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シン・かの国戦記 第11話「血戦」

水曜日。会議室に入ると人事担当者と通訳がいた。

”またのらりくらりとやって引き延ばすか”と思いながら相手から条件が書いてある紙が出てくるのを待つと自分の中で方針を決めた。が、同時に他の就職先も好調だったので条件が良ければサインもありかなと思うほどには余裕があった。後から考えるとこれがよくなかった。

とはいえ、まずは引き延ばすために変な条件だったら、判例主義について講義をぶって時間を浪費するつもりではいた。長引けば長引くほどわたくしに有利になることは間違いない。交渉が長引いている間も会社員という身分が維持できれば給料は支払われる。

数分遅れて上司がはいってきた。"なぜこの生ゴミが?"と思っていると人事担当者がおもむろに口を開く。

「今日は彼にも同席してもらう。」

上司が英語で続ける。

「なぜ俺が呼ばれたんだ?」という第一声はわたくしに向けてだったので英語だったが
「さぁ。わたくしは呼んでいませんが。」と肩をすくめると、次の一言は母国語に変わった。違和感が脳内で鳴っている。左脳をグルグル回しているとどうやらお灸が効いたのかと気づきだす。本社の人事部長に送った退職強要を文字お越ししたものが、人事担当者に届いたようだ。

本来なら通訳する必要がない上司のたわごとを同期入社の通訳が日本語にしてくれる。彼女の恩情かもしれない。どうやら上司はビビっているようで自分がやった余計なことが原因で、ダブルレポートラインのひとつである人事担当者から小言をくらうのを恐れているようだ。こちらに都合の良い退職強要を頼んでもいないのに提供してくれる無能な親切さには心の底から感謝するが、目の前でビビっている男にかける言葉は自業自得しかない。

おそらく同期の通訳が気を使ってのことだと思うが、上司がわたくしに対して言った言葉は通訳されなかった。まぁどうせ罵詈雑言でも吐き捨てたのであろう。短期留学したのが高校の時だったので悪口は現地人がおもしろがってたくさん教えてくれた。それが四半世紀を超えて役に立ったとは思わないがおそらくわたくしを悪く言っているようだ。素知らぬ顔をしておいたが不思議なもので人は負の感情を言うときは言語が多少わからなくても相手には伝わる。差別や侮蔑は東ヨーロッパを旅しているときもダイレクトで伝わってきた。その国の言葉なんてありがとうしか知らないのにだ。こういう変なところで人類は国境をすでに超える能力を持っている。

現地語での会話が終わった。話がついたようだ。上司は人事担当者から同席しろと言われ渋々従ったようだ。

「それではそろったので始めたいと思います」人事担当者が切り出す。

おいおい。

「本社の人事部長が同席すると聞いていますが?」とわたくしが返す。

「彼は家庭の事情で来れない。今日はご家族のことで都合が悪くなったそうだ」

笑顔とともに自分のPCの画面に映る社内チャットの画面を見せてきた。たしかに本社の人事部長がそう書いて送ってきている。

どうやら謀られたのは上司だけではなさそうだ。3 vs 1 になるリスクもあったが、本社の人事部長を巻き込んだのは彼が人事担当者の上司筋になるのとこの極東の島国の法制度にもっともらしいことを言って抑止力として機能させるのに都合がよかったからだ。結果 2 vs 1 になったので今日は流したほうがよさそうだ。何も言わずただやり過ごすのもありだ。

自分でも思考が行ったり来たりすることを感じたので、上司を視界から外して目の前の人事担当者に集中しなおす

彼は2枚の紙を目の前に出してきた。今となっては形骸化しているアクリル板の下の隙間を通して見せてくる。

そこにはわたくしが期待するとは乖離はあるが、今の生活レベルを維持しても半年くらい送れる金額が提示してある。まぁサインはない。

人事担当者が説明を始める。

「君のために特別に用意した退職金だ。通常ならNか月しか会社は払わないだ。わたしと君の上司とで会社に掛け合って承認をもらった。君も早く次の仕事を探すのに集中したいだろう。せめての心遣いだと思ってほしい。」

2番目で言われた金額は米国の一部の州で規定されている3か月より少なかったので、青い鳥でもつぶやくどころか大声で抱腹絶倒しているだろう。普段だったら思わず吹き出しているだろうそれらの戯言も全く耳に入らず、次のカウンターの発言を考える。

一席ぶつことにした。聴衆は3人だが、これ幸いと会議室にはホワイトボードがあった。解雇権乱用の法理とか学ぶ気もないのかもしれないのはいかにも赴任して間もない人事担当者らしいといえるかもしれない。前職でこれらの解雇規制に苦しめられつつ、人事部長と法務部長と悩みながら部下の人にさよならを告げたあの苦労の日々への冒涜のようにも感じる。

わたくしはホワイトボードに図解しながら下記の点を説明した。

  • 労働法は日本は労働法は欧州よりは緩いが、高度経済成長期の終身雇用を背景とした判例主義のおかげで実質裁判では雇用者側が負ける”解雇権乱用の法理"が確立されていること

