皆伝 世界史21 1763年-1815年

皆伝 世界史21 1763年-1815年

本郷りんの皆伝 大学受験

皆伝21 1763年-1815年世界年表 - コピー

世界年表を拡大して観てくださいね。
欧米では、アメリカ独立革命/アメリカ独立戦争があって、その影響を受けた大陸ではフランス革命があって、その影響を受けたアメリカ大陸でハイチなどの中南米の独立運動が起こって、その影響を受けた大陸では諸国民戦争によってナポレオンが倒されて諸国民の春と言われる支配からの脱却がある時代です。この思想や出来事の影響の連鎖を大西洋革命と言っています。

アフリカ北部ではオスマン帝国が衰退して自立が進んで、サハラ以南、インド、オーストラリアには英国が進出してきます。中国は衰退して内乱となって、朝鮮と日本ではキリスト教徒の迫害や蘭学の禁止など内向きで閉鎖的な世相になっていきます。東南アジアではヴェトナム統一の一方で、英国の進出、オランダ政府の直轄支配へと次第に変わっていく時代です。

この時代は量が多いので、前部、後部に分けて書きます。
今日は前部、アフリカ、独立革命/独立戦争のあるアメリカ、フランス革命とナポレオン時代を中心にしたヨーロッパ、中南米の独立運動までを書きます。
1763年-1815年の時代、1815-1763は52で、ちょうど中間の26年のところ1763+261789年、1815-26も1789年、フランス革命の年です。憶えやすいですね。先生の、時代の区切り方も絶妙です。

前部

流れ
英仏の戦争で戦費が増えて、英国がアメリカ植民地に課税したら、アメリカが独立。
アメリカ独立戦争に参加したフランス人が帰って、自由主義や共和制の思想を広めます。
フランスでも戦費が増えたので、貴族への課税をめぐって市民の怒りが爆発します。
フランス革命が起こると、周辺の王国は介入して革命をつぶそうとするので、はじめは防衛戦争、それから侵略戦争をすることで革命思想の輸出をします。
そこに戦の天才ナポレオンが台頭して、ナポレオンが皇帝になる帝政に変わります。
ナポレオンに負けた神聖ローマ帝国の崩壊、ナポレオン失脚と、戦後を話し合うウィーン会議があって、フランス革命の前に戻そうというウィーン体制が成立します。

 アメリカ大陸           ヨーロッパ半島
               
                 ①戦争の負債もありますが、産業革命で                
                重商主義を推し進めた英国は東インド会 
                社の特権を重視して、アメリカに課税
②アメリカで独立戦争⇐
               ⇒ ③参戦したサンシモン、ラファイエット                                                             がフランス革命
④それを観た⇐
ラテンアメリカが独立

こういう連鎖が起こることを大西洋革命と学者は言います。

米国の独立、フランス革命を機に、自由独立の機運がヨーロッパ各国で盛り上がります。

□□アメリカ大陸

南部は綿花の一大産地でした。他にルイジアナの砂糖、藍のサウスカロライナ、ジョージアのコメ、ヴァージニア、ケンタッキー、テネシーのタバコもプランテーションと言われる大規模農園で栽培されていました。ルイジアナだけが最初に独立する13州ではありません。砂糖の生産は17世紀はバルバドス、18世紀からはジャマイカ、19世紀にはキューバに中心が移ります。ルイジアナが中心だったことはありません。

□北米
1763年フレンチ・インディアン戦争後のパリ条約で、フロリダはスペイン領から英国領へ移っています。
フランス領のミシシッピ川から東の領土/ルイジアナ東部は、ニューオーリンズ周辺とポンチャートレイン湖周辺の郡部を除いて、英国に割譲されています。フランス領ルイジアナの残り/ルイジアナ西部はスペインの所有になっています。ただ、1713年のユトレヒト条約でアカディア地方(21世紀のカナダのノヴァスコシア、米国のメーン州にまたがっています)がフランス領から英国領に移ったので、英国の支配を避けたい数千人のフランス系の人々がルイジアナに入りました。主にルイジアナ南西の地域に入りました。アカディアの難民はスペイン人に歓迎され、アケイディアナと言われる土地に住む子孫はケイジャンと呼ばれます。

英国は、七年戦争で財政が悪化したので、植民地経営や、植民地の防衛に関する費用を植民地に負担させようと課税をします。
税金を広く薄く取るために、北米のカナダに多いフランス系の人、オハイオに多い先住民も臣民化して統合する必要がありました。つまり、中央集権化を進めたいんです。けれど、植民地人のうちイギリス系の人は、すでにフランスの脅威はなくなったので、防衛の必要もないし、税金は安くして、自治も高度化すると考えていたんですね。人口も急増していました。英国の北米植民地の人口は1700年に25万人ほどでしたが、1760年代に150万人を超えています。だから、植民地の人は、先住民の多いミシシッピ川までの開拓を必要としていたんです。それで西部への開拓許可を英国政府に要求していました。
それなのに、と思ったことでしょう。植民地の人が西に進まないよう、阻止するために先住民の保有地が容認されます。それが1763年の「国王布告」です。アレゲーニー山脈からフロリダ、ミシシッピ川、ケベックの間にまたがる西部が、先住民のの保有地とされました。英国政府は何にもわかっていないと怒ったでしょうね。先住民からすれば保有地は当然ですけど。

ひとつ前の時代に、西インド諸島/カリブ海のプランテーションの大地主は、北米の英国植民地(ニューイングランドなど)が、オランダやフランスなどの他国領の植民地と貿易することを禁止せよ、と英国政府に要求しました。カリブ海のラム/ラム酒、その原料の糖蜜をニューイングランドにもっと売りたかったんですね。英国は、財政健全化のために、そうした外国産の糖蜜に対して高い関税を課すことにします。これが1733年の糖蜜法です。1763年に失効すると、英国はこれを延長せずに、代わりに砂糖条例を制定します。財政健全化をしたい英国は外国産のラム/ラム酒を禁止します。そして、糖蜜には50%の関税を課しました。そうすればオランダやフランスの植民地からラムの原材料の糖蜜を密輸しなくなると判断したんですね。密輸がなくなれば税収になります。
取引量が増えたので、税率を50%に下げても十分な税収が上がると考えたんです。 密輸の取り締まりも厳しくなったので、ニューイングランドの人は、高い糖蜜を買ってラム酒を作るんですが、ラム酒の価格を上げると、とうぜん消費者は買いません。価格据え置きでは、儲けが出ません。英国政府に対する怒りが湧きますね。
ワイン、絹、コーヒーなども贅沢品として課税をしました。
1764年には砂糖法/砂糖条例も可決されます。アメリカ植民地の人は、砂糖条例に対する反対運動をして、ボストンでは英国の贅沢品に対するボイコット、不買運動がありました。
1765年には、新聞にも公的文書にも、有料の印紙を貼ることを義務付ける印紙条例が制定されます。またもや課税強化です。

