見出し画像

ピース

今年の4月の始め頃、
トロントに移住した。

玄関口のユニオン駅に降り立ち、
目の前に広がる高層ビル群と、
トロントのシンボルタワーに圧倒された僕は、
残雪の街を行き先も無く歩き続け、
初めて見る風景の中に身を委ねた。
それから暫くしてある事に気付いた。
欧米人の中に多様な民族が入り混じる特殊な雰囲気が漂うこの地で、
不思議と僕はどこか落ち着きを感じていた。
歩いていくうちにそれが何でかは直ぐに分かった。
日本、中国、韓国といったアジア諸国に限らず、
様々な国の専門店があちこちに散在し、
異国から来た者同士による既成の安定がこの街から見受けられたからだ。

でありながら、
見るからに日本人と思しき人に出身を聞けば、 
カナダが母国だと答えるのだからこれまた混乱する。

「これがカナダか」

民族とは何か。
国籍とは何か。
日本人特有なのだろうか。 
無意識に"分けて見る"僕の目は、
まだ世界を知らなかった。


それから約半年が経った。



「自分の目をグローバルにしてやる!」
と息巻いていた僕は今まさに、
同じ民族による世界一小さくて醜い争いの中にいる。


6人はテーブルを囲み、
4本しか無い"メローナ"をじっと見つめている。
メローナとは、トロントのどこにでも売っている至って普通のメロン味のアイスだ。
トロントで出会った物の中で1番のお気に入りは間違いなくこいつだ。
深夜2時を過ぎた何かちょっとだけ口にしたい時にこれまたちょうど良くて、
家の冷凍庫にいつもストックされている、
はずだったのだが——。


「じゃんけんだな」


誰も譲る気はない。
煙草の火を消して拳を突き出す大人たちの顔は至って真剣だ。
じゃんけんは良い。
ルールの説明も要らないし、必勝法も実力もない。
勝敗がはっきりした運任せの世界一フェアな勝負だ。
一本2ドルのアイスだって、紛争だって。
どんな理不尽も最後はじゃんけんで決められたらどんなに良いものか。

本当にそうじゃないか。
世の中は理不尽な事だらけだ。

横にいるルームメイトの"ショウマ"が帰国する。
誰よりも先に。
このじゃんけんで決まる脱落者とは違う。
急遽、突きつけられた理不尽な事情によって彼のトロント離脱が決まったのだ。


「帰ったら大事な話があります」


一回りも年下の彼は、
ある日の仕事に行く前の僕にそう予告した。

「楽しい話?」

と返したけど、
そんなわけない事は分かっていた。 
だから仕事から帰っても僕から話はふらなかった。
横並びのベッドに入った後、
真っ暗な部屋の天井に向かって彼は重い口を開いた。


こんな下らないじゃんけんももう最後だとしたら、
「最初はグー」と振り上げるこの瞬間が急に、
スロー再生みたいにゆっくり進んでいくような感覚に陥っていく。


ショウマとの出会いは、
ケンジントンという、所謂治安の悪い街の片隅にあるホステルだった。
2段ベッドが3つ置かれた個室が何部屋もあって、プライベートな空間はそのベッドの上だけだ。
ただ、シャワーもあって朝食も付いてきて一泊50ドル前後というのは、恐らくこのエリアで最安だったに違いない。
毎日海外からやって来るバックパッカーがこのホステルで身体を休ませた。
トロントに来たばかりの僕はずっと焦っていた。
予算も気にせず贅沢に観光していた所持金はあっという間に消え、
その上住む家も仕事も簡単には見つからず、
不本意にこのホステルへと流れ着いたのだ。
毎日やってくる朝が怖かった。
入居者募集のサイトからの返信を待ちながら、
ただタバコを吸う事しか出来なかった。
ショウマもその1人だった。
彼はいつもホステルの前でタバコを吸いながら誰かに電話していた。

「家見つかった?」

目が合えば挨拶をする程度で、
「まだっす」と話す彼から焦りは感じ取れなかった。
彼には20歳そこそことは思えぬ落ち着きがあった。

滞在して数週間が経ったある日のことだ。
ホステルから歩いて直ぐの所で条件の良い物件を見つけた。 
内見のため教えられた住所へと向かったが、
一向にお目当ての物件は見つけられなかった。
まさかと思い、古くてもので溢れかえった雑貨屋の前で足を止めてキョロキョロとしているところで、  

