら一直線みたいな、ちょっと危うい感じで。まぁ、田上さんとの件があったばかりだから、そんな言葉が出たのかもしれないですけど」
「……テロリストねぇ。いいじゃない、ガチャ爺(じぃ)よりよっぽどマシ」
「さすが、手厳しいですね」と、高城は苦笑した。
 ガチャ爺とは田上のことである。署内のトイレで噂話に花を咲かせていた若い女性警官たちが、そう呼んでいるのを耳にした。勤務中にスマホでゲームばかりしてサボっている田上を指して、「暇さえあればガチャを引いてる」からガチャ爺。呆れた話である。今回の一件で関と田上、対照的な二人の勤務態度が署内でも広く知られることになり、被害者であるはずの田上の評判は地に落ちた。一方の関には同情的な者の方が多い。
「ガチャ爺の聞き取りはどうしますか?」
「1人で適当にやっておく。そっちはどうせ大した話も出ないでしょ。関の方を手伝ってちょうだい。16時に取調室、予約しといたから」
「身内相手にわざわざ取調室ですか」
「会議室でやるより、ちゃんと働いてるように見えるでしょ。私も忠犬っぷりをアピールしないとね」
 その言葉に「……ですね。身内とはいえビシッとやってやりましょう、ビシっと」と答えた高城が、「にしても、上司殴っちゃうようなテロリズム野郎がなんで警官になったかなぁ」と独り言のように呟く。
「知らないわよ、そんなの。あとで本人に聞いてみれば」
「嫌ですよ、おっかない。いきなり怒り出して殴られるかもしれない」
 高城が肩をすくめて見せる。
「……そういや、笹――東馬さんは、どうして刑事になったんですか?」
 突然、話を振られた。
「べつに、大した理由なんかないわよ」
「教えてくださいよ。今までそういう話、聞いたことなかった」と、好奇心に満ちた子供のような目を向けてきた。こうなると高城はしつこい。以前にも突然、なんの脈絡もなく「どんなタイプの男が好きか」と聞かれたことがある。答えたくもないのに、その質問攻めは文結が折れるまで2週間も続いた。その時はテレビで観た俳優の名を適当に答えたように記憶しているが、それが誰だったのか、もう思い出すこともできない。
 またしつこくされてはかなわない。「土曜夜のテレビ」と、文結はため息まじりに答えた。
「は?」
「子供のころ、魔法少女のアニメをやってたの。魔法の力で悪と戦う正義のヒロイン。その主人公に憧れてたのよ」
「それで、警官に?」高城が目を丸くして聞き返す。
「そう――」文結は短く答えてから、ただ白いだけの壁を睨みつけ吐き捨てるように続けた。
「馬鹿みたいでしょ」

「その話、あなたが田上巡査部長を殴ったことと何か関係ある?」
「いえ、直接的には」
「間接的にはあるとでも?」
「それは……どうでしょう」
 思わせぶりな関の物言いに苛立ち、文結は舌打ちする。
「はっきりしないのね。自分のことなのによくわからない?」
「わかっています。ですが――」と口ごもり、なにか迷いでもあるのか左右に視線をさまよわせた後、机上に戻した。
 目の前で項垂れる男の顔を確認し、脳裏に“関 利一”という字を思い浮かべながら記憶を探る。見覚えはない――はずだ。
 なぜ突然、文結のことを知っているなどと仄めかしてきたのか。文結を動揺させて関が得することなどない。であれば、本当に会ったことがあるのか。しかし例え、過去に出会っていたとしても、それが田上への暴行と結びつくとは思えない。なら、今の文結にとってはどうでもいいことだ。
「私はあなたのことを知らない。だからその話はもういい。それよりも、9日の夜のことを」
 語気を強めてそう言うと、関は「……あの晩は、自分と田上さんが当直でした」と口を開いた。
 ようやく話し始めた関に、うなずいて続けるよう促す。高城がキーボードを叩く音が聞こえてきた。
「先に仮眠をとっていたので、交代するために1時ころ事務室に下りると、話し声が」
「誰か来てたの?」
「学生風の若い男がいました」
 来訪者がいたとは、田上からは聞いてなかった。
「自分と入れ替わりに、追い出されるように出て行きました。ただ、直前に耳にした話し声が少し気になって」
「どうして」
「……口論というか、男が大きな声で田上さんに詰め寄っていたので。なので“道に迷った酔っぱらいですか”と聞いてみました。そしたら――」、関は一度、言葉を切ってから「“腰抜けのカマ野郎だ”と田上さんが」と続けた。
「ずいぶんな言い草ね。その子、なんの用があって交番に?」
「痴漢にあったそうです」
 どういうことか、と文結は目を眇めて首を傾げる。
「相手は?」
「よくわかっていないようでした。ただ、駅の男子トイレで身体を触られたと。照明が消されたので顔も見てないと言っていたそうです」
 男子トイレでということは、相手も男だったのだろうか。ありえない話ではない。
「田上さん、その子を追い返したの?」
「そう認識しています」
「調書は」
「作っていないようでした」
 休憩間際の来訪者を、「面倒だから」という理由で追い返したというところか。元より、証拠が不十分でできることがあったとも思えないが、警察官としてはよくない対応だ。しかし署内で聞きかじった田上の人物像が本当なら、やりかねない。
「それで、あなたはどうしたの」
「気になったので、追いかけて様子を見に行きました。少し怯えていた様子もありましたし」
「田上さんは、なんて?」
「怒っていました。交代時間が迫っていたので」