代表なくして課税なし」という言葉があります。
本国である英国の議会には、植民地のアメリカ人代表が議員として出席を許可されていないのに、課税することはできないと、パトリック・ヘンリーが主張した時の言葉で、その後の英国の権利侵害に対する反発のスローガンになりました。
1766年に、英国の議会が譲歩して、印紙税法を廃止して、砂糖法を修正します。けれど、その後、植民地に対する本国政府の厳しい統治をすべきだという考えの人たちを意識して、英国議会は1766年に「宣言法」を可決します。これは、議会がどんな場合でも植民地を拘束する法律を制定する権限を認めるという法律でした。
                                                       英国の財務大臣チャールズ・タウンゼンド(Charles Townshend。タウンゼントではありません)の名に由来する1767年のタウンゼンド諸法では、ガラス、紙、ペンキ、茶に課税することが定まりました。茶以外はまもなく撤廃されます。
このタウンゼンド諸法は、印紙税法のような内国税は違法だけれど、植民地が輸入する製品に対する課税は合法という考え方を前提としていました。
東インド会社を救済する目的で、東インド会社に茶の独占販売を容認する1773年の茶条例/茶法は、そんなものは えこひいきだという植民地人の反発を生みました。

1773年、ボストン茶会事件
ボストンの人は茶を海に投棄しました。海が茶葉で埋まったのでジョークで「ボストンで茶会が開かれた」と言ったから茶会事件になったと言う学者がいます。tea partyを茶党と訳すべきという人もいます。コーヒー好きをコーヒー党と言うならわかりますが、アメリカ人はこれ以降は茶をボイコットし、コーヒーの需要が拡大したと言われるので、アメリカ人の茶党が起こした事件とは言えません。それに、英語では茶が好きな人をtea personと言います。因みにアメリカン・コーヒーが薄いのは、紅茶に味を似せるためと言う学者がいます。
ヨーロッパからアメリカにコーヒーが伝わったのは1607年のことで、トルコでコーヒーを知ったキャプテン・ジョン・スミスが植民団を率いてヴァージニアに上陸して、ジェームスタウンという植民地を作ったことが始まりだそうです。

1774年、第一回大陸会議がフィラデルフィアで開催されました。
集まった州代表が、会議で決議したことは
①植民地人の権利、自由、免除特権があること。英国の政府はこれを侵害したこと。
②英国王ジョージ三世には上奏文、英国人、英領アメリカ植民地の人には声明を出して、アメリカ人の権利の回復を要求すること。
③要求が受け入れられるまでは、英国からの商品の輸入を停止すること。ボイコット委員会を各々の地方自治体につくること。
この項目はアメリカ人を親英国派、親アメリカ人に分断することになります。2020年、2021年にもパンデミックに対して、マスクをつける人は民主党、マスクを付けない人はトランプ派/共和党という分断がありましたね。 建康と政治を区別せず混同してしまう出来事は、歴史的に見て悲劇でした。
この3項目を決議して、採決されます。そして、可決されたものは「権利の宣言」と言われます。一言で言うと、不平等課税の拒否ですね。
1775年3月、親英国か親アメリカかで揺れるヴァージニア議会で、パトリック・ヘンリーが演説をします。締めくくりの言葉「我に自由を与えよ、さもなくば死を」は有名ですね。「代表なくして課税なし」の人です。 

1775年-1783年、アメリカ独立革命/アメリカ独立戦争
大陸会議も植民地の人も話し合いで解決しようとしていたんですが、戦闘が始まってしまいました。
1775年4月、ボストン近郊でのレキシントン・コンコードの戦で、武器の接収/奪取をしようとした英国軍と、阻止する植民地側の民兵が衝突したんです。そして、植民地側が勝利します。

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1775年5/10から第二回大陸会議がフィラデルフィアで開催されます。場所は移動しますが、この第二回会議は1781年3/1まで続きます。
1775年6/15にジョージ・ワシントンを植民地軍の将軍/総司令官に決定します。フレンチインディアン戦争に参戦した経歴と政治家としての経験を買われたんですかね。

1776年1月、トマス・ペインが「コモンセンス」というパンフレットを出しています。1774年に英国からアメリカに渡ってきた急進派の政治理論学者で著述家でもあります。この時点では英国の下で元通り、自治の拡大、独立という選択肢が植民地人にはあって、独立は大勢を占めていなかったかもしれません。それでもトマス・ペインは、独立することが常識/コモンセンスと主張したんです。

1776年7/4独立宣言
トマス・ジェファーソンが起草したと教科書には書かれていますが、執筆をした人です。原案を修正したジョン・アダムズ、ベンジャミン・ フランクリンに加えて、ロバート・R・リビングストン、ロジャー・シャーマンが起草して、56人が署名しました。
少し読んでみます。
「人類の歴史において、自国民と他国民とを結び付けてきた政治的なつながりを断ち切って、世界の諸国家の中で、自然法と神の法によって与えられる独立平等の地位を占めることが必要となる時がある。その時、全世界の人々の意見を真摯に尊重するなら、その国民は自分たちが分離せざるをえなくなった理由を公言すべきだろう。
私たちは、以下の事実を自明のことと信じている。すべての人間は生まれながらにして平等で、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ」
このあたりは福沢諭吉の「学問のすすめ」にある「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らずといへり」に影響したと言う学者がいます。
続きを読みましょう。
「こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立されて、その政府は統治される人たちの合意に基づいて、正当な権力を得る。そして、どんな政体の政府であっても、政府がこうした目的に反した時、人々は、政府を改造するか、廃止して新政府を樹立することができる。」
「今、まさにそのような必要性によって、これまでの政府を変えることを迫られている。今の英国王の治世は、繰り返される不正と権利侵害の歴史だ。」
以下は国王ジョージ三世の非道がつらつらと書かれています。
「このように、専制君主の定義となりうる行為を特徴とする人格を持つ君主は、自由な人民の統治者としては不適任だ。」
「私たち、アメリカ連合諸邦の代表は、大陸会議に参集し、以下のことを厳粛に公表して宣言する。これらの連合した植民地は自由な独立した国家であり、 そうあるべき当然の権利を有する。この宣言を支持するために、神の摂理による保護を強く信じ、私たちの生命、財産、および神聖な名誉をかけて互いに誓う。」
署名者には、ジョージア植民地/州のバトン・グウィネット、ジョージ・ウォルトン、
ノースカロライナのジョゼフ・ヒューズ、サウスカロライナのトマス・リンチ・ジュニア、
マサチューセッツのジョン・アダムズ、メリーランドのサミュエル・チェース、バージニアのリチャード・ヘンリー・リートマス・ジェファソン、ベンジャミン・ハリソン、ペンシルべニアのベンジャミン・フランクリン、ジョージ・テイラー、デラウェアのシーザー・ロドニー、ニューヨークのウィリアム・フロイド、ニュージャージーのジョン・ウィザースプーン、ニューハンプシャーのジョサイア・バートレット、ロードアイランドのスティーブン・ホプキンズ、コネティカットのサミュエル・ハンティントン、ウィリアム・ウィリアムズなど、後に大統領になる人、後の財閥や政治家の先祖ではないかと思わせる名字の人が名を連ねています。