「こっちです」

声のする方に目を凝らすと、若い日本人女性が建物の隅っこに備え付けられた扉から顔を出して僕を呼んでいた。
物が多すぎて全く開かない扉を無理矢理こじ開け、体をねじこむように中へと入った。入って直ぐ階段だ。
階段も自転車のタイヤや楽器など、ガラクタがぎっしり脇に積まれていた。この奥は一体どうなっているんだろうか。

「もう1人の方は?」 

大家の代わりに来てくれた案内人が怪訝そうな顔で聞いてきた時、初めて2人同時入居が条件だと知った。 

「困った」

僕はその全貌を知る前に内見を終えたのだ。 
トロントに来たばかりの僕に知り合いなんていない。ましてや同居してくれる気の知れる友人なんている筈もない。
「また振り出しか」と、とぼとぼとホステルへと歩いて戻ると、
誰かに電話をしているショウマを見つけた。

初めて会った時から彼には従兄弟と同じような雰囲気を感じていた。
大人しく優しい性格が、何より笑った時の温かい印象が似ているんだと思う。
だからなのか、放っておけなかったのかもしれない。

まだちゃんと話した事もない人間にいきなり、
「一緒に物件見ないか?」なんて普通に考えたら引かれるだろう。普通に考えたら。
ただ、ここは日本じゃない。
ショウマの姿を見た瞬間に足が動いていた。

彼は少し考えて、

「いいっすよ」

良いのかよと思った。
それから、直ぐに2人で内見に向かった。

雑貨屋の2階は、
使い道を見失った家具や楽器類などで溢れかえっていて、多くの内見者が入居を断念する程汚かった。
贅沢を言っていられる余裕は無い。
それに雑多で広いテラスの雰囲気が気に入った。 
その場で入居を決め、
まだお互いの事をよく知らない2人の同居生活が始まった。  

「敬語はやめようよ」 

僕がそう言っても「出ちゃうんですよね」と彼は拒み、僕らの間に壁とはまた違う、薄い幕みたいなものがずっと介在していた。

僕らの関係性より、なにより生活だ。
近所の日本食レストランを探して、片端にレジュメを配って回った。
幸いにも仕事もすぐに見つかった。
お互い別々の仕事に就いたけど、
一緒に昼飯を食べる事が日常化した。
2日に1回はペペロンチーノだったけど。
同居してからも変わらず誰かと電話をしていた。
彼女と話してるのか、友達と話してるかの区別はつくようになっていった。
初めて中古のギターを買ってみた。
下手くそな音に合わせてサザンとバックナンバーの曲を2人で歌い合った。
毎日触るようにはしていたけど、
"F"の壁をなんなく超える程上達はしなかった。
暫くして、ショウマがおならをするようになった。
僕らの間にあった幕は消えた、と確信した。
それはFの壁なんかよりも大きな進展だった。
ショウマ以外の友達もできた。
僕らの家が溜まり場になって、
毎晩いつまでもテラスで語り合った。
調子に乗って焚き火をしたら大家さんにこっぴどく叱られた。
Mr.Childrenの"星になれたら"を歌っていると、
世代でもないショウマも一緒になって歌って、
なんで知っているのかと聞けば、
ショウマのお父さんが昔トロントに移住する時に友人が歌って見送った曲だと聞かされた。
その時、僕が彼を見送る事になるとは思ってもいなかった。
帰国が決まった後、
ナイアガラの滝、遊園地、カジノ、、、思いついた場所は全て行って、
それ以外は今までと変わらず過ごした。
朝起きてタバコを吸って。
また茹で過ぎたなって、
2人分とは思えない量のペペロンチーノを作った。
家から少し離れた一軒家の洗濯機で洗濯を済まして、
仕事から帰ったら深夜までまたタバコを吸った。



思い返せば大した事の無い日々で、
想像してたよりもうんと小さい世界だったけど、
毎日が新しくて、刺激的で、
とにかく全力で、
僕たちは見た物全てを目に焼き付けた。



彼と、彼の大事な人もまた。
どうか、元気で。
また会おう。


スロー再生もいつかは終わる。


「じゃんけんっ!」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?