  • 整理解雇を満たしたいなら4要件を満さないと解雇が認められない

  • ローパフォーマンスで切りたいならPIPをやらないと解雇は認められない

  • 人事評価が普通以上の人間をローパフォーマンスしかもPIP未実施では解雇できない

  • 一般に解雇に対抗する手段として労働審判と訴訟とユニオンという手段がある

  • 労働審判だと数か月、訴訟まで行けば1年かかるそれらで解雇が無効だとされれば、いわゆるバックペイが発生してその間の給与は会社が支払う必要があること

  • そのため他の企業は(このようにこそこそ面談したりせず)全社メールをだして1年分を最初に約束して早期退職者を募るのが一般的なこと。(どうせ裁判になったら負けて1年分払うので)

  • 青い鳥のつぶやきをベンチマークしているならそのうちあそこで本訴になったら日本では雇用主側が負けることは前述の理由で確実なこと

といったあたりを図解して説明する。英語で説明できないのがもどかしい。日本語からの同時通訳の短いタイムラグですらも腹立たしい。しかも人事担当者は聞いていないか頭にはいっていない。顔を見ればわかる。

「そんなことは知っている。だから順法なのです、この解雇は」と人事担当者がいうに及んで馬鹿と話すのが時間の無駄だと感じ始める。どうやらこいつも生ゴミだったか。もしかしたら、解雇数と時期が自身のKPIとして与えられていてそこしか興味はないのかもしれない。そのためには法律なんてくそくらえというわけだ。怒りのマグマが沸き上がるのを感じる。

またしても目の前の男をこの場で殺してあげた方が人類のためになるか自問する。彼が突如としてこの世の真理に気づきノーベル物理賞を受賞することはなさそうではある。そういったこの世への機会損失を心配するよりは、彼の排出する二酸化炭素量見込み分が確実に減るといったところは人類共通のメリットがありそうだ。とはいっても、地球全体で彼の排出量が占める量は70憶分の1程度だ。

ホワイトボードでわたくしが図解しながら説明した際に周知いないものとして扱っていた上司ががなり声をあげて続ける。

「胸に手をあてて君のハートに聞くんだ!我々は成熟した大人だから言う。はっきり言えば、君のパフォーマンスが低いんだ。Aプロジェクトで君の作った資料のレベルは低かった。だから…」

"だったら誰が俺の評価を通常以上につけて承認しているだ、〇ゲ" というルッキズムの極致のとっさの一言を呑み込む。大人の言葉に変換しようとすると、目から殺気が漏れたのか、人事担当者が肘で上司を小突いてさえぎった。人事担当者が続ける。

「わたしも、貝野さんの上司である彼も現地社長に掛け合ってなんとかこの退職金パッケージを承認してもらったのです。だから彼はこんなにも感情的に…」

構わず上司が割り込んできて続ける。

「貝野、おまえがここで数か月ゆっくりできたのは誰のおかげだ!新たな仕事を与えずお前に考える時間を与えてきた。お前はここ数か月なにもせず時間を過ごせただろう。考える時間だってあったはずだ。」

交渉術のひとつに2対1で息を合わせて追い込む方法がある。2人のうちの1人を黙らせてむっとさせ、もう片方が柔和な笑顔でしゃべるという「コントラストの原理」を利用した手法だ。警察が尋問などでよく使う手でもある。あれを人事担当者は忠実に実践していた。彼はかつ丼を出さんばかりの笑顔を浮かべている。

「答えろ貝野。わたくしがお前がゆっくりしているのを知らないとでも思ったのか?」

喋ろうとすると

「Yes か No で答えろ」

と上司がまた遮ってきた。むかついたのでYesともNoともいわず

「あなたはチームのことは全部知っていますよ」

と答えた。人事担当者がニコニコしながらサインを迫ってくる。
「それでこの条件でよろしいですか?」

「少し持ち帰って考えさせてください。」

「これ以上、何を確認されたいのですか?いいですか?条件はこれ以上あなたが望むように上がることはありません。これで精一杯です。確認されたいのが文面なのであればこの場でしてください。繰り返しますが、条件がこれ以上あがることはありません。」

人事担当者の口角が下がりだす。

「全体的にゆっくり考える必要があります。わたくしも自分の状況やこれからについて考える必要があるので。」

ここでしばらくやる気なく押し問答を続けた。するとまたしびれを切らしたI上司が割り込んできた。

「何を言っているんだ!貝野。考える時間なら十分に与えてきた。さっきも言っただろう。お前をもう定例にも俺は呼んでいない。ここ数か月お前はなにもしていないはずだ!」

錯覚かもしれないが、同期の通訳の目が心なしかうるんでいる。英語になって翻訳する必要がない間にダメージを受けたことを認識しだしたのかもしれない。(今思えば現地語はかなりきつい表現だったのだろうか?)彼女のプロフェッショナルな通訳に敬意を表し、それには気づかないふりをしつつ、最初座っていた入口付近の椅子に腰かけた。