この独立宣言には、ジョン・ロックの思想が影響しています。自由、州の自主権を含む平等、革命権、民主主義です。

1777年に、英国軍がアメリカ合衆国の都フィラデルフィアを占領したので、9月末になって大陸会議はヨーク(ニューヨークではありません)に移って続きました
1777年、連合規約で、憲法(後で修正されます)、国号、国旗の制定が決まりました。
サラトガの戦でアメリカ軍が勝利します
これを受けて、士気は高まりましたし、英国と対立するフランスがアメリカ側で参戦することを決めました。
自国の専制的な王政に批判的な人や、他国から圧力を受けている国の人、植民地にされている国の人が、義勇兵としてアメリカ軍に参加します。「人権宣言」で有名なフランスのラファイエット、フランスのサン・シモン、ドイツのシュトイベン、ポーランドのコシューシコ、ベネズエラのミランダが有名です。
フランクリンがアメリカへの援助を訴えて、ヨーロッパ各国を回ります。ロシアのエカテリーナ二世は中立を宣言したので、ポルトガル、プロイセン、デンマーク、スウェーデンが一緒になって、武装中立同盟を結成します
具体的な行動は目立ちませんが、オランダ、スペインもアメリカを応援しています。

この時期のアメリカの政治は、独立派のパトリオット(愛国者)と言われるグループが主導します。
1781年、英国の拠点ヨークタウンをめぐる戦では、ワシントンの参謀としてラファイエットが参戦しています。フランス海軍の協力もあって、ヨークタウンは陥落します
これを受けて、アメリカと英国は1783年にパリ講和会議、パリ条約を結ぶことになります。そして、東部13植民地の独立が承認されました。英領ルイジアナも米国に譲渡されます

各州に主権を認めた連合規約を廃して、
1787年、フィラデルフィア憲法制定会議で、新憲法を起草します。マディソンが起草者です。モンテスキューやジョン・ロックの思想を受けて三権分立、東部13州の各州が自治権を持つ連邦政府、北部では奴隷廃止を決めました。ワシントンが初代大統領(1789年4/30–1797年3/4)になります。就任は1789年です。
米国では連邦政府の予算や歳入に関連する法案を提出する権限は下院に与えられました。条約の批准や承認、大統領が指名する各省庁の長官や最高裁判事の承認などは上院だけに権限が与えられました。連邦政府には徴税権があるので、連邦税というものはあります。
三権分立は権力の「乱用」のためでもありますが、合衆国憲法では権力の「集中」を防ぐためであって、権力の乱用を防ぐのは1791年に憲法修正の第1-第10条として加えられた権利章典と言う学者もいます。
アメリカ合衆国の首都は1789年3/4-1790年12/5ニューヨーク、1790年12/6-1800年5/14 ペンシルベニア州フィラデルフィア、1800年5/15からどの州にも属さないワシントンD.Cと変遷しています。

1789年-1797年 大統領はワシントン ジョン・アダムズが副大統領
1783年、スペインが独立戦争を支援したので、フロリダは英国(実質はアメリカ)からスペインが回復しています。  

1791年権利章典Bill of Rights  憲法修正第一条から第10条までをまとめてこう言います。
元の憲法は修正されて、なくなったわけではありません。修正が追加されていきます。憲法第一条の他に、憲法修正第一条があります。

1797年-1801年、第二代ジョン・アダムズ大統領
1800年、フランスのナポレオンは、
①スペインからルイジアナ西部を購入し回復することを決定します。
①の方は1801年になって、サン・イルデフォンソ条約が調印されます。2年間ほど秘密にされていた条約です。
②スペインがルイジアナとパルマ公国をフランスに譲って、スペインはトスカーナ大公国を得るという準備協定も結ばれています。これもサン・イルデフォンソ条約と言います。②は1801年のアランフェス条約で調印されます。
サン・イルデフォンソはスペイン中部にある離宮の名前で、サン・イルデフォンソ条約という名前の条約は6回あります。受験生は1801年の時だけ知っていれば十分です。
1777年のサン・イルデフォンソ条約は、スペインとポルトガルとの間で南米の両国の境界を決定した条約です。

1801年、第三代トマス・ジェファーソン大統領
1803年、米国はフランスからルイジアナ/ミシシッピ川の西部を1500万ドルで買収します。フランスとしては、ハイチの独立闘争があるので、植民地経営に今後もコストがかかることがわかったし、対英戦争に注力するためにお金が必要だったことも理由です。ハイチは1804年に独立します。
  
独立達成後は、①中央集権を目指す連邦派と、②各州の主権を認める反連邦派が対立しています。最初は連邦派が政治を主導して、第三代のトマス・ジェファーソン大統領以降は反連邦派が主導します。
①ワシントン、ジョン・アダムズ、初代の財務大臣アレグザンダー・ハミルトンなど。中央集権で、工業を重視する連邦派/フェデラリスト
消滅したとも言われますが、たぶん雌伏期間を経て、ホイッグ党を経て、1854年のカンザス・ネブラスカ法に対抗したことを契機に、リンカーンが主導して共和党に改称します。1861年の南北戦争前の状況は、部は和党で央集権。
北共中と憶えます。

②トマス・ジェファーソン、ジェームズ・マディソンなど。州主権で、農業重視の反連邦派。農業に適した南部に多いですね。南部はメリーランド、ヴァージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージアなどです。
反連邦派は、1790年代に民主共和党/ Democratic-Republican Partyという政党を作ります。議員を出す母体です。リパブリカン党やジェファソニアン・リパブリカン党などの愛称もあります。1824年になると、ジョン・クインシー・アダムズ(第五代大統領。第二代の孫)などは分離して、国民共和党を結党します。1824年から1833年まで続く政党で、ジョン・クィンシー・アダムズの支持者と反ジャクソンを掲げる政治家の政党です。1833年に①のホイッグ党に吸収されます。
第七代大統領のアンドリュー・ジャクソンは1828年に、民主共和党から民主党へ改称します。
ジェファーソン大統領以降、はっきりと南部、民主党、重農主義、反英になります。                                          
南部では1790年代にホイットニーが綿繰機(わたくりき)を発明したか実用化したかしたので、手作業の代わりに、綿の種をローラーを使った機械が取るようになります。少ない人出でいいので、綿の出荷を増やすことができます。
産業重視の北部では、1807年フルトンが蒸気船を建造して、ニューヨークを流れるハドソン川で実験をしています。外輪船のクラーモント号です。後ろのスクリューがあるのではなく、船体の左右に車輪がついていて回ります。既にフランスに行っていたときにも試作品を作っていましたが、実用化の最初はコノクラーモント号と言えます。無風、向かい風でも航行できるので、風待ちをしなくていいという点で、アメリカ、アジア、アフリカの心理的な距離を縮めたと言えます。フルトンは、世界初の潜水艦ノーチラス号も設計しています。ジュール・ヴェルヌの「海底二万里」に出てくる潜水艦のモデルかもしれませんね。
すでに1789年からフランスでは革命が始まっていて、1804年にはナポレオンが皇帝になっています。英国はフランスと戦するために、経済的に締め付けようとして、大陸の船の出入りを制限しています。フランスも英国に対して同じことをしています。 
         