 関は、交番を出て男を追いかけた。午前1時過ぎのことだったという。
 交番は私鉄の小さな駅近くにある。古い商店街の飲み屋が並ぶ一画に建っており、少し離れると駅を囲むようにぎっしりと民家が並んでいる。
 終電はすでに終わり、街は暗く静かだった。隣駅に大学があり、以前は学生達が明け方まで騒いでいることがよくあったそうだ。あまりに騒がしいときには住民から通報が入り出動することもあったが、現在は、感染症の流行のせいで驚くほど静かだ。
 去り際、男が駅の方に向かったのが見えたので、関は早足にそちらに向かった。
 交番通りと呼ばれる細い道を左に曲がり、駅へとまっすぐに続く道に出ると、バックパックを背負った後ろ姿がぽつんと街灯に照らされているのが見えた。警戒しているのか、頭を動かし周囲を確認しながら静かにゆっくりと歩いている。
 関が後方から「君、」と呼びかけると、肩をびくりと動かしてから素早く振り返った。制服姿の関を認めると、黒いマスクの上にある男の瞳から怯えの色が少し薄れたようだった。
「さっき交番にいたね、一人で大丈夫かい」
 男は訝しげに関を見上げるだけで、返事はしなかった。
「家はこの近くに?」と尋ねると、黙って首を縦にふる。名を聞くと、男は「海老原(えびはら)」と答えた。小柄で、羽織っている薄手のニットがだぶついている。眉毛の上で切りそろえられたまっすぐな茶色い前髪、その下にある細い目が不安気に見えた。
「もし心配なら家まで送っていくよ」
「でも」と口にし、海老原は駅の方をちらと振り返った。
「駅に忘れ物でも?」と尋ねると、
「そういうわけじゃないけど……」俯いてから、「だって、あの人があんなこと言うから」と拗ねた子供のように呟いた。
 駅で痴漢にあったと言う海老原の話を、田上は「嘘だ」と決めつけた。そればかりか「お前みたいな小僧なんか誰が襲う」、「男に振られた腹いせに仕返しでもするつもりか」といった聞くに堪えない言葉で責めたという。
「だから、証拠を見つけようと思って」海老原の声は震えていた。泣いている、と関は思ったという。
 終電の時間が過ぎてからだいぶ時間が経っている。駅のシャッターも下りているころだろう。そう伝えてから「明日、駅員に監視カメラの映像を見せてもらおうか」と提案したが、しばらく考え込んだ後、海老原は首を横に振った。
「もういいです……」
 痴漢の後日逮捕は難しい。監視カメラにしてもトイレ内には設置していないはずなので、たとえ出入りする加害者が映像に残っていたとしても、それが証拠になるとは思えない。海老原にもそれがわかっていたのかもしれない。
 海老原は関と別れ、一人、夜道を帰っていった。関はしばらくの間、その背中を見送ってから交番に戻ったという。

