見出し画像

シン・かの国戦記 第12話「後日」

事後

面談後、まずは上司が会議室から出ていった。残った人事担当者に適当に親身なアドバイスはしたが、言語の問題か、いや、おそらく聞いていないだろう。事ここに及んでも善人面する様は我ながら滑稽だ。

彼を会議室に残してドアを閉める。すると後ろから同期通訳がスッとついてきた。

「寂しくなりますね。」と言われたので、
「ご飯でも今度しましょう。」と笑顔を返しておいた。

結果はどうあれサインした以上わたくしは次の会社を見つけなければならない。とはいえ、最後にわたくしはなんで妥協したんだろうか?メンツを立てるふりまでして。


本社の人事担当部長に行った「自分の言ったこの会社は好きだった」という言霊ににひきづられたのだろうか?

それとも転職の見込みを楽観視していたせいだろうか?

ただでさえやる意味が見いだせない目標設定で会社のためにもならずさりと
て代案がでないなかで苦痛から早く逃れたかったのだろうか?

それで言えば、弱っていたせいだろうか?

会社都合とはいえ、仕事の途中で退場くらってパッケージを満額もらうことへの罪悪感でもあっただろうか?

はたまた、合理的に考えて退職金交渉をつづけながら転職活動することで転職活動が中途半端になるリスクを回避したかったのだろうか?

どれも部分的には正しいのかもしれないが真実でないように思う。

一般的に、レイオフやリストラをする場合、尾を引かないために一斉に部門ごと一斉に切ったりすることが多い。ところが今回この会社は何を思ったがジワジワ時間をかけて少人数を段階的に長期間をかけてリストラしている。外部報道を気にしているのかもしれないが、外資がどこもレイオフに忙しいこの時期なら思い切ってもよいような気もする。

その結果、会社の中の雰囲気はお世辞にも良いとは言えないものだった。そういった環境でイラつきつつもそれが身分相応な自分であることを受け入れつつ粛々と退職面談をこなしていけば、交渉方法が改善してより良い交渉結果が得られたのであろうか?

妻曰く、人は自分を守るために物事を打ち切ることがあるそうだ。この発言は後付け論でわたくしを慰める彼女なりのやさしさかもしれないが、しかし、鑑みると相手をあざけったり、皮肉を利かせたり、笑わせることを条件反射的に今回の騒動で行いがちだった。これは精神的抑圧から自分を守るための防衛本能がなした所作かもしれない、とも思う。

タラレバだが、粘って交渉してパッケージを満額もらえればよかったのだろうか?

エコシステムのもととなる市場シェアは出荷されない端末のためにカタストロフィーが続いているし、その理由も貿易摩擦だ。ジョーバイデンやトランプに仮にわたくしが電話しても取り合ってくれるとは思えない。政治の都合は内政や国民感情の都合なので、そうそう変わらない。
そういった本質的な解決を望まないまでも、仕事をやり切る個人的欲求を充足させることに意味はある。が、会社側に自分自身が必要とされていないなかで時間を無駄にして、生活費のためとはいえ、パッケージを満額もらう意味とは一体なんなんだろうか?

むしろ、パッケージ減額分で時間を買えるという考え方もなくはない。

言い訳と懊悩の区別もつかず、生き方に関する優先順位に対する明瞭な答えがないまま、大したドラマもない中年男性の退職劇は幕を下ろした。

後書

年が明けて新年になった。

20年前ハンガリーのブタペストで知り合ったバックパッカーがSNSで一枚の写真を送ってきた。

当時20歳そこそこでITバブルの波に乗り、学生ながら働いていたわたくしは社長と折り合いが悪くなり働いていた零細企業を辞めた。SARSという熱病のせいでわたくしの深夜特急は博多から釜山に行って欧州へ抜けるルートとは逆コースとなった。ウィーンに降り立ったわたくしはワイン瓶片手に安宿を周り、酒を浴びるように連日飲んでいた。数か月が過ぎたころ、早くも持って行った100万円ほどの現金は半分になろうとしていた。おばあさんとその娘が営むハンガリーのブタペストのマリアハウスという安宿に無気力に寝っ転がっていた。地元のトカイワインは甘くて美味だったが、強い酒が飲みたくて安いウィスキーをトカイワインのチェイサーとしてラッパ飲みしていたように思う。ベッドが10個ほど並ぶドミトリーには3人の日本人男性と白人女性3人と待っていた。べろべろになったわたくしは勢いに任せて今よりも怪しい英語でまくし立てていたらしい。自分の旅の些細な出来事と旅する目的を。

手元の写真に写る眉間にしわが寄った若くやせこけた自分。あの時とは違い今はもう酒は飲まない。体がもたなくなって、γ-GPTは閾値の5倍を軽く超え、英語学習の継続性にも支障をきたしたので、2年ほど前に本格的にやめた。

クビになって数か月が過ぎたが未だ、就職先は決まらない。が、さりとて働く気が起きるわけでもない。眉間にしわ寄せた写真の中の若い自分を見ると、多少丸みを帯びた外観を除けば、鏡を見るかのようだ。そろそろまたどこかへ旅立つ時なのかもしれない。そんなことを思っていると、バス停ではしゃぐ高校生の歓声で現実に戻される。SNSを閉じスマフォから目を離す。氷点下の寒空を見上げれば、雲一つない青空が広がっている。どこかで鐘が鳴っているようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?