米国は英仏の争いには中立だったんですが、英国はアメリカ船の通商を妨害したり、船を拿捕(だほ。拉致ですね)したので、1812年、米英戦争/第二次独立戦争が勃発します
戦争中は英国からも物資が入らないので、アメリカでは輸入代替が進みます。輸入品の代わりに、自国産品の質と量をあげて、需要を満たそうということです。これが功を奏して、アメリカは戦後、あまり英国からの品を必要としなくなります。
1814年、ガンの和約/ヘントの和約で講和します。
この戦争で、経済的にも英国から独立できました。以後、アメリカの北部の産業地帯は保護貿易化していきます。英国からの高品質で安いものを入れずに、自国産でやっていくために、アメリカの産業を保護する、そのために輸入品に高関税をかけるということです。南部は安い農産物を英国に売りたいので、アメリカの政策に対抗した英国が高関税をかけてくると困りますね。だから、北部と南部は対立するんです。これは南北戦争の要因の一つでもあります。
       
国民国家の形成
ヨーロッパでは絶対王政期に、他国の干渉を排除して、国境、国民、国家主権が干渉されるべきではないものという価値観が作られました。絶対王政の後の国家政体が、国民国家です。絶対王政の主権者、国家の権力を握るのは国王でしたが、国民国家では市民が主権者となります。絶対王政から国民国家への変化は、アメリカの独立戦争、フランス革命などの市民革命を通じて起こりました。フランス革命の後に起こったナポレオンのヨーロッパ支配によって、国王のいない政体を実感したり、都市国家ではなくても、大きな国でも共和政が成り立つと知った各国の市民は横暴な国王に抵抗を始めます。ロシア下のポーランド、オスマン帝国下のギリシアのように他国に支配されている国は自治を目指します。オスマン帝国下のエジプトのように自治を認められている国は独立を目指します。南北戦争中のアメリカ、ドイツ、300の国/藩に分かれる日本、イタリアのような分裂国家は統一を目指します。独立国家は、国王のいない共和政の国民国家を目指します。または、オスマン帝国のように立憲王政を目指します。すでに立憲王政の英国では、市民が政治参加を求めて選挙権拡大運動をします。
このように自治、独立、統一、立憲制、共和制、政治参加の拡大のステージがあって、基本的には一つか二つ上のステージを目指す動きが次の1815年からの時代に起こります。

国民は作られるものです。
民族もそうですね。同じような言語、同じような容貌(ようぼう。顔かたち)、同じような服装、同じような習慣、同じような価値観、同じような行動、同じようなところに住んでいる。
こういうもので同じ民族、同じ国民だと思うようになっています。
内側の同じようなもの、外側の違うものという分断線、境界線は人工的に引くものです。
例えば琉球王国は日本国とは違う国ですが、21世紀には沖縄を日本ではないともう人はほとんどいないと思います。人工的な国境線が移動したんです。
イタリアのトスカーナ語、スペインのカタルーニャ語、ポルトガルのリスボンで話されている言葉は似ていますが、国境を引くことで、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語というように外国語になります。
地方色豊かな服装や言語を認めずに、中央集権的に均一化していくのが近代的な国民の創出に欠かせない運動でした。それで地方言葉は方言と略されて、訛(なま)りがあると蔑視したりするんですね。
服装も建物も似たようになっていきます。個性がなくなります。校則と同じですね。髪の色なんて学習とは何の関係もないのに、黒って決めて押し付けてきます。それで学生らしい、学校の校風などといって分断線を作って囲い込んでいるんです。
そこになじめない人もいるということを意識していないんですね。

□中米
米国の独立、仏革命を機に、自由独立の機運が盛り上がります。
移民にとっては本国、先住民にとっては宗主国のスペインが、フランスの支配下に入ると、植民地もこれが好機だと思って、独立運動をします。
抵抗しても、スペインは軍を送ってくる余裕がありませんからね。

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ハイチ
17世紀、ハイチにはフランスの西インド会社がアフリカから奴隷を連れてきていましたが、ハイチを含む西インド初頭の植民地人は、自由貿易を要求したので、西インド会社は意義を失って、1719年には東インド会社と合併して、インド会社になっています。そして、アフリカ、西インド諸島の間は自由貿易船が奴隷を運びました。1788年時点で、ハイチの白人は2.8万人、黒人の奴隷は40.6万人いました。
フランス革命戦争中、1795年にバーゼルの和約で、イスパニョーラ島の東部サント・ドミンゴはスペイン領からフランス領になります。フランス語に変わるので、サン・ドマングと言います。1801年、サン・ドマングの軍人トゥーサン・ルーヴェルチュールがフランス軍を追い払って占領すると、黒人奴隷を解放します。その後、仏軍が侵攻して来て、トゥーサン・ルーヴェルチュールは獄死するんですが、後を継承した黒人指導者層が仏軍を追い払います。そして、サン・ドマングをハイチと改名して、1804年にハイチ共和国が独立をします。東部のサント・ドミンゴ(ドミニカ)を含むイスパニョーラ島全土が独立しています。中南米初の黒人国家です。ハイチはアラワク族の言葉で「山がちな土地」の意味だそうです。
1809年にイスパニョーラ島東部のサント・ドミンゴ(後のドミニカ共和国)はスペイン領に復帰します。つまり、また植民地になっています。
1814年、パリ条約でハイチ共和国の独立は、国際的に承認されました。
このハイチ革命を扱った小説として、カルペンティエルの「この世の王国」があります。

1810年以降、中南米では独立宣言が相次ぎます。

1808年、メキシコでは、ナポレオンのスペイン征服を好機として独立運動を開始します。司祭のミゲル・イダルゴはメキシコ独立の父と言われています。
次の時代ですが、1820年のスペイン立憲革命を好機として、翌年の1821年にメキシコは独立を宣言します。