「……で、その子の代わりに田上を殴ってあげたってわけ」と、文結は半ば呆れ気味に尋ねる。
 たしかに、田上のその晩の対応は警察官に相応しいとは言えない。助けを求めてやって来た市民を追い返すなど、決してあってはならない。とはいえ、それを正すために殴ってもいいのかと聞かれれば「それは違う」と答えざるをえない。手を出した関が悪い。
「いえ、彼の代わりというつもりはなく……」
 また口ごもる関に文結は鋭い視線を向け、「じゃあ、どうして」と先を急がせた。はじめの頃に多少あった好奇心も今は消え失せ、早く答えを聞き出してこの場を去りたいという欲求しかない。
「……交番に戻った後に田上さんに言われたんです」
「なにを」
 関が、小さく息を吸う。
「あの男のことで、警察にできることは何もない(・・・・・・・・・・・・・)、と」
 思わず、「え」と声が出る。
 だからなんだ? ――そう思った。
「だから、殴りました」
 それが答えだと、はっきり告げた関の思惑が理解できなかった。
「……それだけのことで?」独り言のような小さな声で返し文結は眉根に皺を寄せる。
 その言葉に、関は目を見開いた。初めて見せる表情だった。
 そして身を乗り出し、
「それだけのこと?」と、咎めるような口調で聞き返してきた。
「だって、あなたの正義(・・・・・・)を貶めたんですよ」
 妙にゆっくりとした口調だった。
 涅色の瞳が、文結を射抜くようにまっすぐ見つめていた。