上司をしばし憐れんで見つめていたように思う。EQとIQを足して二桁をかろうじて超えるであろう男と交渉することに意味などあろうか?あるわけがない。すると人事担当者がカットインしてきた。

「…待ってください。」

「今数か月何もしていないと上司である彼は言いました。これはよくありません。我々の会社で暇はありえません。会社が何のために給料を出しているんだろいう話になってしまう。」

人事担当者が上司に向き直って命令口調でしゃべりだした。

「いいですか?ここ半年の彼の仕事の内容と成果をまとめて出してください。成果を出していない価値を出していないのはありえないです」

「ひどい言われようですね。」

業を煮やして2vs1の攻撃に人事担当者は方針変更したようだ。さすがにPIPになったりレポートを書いたりするのはだるいし不利になりかねないので口をはさむ。

「半年間では○○社を口説いて結果7月に彼らのアプリをローンチさせた。しかもCsuiteへ直接交渉して、要求を絞ることでそれを飲ませ、このテストローンチが済めば次のアプリもローンチしてくれる。国外でのサポートも同僚と調整し提供することができたことも大きい。この一連のアプリは我々のエコスシステムの新たな収益源になるはずだ。」
と割と丁寧に説明した。

「それだけか?」と人事担当者。

「まさか。1か月前には△△社から新たなアプリがでた。これは他P/FでローカルのIPで100万DLを超えたような作品だ。新たに発売されるウェアラブルデバイスへの展開も見えているのでまた収益が追加される予定だ。」

「今出ていない売上なんて意味がないんだ!我々の価値とは今は売上なんだ。君のやったことに価値はないんだ。」また上司が怒鳴る。

お前の上げている売上の利益率は1%程度だし、そもそもいつからBDの成果指標を売上に変えたんだ?俺のパフォーマンスレビューは金額には貢献するとしか書いてないぞ?お前が他の国でリストラ解散されたこのチームを極東の島国で残すためにVanity Metricsとして売上を設定しただけだろ?しかもその売上上げる方法は相手の会社にばれたら、社会問題になるやつだぞ。20年前から業界ではその方法が問題になってんだよ。分かってんのか?

と感情的になる自分を抑えて冷静になる。分かっているわけがない。人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。

目の前の男を説得することに有益なことなど1ナノメートルもありはしない。とはいえ、このままPIPになるのもだるい。時間は稼げるが目の前の紙に書かれたこの金はもらえなくなる。ならば、いっそ訴えるか。そうすれば1年はまぁいけるだろう。幸いにして転職活動はうまくいっているので、本訴でやるであろうお手紙のやり取りは次の会社にいきながらやればいい。というかやるしかない。が、それも取らぬ狸だ。わたくしは本当に訴訟で勝てるだろうか?

生ゴミに怒鳴られたくらいでここまで自分が混乱するのに驚いた。と同時に、この生ゴミたちと話すことへの諦観も漂う。ましてや、労使関係はどちらかが嫌だと言ったらそこで試合終了なのは真実だ。今までそうやって割り切ってきたし、自分のかつての部下だった人たちにもそういった残酷な面を見せてきたこともあったし、傷つけた人もいただろう。因果応報。今度はわたくしの番だったというだけかもしれない。

人事担当者が上司のほうに今後の流れを説明しているが、上司が遮ってつづけた。

「貝野、ほらみろ。もう私は君を助けられなくなる。ここでサインしないと、この条件もすべてご破算だぞ。本社管轄になったら我々は何もできない。」

こういう発言には心の底から死んでほしいと思うし、本社交渉になれば多少労務系に明るい人が出てくるのでこれまでの退職強要などを突き付けて勝てる見込みもあがるので望むところともいえる。相変わらず毛髪と一緒に知能まで抜け落ちてしまった男のいうことは残念だ。

とはいえ、だ。仮にここで年収の1年分をもらって勝利といえるだろうか?この生ゴミたちと話している時間は金額換算したら何百万円の機会損失だろうか?いっそ、生ゴミと話すのをやめ転職活動に全力を注いだ方がよいのではないだろうか?

悪魔の囁きにも合理性は潜む。

生ゴミ2人には「ここまでしてくれたあなたたちのメンツを立てる」と適当なことを言ってわたくしが折れた。満面の笑みを浮かべた人事担当者が細則を読んでくれといったので時間をもらって英語を読み込む。わたくしが恐れていた項目がその中になかったこともサインに向けて背中を押す。目の前の生ごみ2人は言うに及ばず自分への憤怒と諦観、そして、交渉しきれていない後味の悪さが交互に自分を襲う。英語脳になったおかげで感情の起伏はだいぶマイルドになったように感じるが、後から言語が切り替わると反動が来ることは十分に予見できた。

わたくしはサインした。ありていに言えば負けたのだ。

次に続く

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