□南米
1806年ベルリン勅令からはフランスによる大陸封鎖令があるので、スペインからは商船も来ませんが、兵も送れません。密輸で少し往来があるくらいです。本国のスペインはフランス支配下で抵抗運動をしています。そうすると植民地もスペインに抵抗して、独立運動をするので、1810年以降は、独立宣言が相次ぎます。
南米の 北部ではシモン・ド・ボリバル、南部ではサン・マルティンが独立に尽力したと憶えます。二人とも現地生まれの白人、つまりクリオーリョです。北米では白人、カリブ海ではハイチだけが黒人、南米でもクリオーリョ/白人が独立運動を主導します。
つまり、経済的、政治的な自由を求めているんです。民族、肌の色などは関係ありません。
特にベネズエラではミランダ、ボリビアではシモン・ド・ボリバル、チリ、アルゼンティン地方/ラプラタ諸州ではサン・マルティンが尽力したことが出題されます。
ほかにウルグアイ地方も独立運動をします。
1811年、ベネズエラ、パラグアイが独立してしまいます。

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次の時代、皆伝22ではコスタリカやホンジュラスなどは中央アメリカ連合としてまとまって独立します。コロンビア、ベネズエラ、エクアドルは大コロンビア共和国としてまとまります。

1800年頃、ドイツの地理学者フンボルトが南米を調査しにやってきます。「コスモス」は近代地理学の金字塔と言われる著作で、1845年から刊行を開始して、1859年にフンボルトは亡くなるんですが、その後も1862年まで刊行が続きました。何巻もあるんでしょうね。植生と気候などの相関を示したようです。寒冷地では針葉樹が多いとか、そういうことです。
南米の太平洋岸を北上する寒流のペルー海流の別名フンボルト海流の由来でもあります。フンボルトペンギンの由来でもあります。
ペルー海流は寒流だから、上昇気流が少ない、だから雲が少ない、そして降雨が少ない、そうなると沿岸は砂漠化しやすい、チリにアタカマ砂漠ができる。ということも説明できます。たぶん最後に描かれたのは800年頃と考えられているナスカの地上絵は、単に地面に棒などで線を引いただけで、風や雨でかんたんに消えてしまいます。これが1200年以上残っているのは、降雨のない乾燥地帯だからなんです。メソポタミアに粘土建築が存在できたのも、降雨が少ないからです。降雨で粘土の家はすぐに泥に戻ってしまうから、降雨のある湿潤地帯では作らないはずです。イエメンでは21世紀に入っても粘土で建築をしてます。つまり乾燥地帯だと分かります。歴史地理学という学問がありますが、面白そうです。

            
□□アフリカ

□北部
アルジェリアではアリ王朝が存続しています。
1760年代頃 オスマン帝国のエジプト太守アリ=ベイがエジプトの独立を計画しますが、失敗します。
1783年、ガンビアは英領になります。

英国と、その植民地インドの通商路を遮断する為に、フランスがオスマン帝国下のエジプトへ軍を派遣してきます。スエズ運河はまだできていませんが、ナイル川をさかのぼって、短距離の陸地を通過して、紅海に出るルートがあります。英国はここを利用していたんです。
そこで1798年ナポレオンのエジプト遠征、占領となります。そして、ロゼッタ・ストーンが発見されます。1800年代にシャンポリオンが解読しますよね。

フランスはピラミッドの戦でオスマン帝国と戦います。1798.8/1にはアブキール湾の戦/ナイルの戦で英国と戦ってフランス軍は負けています。第二次対仏大同盟を組んだ英国がフランスに侵攻してきたと聞いたナポレオンは、部下を置き去りにすると、すぐにフランスに取って返します。そして1799年11/18にはナポレオンはブリュメール18日のクーデタを起こして、権力を掌握しています。

1799年、オスマン帝国がエジプトを再領土化します。ナポレオンがいないので、もう弱いんです。そして、オスマン帝国がフランス軍掃討のために、ムハンマド・アリーを派遣します。
1805年、ムハンマド・アリーはエジプト太守(アーヤーン)になります。実質的なムハンマド=アリー朝の成立と言えます。在位は1805年-1849年です。そのあと、エジプト人の人気が高いので、勝手にエジプト総督(ワーリー)にも就任すると、パシャ(文武高官の称号)と称します。
1806年になると、オスマン帝国のセリム三世も正式にパシャと認めました。
1800年代初頭、ムハンマド・アリー太守は、フランスと提携して、メッカ、メディナも支配するようになります。
このアラビア半島への出兵を契機として、エジプト国内にいるマムルーク勢力を一掃したそうです。また、綿花などの栽培を奨励して、政府が小麦など農産物の専売をしたようです。

□サハラ以南
1800年前後になると、オランダがフランスに占領されている隙をついて、英国がアフリカ最南端のケープに移民を送り込んできます。
1814年には英蘭のパリ協定が結ばれて、英国がケープを支配することを認めました。
1815年のウィーン会議で国際的にも英国がケープを支配することが認められますウィーン会議では一足先に奴隷貿易をやめている英国の要請で、奴隷貿易が非難される決議がされました。実質的に奴隷貿易の禁止がされたと言えます。奴隷解放も近い気はします。
そうすると、アフリカに奴隷以外のものを求めるようになります。
次の時代、何かないかと探検家がやってきます。
やがて市場及び原料供給地と見なされて、植民地の対象になります。