「どうして私の話が出てくるのよ……」
 豹変した関の態度に、文結は気圧された。
 それまで躊躇いがちだった口調は熱っぽく変質し、反面、瞳には奇妙な落ち着きがある。関を前にしながらずっと感じていた、どこか薄気味悪いものの正体が、目の前に現れ始めているように思えた。
「俺はあなたの正義(・・・・・・)を実現するために警官になったんです」
「だから、さっきから何の話をしてるのっ!?」
 思いがけず出た大きな声に、自分でも驚く。
「覚えていませんか、10年前の夏」
 関がさらに顔を近づけてきたので、わずかに体を引き、身構える。
 いったい、この男はなにを言い出すつもりなのか。
 不安と焦燥に駆られ、鳩尾のあたりに熱さを覚える。さっきまで意識していなかった口元のマスクが急に煩わしくなり、やけに息苦しかった。
「まだ交番勤務だったあなたが、俺の祖母を救った。頭がおかしいと言われ、同情すらしてもらえなかった祖母を、あなただけが」
「知らない、そんなの」
「本当に? 盗みを疑われ、泣きながら“やってない”とあなたに縋りついた祖母の姿を忘れてしまった?」
 同じような光景なら今までに何度も見てきた。それに、そんな小さな事件をいちいち覚えていられるはずがない。
「駆けつけた俺に、あなたは言った。“助けを求める人がいる限り、最後まで諦めないのが警察官だから”と」
 昔の自分なら口にしたかもしれない。若さに任せて、そんな青臭い台詞を――
 そう考えていたとき、不意に、詰襟の学生服を着た若い男の姿が脳裡に浮かんだ。
 短く切り揃えられた黒い髪。はっきりと濃い眉の下から、熱っぽい涅色の瞳が文結をじっと見ていた。
「あ」
 思い出した。
 あれはたしか、警察学校を出て初めて配属された交番にいた頃のことだ。月が鮮やかに輝く夜のことだった気がする。
 万引きの通報を受け、市街地にあるスーパーに行くと、老女が店員に叱責されていた。店長だという中年男から大声で怒鳴られ、小さな背中を丸めた姿はあまりにも哀れだった。
「やってないのよ、やってないのよ」
 文結を見上げ、そう繰り返す老女を放っておけなかった。だから、たとえ手提げ袋に未払いの商品が入っていて、店員がそれを滑り込ませる瞬間を目撃していたとしても、「やってない」と言うなら徹底的に調べようと思った。
 その時に連絡を受けてやって来た若い男。老女の孫だと言っていた。
 あれはたしかに、関だった。
「思い出しましたか?」
 片頬が動き、口の端が緩やかに上がった。関が初めて見せた笑みに、なぜか背筋をぞわりとした感覚が駆け上がった。
「でも」
 老女――関の祖母は、盗んでいた。後で確認すると、他店で何度も万引きを繰り返していた常習犯だった。ただし、本人にその自覚はない。認知症を患っていたためだ。
「“救いの手を求める市民がいる限り、できることがないなんて言ってはいけない”。そうでしょう?」
 それも、かつての文結の言葉だったのだろうか。もう思い出すことはできないが。
「だから田上を殴ったと? だから田上を殴ったのは私のせいだとでも言いたいの!?」早口で問い質す。
「そうかもしれません。でも……そんなことは、もうどうでもいい」
「どうでもいいって――」
「全部、わかったから」
 目の前にいる男が何を考えているのか、文結にはまるでわからない。
 ただ、じりじりと追い詰められている感覚だけがはっきりとある。
「俺は、あなたに会いたかったんだ」
 関の言葉に、文結は息を呑む。
「あなたに会うために警官になった」
 その時、デスクの上に置いていた右手の指先に、手を伸ばしてきた関の指がわずかに触れた。指の先と先だけが、ほんのわずかに触れている。その場所が、ひどく熱く感じた。
「……ようやく会えた」
 小さく、しかしはっきりと、その言葉は文結に届けられた。囁かれた一言が、まるでアルコールのように脳の一部を溶かし思考を遮る。
 10年前、関とどんな言葉を交わしたのだろう。文結は思い出すことができない。もしかすると、持て余していた正義感を若い関にひけらかしたのかもしれない。今、振り返れば、陳腐でつまらない話をしたに違いない。
 10年間。そんな女の言葉に惑わされ、追ってきたというのか。そんなことが可能なのだろうか。たった一度、会ったきりなのに。
「あなた、おかしいわ……」
 それを恋と呼ぶには、あまりにも危うい。
「狂っているのは、俺でしょうか」
 静かな口調で語る関の瞳が、「違う」と告げている。
 正義を忘れ、誇りを捨て、女としての機能すら失い、狂ったのは「おまえの方だ」と。
 目の前にいるのは本当に関なのか。それとも、関という男の形になって現れた、かつての自分か――
「頼みがあります」
 文結を見上げている目が、わずかに細められる。
 触れていた指先はさらに近づき、大きな手が文結の右手に重ねられた。
「……あなたの顔が見たい」
 マスクを外せ、と言うのか。
 呼吸をするのも忘れ、動くことができなかった。
 その文結の手の甲に触れた指が、形を確かめるようにゆっくりと動きはじめる。内に眠る官能を呼び覚ますよう、柔らかに、ゆっくりと――
「係長」
 突然、耳に飛び込んできた高城の声に我に返り、右手を引き込める。
 関と触れていた場所が離れた途端、さっと冷えて感じられた。
「そろそろ部屋を空けないと、次の予約が」
 高城の声を聞きながら、それでも関から目が離せなかった。
 関は鋭い眼差しで文結を見据え、口元には歪な笑みを浮かべていた。

「ならないですよね」
 取調室を出て、休憩所の長椅子に座り込んでいた文結に、高城が声をかけてきた。
 なんのことかわからず聞き返そうと思ったが、声が掠れて出なかった。ひどく疲れていた。
「あいつと一緒に、テロリストになんかならないですよね」
 軽い口調だったが、冗談を言っているような目には見えなかった。
「馬鹿なこと言わないで」と流すつもりで返したが、頬が強張り上手く笑顔を作ることができなかった。
「……疲れましたね。コンビニ行ってきますよ、なにか買ってきましょうか?」
 黙って首を横に振って見せる。
「そうですか」
 くるりと背を向け歩きだしたその背中に、「高城」と声をかける。
「ありがとう」
 高城は顔だけ振り返り、小さく頷いた。

 外の空気を吸うために、署を出た。
 通用門を出て正面にある道はなだらかな坂になっている。その道に立ち、坂の上を見上げると、夜空の一部が薄く白んでいるのが目に入った。もうすぐ、月が昇る。
 文結はその空を黙ったままじっと見上げている。ゆっくりと、ゆっくりと、空の色が変わっていく。
 やがて、道の向こうに人影が現れた。こちらに近づいてくるその影の正体は、男のように思える。
 影が、文結を呼ぶようにわずかに手を上げる。

 その背後で、半分の白い月が淡く光りはじめた。

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