テーマ史として「黒人問題」は、よく出題されます。テーマ史というのは、一つのテーマで大問が作られるということです。論述で出題されることもあります。
近現代の黒人に関わる出来事をまとめておきます。
1794年、フランス政府は植民地における奴隷制度を禁止 
1804年、ハイチがフランス(ナポレオン)から独立して、奴隷制を廃止。
1807年、英国が奴隷貿易を廃止 
1808年、米国で奴隷貿易禁止法
1815年、ウィーン会議の結果、パリ条約でフランスは5年間の奴隷貿易廃止の決定。その後も英国は奴隷船の疑いがあれば拿捕することをポルトガルに認めさせています。 
1822年、リベリア建国  
1833年、英国は植民地の奴隷制を廃止 1833年、米国で奴隷制反対協会の設立
1830年代、米国では黒人奴隷のナット・ターナーが南部で抵抗運動
1830年代の米国で奴隷の即時、無償、全面解放を主張するギャリソンなど、/アボリショニストと言われる人たちの運動があって、自由黒人/元奴隷/解放奴隷も運動に参加します。解放奴隷のフレデリック・ダグラス、黒人女性のハリエット・タブマンが有名です。
ハリエット・ストウは「アンクルトムの小屋」(1852年)で、黒人奴隷トムの悲惨な半生を描くことで、世論の奴隷制反対を掻き立てました。   
1840年、世界奴隷制反対会議がロンドンで開催されます。参加を拒否された女性は、女性解放運動と奴隷解放運動を連携させていきます。
1863年、南北戦争中にリンカーンによる奴隷解放宣言  
1865年、憲法修正13条で奴隷解放 修正14条で黒人に市民権付与 
1870年、修正15条で黒人に参政権付与 
ただ、1865年には黒人を排撃するKKKという秘密結社が設立されていますし、1867年、いわゆるシェクロッパーと言われる、奴隷制と変わりのない制度が州で開始されています。
1877年頃からジム・クロウ法と言われる黒人を有権者から外そうという州法が作られていきます。
1898年、ジム・クロウ法に対して、最高裁は合法の判決を出します
公民権運動の開始。バスで白人専用席、白人だけの学校など人種分離が当然視されていた時代です。
黒人女性ローザ・パークスさんの勇気ある行動をきっかけにして、バス・ボイコット運動が起こります。それが全国化して、黒人、日系人、ヒスパニックすべてが差別反対を訴えるようになります。
1963年のワシントン大行進は、リンカーンの奴隷解放宣言100周年です。ワシントン大行進でキング牧師が演説しました。「私には夢がある」というフレーズは有名ですね。
1964年、公民権法が成立します。人種差別撤廃を目指した法律です。
1964年、キング牧師がノーベル平和賞を受賞します。
1968年、ワシントンへの「貧者の行進」途中にキング牧師が暗殺されます。 
あとは、マルコムXも暗殺されますし、21世紀にはBLM/ブラック・ライヴズ・マター運動も起こります。


□□英国/イギリス

産業革命が1770年代から本格化します。簡単に言えば、機械化です。
工場製手工業/マニュファクチュアが一般的でしたね。manuは手/マニュアルと同じ語源です。ファクチャーはfactory/工場と同じ語源です。工場で手作りという時代でした。
それが工場で機械で作る、工場制機械生産へ変わります。
最初は日用品などの軽工業、とくに紡績機の開発によって綿産業から始まりました。その後は蒸気機関の発明もあって、安価な品が大量に生産されて、遠くまで運ばれます。蒸気船や蒸気機関車の登場までは、運ぶのは荷車だったり、運河を作って、細い運河に浮かべた船に括りつけたロープを馬が引くことで大量に品物を運んでいました。
綿産業が機械化されて大量生産が可能になると、みんなが綿織物を買い求めます。インド産の綿織物よりも安い国内産の綿織物を求めます。原料の綿花はカリブ海の島々で肌の黒い人が奴隷として働かされているプランテーションで作られたものです。だから安いんです。運ぶにもインドよりも近いですしね。需要が増えると、奴隷がもっと必要になるので、カリブ海へアフリカの西海岸から肌の黒い人を奴隷として連れていく商売も活性化しました。
奴隷貿易で溜まったお金が産業革命の資本になったわけではありません。
最初のころは小さな工場なので、仲間でお金を出し合えば、それで作った製品を売って、利益を出せたんです。対抗するような大工場ができ始めると、株式会社や銀行からの融資が必要になりますけどね。毛織物業者が綿織物業者に転身したこともないようです。

工場がたくさん作られると、そこに労働者として雇ってほしい人がたくさんやって来ます。新興工業都市として、マンチェスター、ランカスター、バーミンガムなどが出現します。農村とは経済格差が広がるので、さらに人口移動が促されて、農民は都市で賃金労働者になっていきます。

工場を大きくしないと商売敵に勝てない、大量に安く作れない段階になると、
働きながら金も出す個人資本では足りないので、自分は働かないで金を出して経営する産業資本家が登場します。そして彼らがお金を出し合う合資会社、経営はしないけどお金は出す株式会社へと変わっていきます。この段階になると、お金を持っていればいるだけ稼げるという資本主義が確立したと言えます。
そうなると、身分は同じですが、お金を持っている資本家と、貯金もなく汗を流して働く労働者の間の経済的な格差はかなり大きくなります。おかしいではないかと思う人が増えてくると、階級対立と言います。これは階級をなくして労働者/汗を流して働く人が工場や機械などの生産要素を共同で持つべきだという社会主義の萌芽です。
つまり工場制機械工業の初期段階に戻ろうということですね。復古主義とも言えます。
未来の話ですが、英国は1850-1870代、「世界の工場」と言われるくらいに、物を作って世界中に売ります。機械に仕事を奪われる人も出てくるので、機械を壊す運動が盛んになりました。時代の流れは止められなかったので、せめて政治に参加することで、昇給、休日、休憩時間、短時間労働、労働災害の時の保険などを勝ち取ろうとして、政治運動に変わっていきます。そして、議会でそれを可能にしようと、労働党などを結成します。暴力的に革命で労働者の支配する社会を作ろうとするレーニンのような人も登場します。
また、機械化がすすむと、経験のない人=未熟練の女性、少年が労働者になります
こうしたことに規制がなされないと、劣悪な環境で働かないといけません。奴隷と変わりない生活です。そしてどんどん作ってどんどん売るので、過剰生産に達すると、売れなくなるので恐慌になります。会社は倒産して、労働者は失業します。これを避けるためには、過剰に生産した物を買ってくれる消費地/市場を求めて、武力を背景にして、ちらつかせて、植民地にしていくなどの帝国主義に進んでいくという流れがあります。
必ずしもその流れに乗らなくてもいいんですけど、歴史的事実として、西ヨーロッパの資本主義は帝国主義を生みました。

プランテーションで農産物を生産している地域は、手工業も未発達なので、こうした西欧の工業に太刀打ちできません。短期的な視点で見ると稼ぐためには、農産物を売るしかないんです。だから、産業革命も自発的には起こりません。そして、腐る農産物を売るので、保存もできませんし、安くても売るしかありません。そうやって、工業国に対して従属的な立場になっていきます。
お金がないので、武器も少ないし、兵を運ぶ鉄道も船も少ないとなると、工業国の侵攻に太刀打ちするのは難しいと思います。そうやって、綿花、ゴム、石炭、石油など原材料の輸出元として植民地化されていきます。

英国は、中国との貿易をしたいので、インドにある英国の拠点から中国へ向かうときの寄港地として1786年にはケダー王国/クダ・スルタン国から得たマレー半島のペナンを植民地化します。1795年にはマラッカを植民地化します。1819年にはジョホール王国から割譲されたシンガポールを植民地化します。    

産業革命では、羊毛の毛織物から、綿花を原料にした木綿へという流れがあります。ランカスターの木綿が有名です。手工業から機械への流れもあって、マンチェスター、リバプールが発展します。

皆伝21 産業革命 英国の地図 - コピー


ランカシャー地方は綿織物が有名で、中心がランカスターでした。マンチェスターを後背地に持つリヴァプールは川でつながっているので、マンチェスターからの製品を運びやすいし、積出港として発展します。ちなみに21世紀には行政区の変更がされていて、マンチェスターもリヴァプールもランカスター州には属しません。バーミンガムは鉄鋼で有名です。ブリストルは積出し港です。

具体的に、どんな発明がされたか、その順番も出題されます。
紡績機というのは、糸を作る機械のことです。綿花から採取した細い筋を何本も束ねてねじって、つまり寄り合わせると、糸ができます。
ハーグリーヴズ
多軸紡績機
を発明します。多軸で複数の糸車を操れるので、たくさん同時に作れます。ただ、細い糸なので切れやすかったそうです。綽名はジェニー紡績機です。名前の由来は不明です。妻の名前に由来するというのは俗説ですが、事実ではありません。妻の名はジェニーではありません。
けれど出題はされるので、受験生はまとめてジェニー多軸紡績機と憶えると簡単に解答できます。

アークライト
当初は馬力で、そのあとに水力紡績機で、切れにくい強い糸を作りました。川の近く、運河の近くの工場だけが導入できます。アークライト、水はアクアと言うので、名前が似ています。アクアだから水力と憶えました。

クロンプトン
ミュール紡績機
を発明します。小型化したので、川沿いでなくても運河があれば、中小の工場でも導入できます。ミュールは馬とロバの雑種、つまりラバの意味です。馬とロバをかけあわせた動物だから、ハーグリーブズの多軸で多くの糸車+アークライトの強い糸の雑種/かけあわせ/いいとこどりにうってつけの名前です。とはいえ最初は手動の人力だったんですけどね。
テニスやバドミントンをしている人は、ラケットのガット張りは、機械の方が強いと理解しやすいと思います。ラバがいななく/1779年に発明しました。1789/フランス革命の同年に、蒸気機関と合体して自動化しました。
ここまでの発明は糸を作り出す紡績機。

カートライト
1785年の力織機は蒸気力による初の織機/織布機です。ジョン・ケイの飛び杼のように、糸で布を作る織機/織布機の分野での発明です。ートライト、織機、頭文字が似ているので憶えやすいですね。
1796年、オースティンも蒸気力の織機を開発しています。

蒸気機関
1698年7/2鉱山地帯の近くで育ったトーマス・セイヴァリ/セーヴァリが蒸気機関の特許を取っていました。鉱山で出る水の排出のために蒸気ポンプを発明して、販売もしました。蒸気を利用して低圧にして水をタンクに吸い込んで、高圧にして吐き出す仕組みと私は理解しています。9mくらいの深さまでしか使えないこと、修理が頻繁に必要だったことであまり普及しませんでした。入試ではたぶん出題されません。
1705年、ニューコメンは炭鉱の排水ポンプの蒸気機関を発明、というか改良します。
1769年、ワットは蒸気機関を完成したと言われています。
蒸気で動くピストンの上下運動を、回転運動に変えたことで、鉄道の車輪などに応用できる移動の仕組みを開発したということです。汎用性が高いと言う意味ですね。

1802年、トレビシックが世界初の実動する蒸気機関車ペナダレン号を発明します。1804年にはペナダレン号は10トンの鉄、5両の客車に乗った70人を16km先まで4時間5分で輸送することに成功しました。時速3.9kmです。歩いた方が早いんですけど、重いものを運ぶ点では優れています。ただ、レールと鉄輪は滑るので摩擦が足りず、傾斜地を運行できないという問題点がありました。
1814年、ジョージ・スチーブンソンが蒸気機関車を開発します。時速6.4kmで坂を上って、30トンの石炭を運ぶことができました。実用化したと言えます。
息子のロバート・スチーブンソンもその後の開発、改良に協力します。

鉄は石炭が欠かせないので、こうやって運ぶんですが、1784年コートは反射炉を利用したパドル式と言われる製鉄法を考えました。製鉄と言うのは、鉄の混じった岩、石を溶かして、鉄だけを取り出すことです。ダービーさんのコークス製鉄法は、皆伝20で書きましたね。パドル式は、まだ炭素の多く混じっている鉄(銑鉄)を反射炉の中でかき回すことで、炭素の少ない鉄を作る方法です。
こうして良質の鉄が作られるようになると、工場の機械も、蒸気機関車も鉄で作れるようになります。

1770年代に産業革命が本格化した英国では、産業技術の独占をする為、海外へ技術が流出しないように阻止します。マネされてしまいますからね。
1774年、機械輸出禁止令を発して、職人の渡航、機械輸出の禁止をします。

農奴でもないのに自由に移動できないんです。労働者は工場で酷使されていますしね。こういう時代を観ている人は警鐘を鳴らします。1776年に刊行された「コモンセンス」を書いているトマス・ペインは「人権論/人間の権利」を1791年に第一部を刊行しています。1792年に第二部を刊行しています。

功利主義の走りと言われているベンサムは、「統治論断片」(1776年)のなかで、最大多数の個人の幸福を考えることで、社会の最大幸福を達成することが適切だと書いています。最大多数の最大幸福と略されることが多いですね。ただし、そこでも人権には配慮していて、少数者の人権が犠牲にならないことは前提としています。また当時、同性愛は英国で禁止されていたんですが、ベンサムは他の人に実害がないし、当事者には快楽をもたらすのだから合法化した方がいいと言っています。
周囲の人が単に不快に思うことは実害とは言えませんからね。
麻薬、賭博、売買春、夫婦別姓、重婚も当事者が快楽を得ているなら、いいということかな。
ただ、どこまでも敷衍して考えると実害は出てきます。
麻薬を使う、労働できなくなる、家族に迷惑だし、税金も払わないので、他の人の税金が増える。
これは実害と言えます。
選挙の区割り、これも一票の格差が生まれるので実害はあります。小さい区だと一人しか選べないので、自分の票が死票になる可能性が高くなるし、賄賂も増えるし、いつも同じ人が当選する、これも実害です。結局、区割りをなくすのが最適かもしれませんね。

1799年、団結禁止法
労働者が増えてくると、資本家/経営者と交渉して、昇給や短時間労働を勝ち取りたいと思います。けれど、資本家はそうはさせたくない。議員には資本家が多いので、自分に都合のいい法律を作ります。労働者は団結してはいけない。労働組合を作ってはいけないし、交渉も基本的には経営者と1対1でしないといけないイメージです。解雇されたくないので、意見を言えませんよね。酷い法律だと私は思います。

産業革命が普及すると、自由貿易、自由競争が当然という世論が生まれます。そして、特権を持っている東インド会社への不満がぶつけられます。
また女性や子供は工場で働けますが、アフリカ生まれの奴隷は基本的に言葉が通じませんから、農作業しかできません。工場労働者が必要になると、奴隷は不要です。1807年に、英国で奴隷貿易が禁止されたのには、そういう背景もあります。もっと大工場、複雑な工程になると、マニュアルを読んだりもしますし、指示書も読む必要があるので、文字を読めないといけません。学校で基本的な理科の知識も必要になります。そうでないと放射性物質の入ったバケツを素手で持って運ぶなんてことになってしまいます。ありえませんよね。そうしたことを避けるために、学校に行って、学んで、工場で働く、働かせるような社会になっていきます。一般化するのは未来の話で、この時代には週六日働いているので、子どもは日曜日に学ぶことが期待されました。いつ休めるんでしょう。

1800年代、フランスと戦していますから、対仏大同盟の影響で大陸からの食糧輸入が減ると、ただでさえ過酷な環境で働いている労働者は食べるものがありません。そこで、ラダイト/ラッダイト運動と言われる機械打ちこわし運動が起こったんです。抑え込まれた後は、参政権を要求する方針に変更して、労働者でも議員になれる、投票できるようにと選挙法改正へ向かいます。
貿易を制限すると食糧自給率の低い国は困りますよね。
マルサスは「人口論」のなかで、人口増加は、食糧増産よりもペースが早いから、食糧不足になる前に人口制限をすべきと言っています。それだけ人口が増えると、大都市では人が密集して暮らすので、伝染病/感染症も流行します。ジェンナーが種痘法によるワクチンを開発したのはそういう背景があると思います。牛痘ウイルスに感染した人は天然痘にかからないことに気づいたので、感染者のぶつぶつから出た膿を健康な人に注射することで、強いて言えば敢えて牛痘ウイルスに感染させることで、天然痘への抗体を作るという方法です。1980年に地球上から天然痘が根絶されたと、WHOが発表しました。

アダム・スミスは、自由貿易を主張しています。自由放任がいい、市場には神の見えざる手があるから、自動的に調整すると、1776年に刊行した「国富論/諸国民の富」で書いています。原題は、An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations なので「諸国(民)の富の性質と諸原因についての一研究」と日本語訳するのが適切です。
リカードも「経済学及び課税の原理」で、自由放任を支持しています

古典派経済学(classical political economy)は、アダム スミス、マルサス、リカード、ジョン・スチュワート・ミルなど、イギリスの経済学者が継承して発展させたました。それで、イギリス古典派経済学とも言われます。「古典派」というのは、資本主義経済を本格的に分析した最初の学説という意味です。古典派経済学の中心思想は、自由主義経済です。冨の源泉は人間の労働にあると考えるので、労働価値説とも言います。労働生産性を高めるために、市場では自由競争が必要なので、国家は介入すべきでないと考えます。

こうして大都市が生まれて、工場が生まれてという時代の画期を目にした画家は、かえって、失われていく自然に惹かれたようです。ロマン主義絵画のコンスタブル、ターナーは風景画で有名になりました。神話でも肖像画でもなく、教会もブルジョワジーも金を出さないような風景画を描いたんです。

ロマン文学でも、ワーズワースが自然美を詩にしています。
他にはコールリッジ「叙情詩選」、シェリー「ひばりに寄す」、キーツ「エンディミオン」、ギリシア独立戦争にも義勇兵として参加するバイロン「チャイルドハロルドの遍歴」、ウィリアム・ブレイク「無垢の歌」が詩として有名です。スコットは歴史小説の「アイヴァンホー」、物語詩の「湖上の美人」を遺しました。
ジェーン・オースティンは「高慢と偏見」という小説を書いています。地方に住む中流家庭の5人娘がいるんですが、女性は相続権がなく、従兄弟の牧師が財産を手にするんです。愚かで高慢な男で、エリザベスに見込みがないとなると、隣家のシャーロットと結ばれます。誰でもいいんです。士官のウィッカムは愛想が良くて、見た目もいいのでみんなが焦がれる存在です。エリザベスも憎からず想っています。実はウィッカムは厚顔無恥で、ダーシーという人に迷惑をかけていました。エリザベスにこっぴどく振られた後も、ダーシーはウィッカムと駆け落ちした妹のために骨を折ります。
長女のジェーンが恋仲になった士官でお坊ちゃんのビングリーを家族は手厚くもてなします。ダーシーはこれがよくない結果になると知っているので邪魔をするんですが、ダーシーは高慢だと嫌われてしまいます。
結局、いい人のダーシーはエリザベスの家族から冷遇されてしまいます。ダーシーの本性を知ったエリザベスは恥ずかしい思いに捕らわれました。
いい人は報われてほしいですね。

この時期、歴史学ではギボンが「ローマ帝国衰亡史」を書いています。科学の分野では、ドルトンが世界は数種類ある原子から成っているという原子説を発表しています。

外交をまとめて書きます。
小ピットが首相を務めています。
フランス王の処刑死を受けて、周辺の王国は、フランス革命は危険だと考えます。そして、英普墺蘭、イギリス、プロイセン、オーストリアと王国ではありませんがオランダが、1793年に第一次対仏大同盟を結成します。軍事同盟です。
オーストリアがフランスに負けたので1797年のカンポフォルミオの和約で解散します。
1799年-1802年、第二次対仏大同盟。フランスのエジプト遠征をきっかけに結成します。英国のネルソン提督が率いる軍が、フランス海軍に勝利します。英はインドへの航路、海上覇権を維持します。   
ただ、アミアンの和約で、第二次対仏大同盟は解散します。 
1801年、フランス革命が波及して、われらも英国王の支配から脱するぞーと決起したアイルランドを併合します。そして、「大ブリテン・アイルランド連合王国」へ改称します。
1805年、第三次対仏大同盟。ナポレオンの皇帝就任をきっかけに結成します。ジブラルタル海峡近くのトラファルガーの海戦で勝利します。ただ、ネルソン提督は戦死しました。
1806年、第四次対仏大同盟。この年号は出題されないと思います。
1809年、第五次対仏大同盟。この年号は出題されないと思います。
1813年、第六次対仏大同盟。
ナポレオンのロシア遠征をきっかけに結成します。フランスによる大陸封鎖で輸出されないでいた商品がどっと英国に入ってきます。英国も出します。これをきっかけに英国は自由貿易に舵(かじ)を切ります。東インド会社の貿易の独占も、商品としてはお茶を除いて廃止します。
1815年、第七次対仏大同盟。

1814年-1815年のウィーン会議で、英国はオランダ領だった南アフリカのケープ、インド沖のセイロンを確保します。
ジョージ三世の治世、外相のカッスルリーは、自由へと向かうこの時代に対して反動的な四国同盟をプロイセン、オーストリア、ロシアと結成します。                

□□フランス

この時期の簡易年表です。
番号は政治体制、下線は主導した人や機関/組織です。

⓪絶対王政.旧体制/アンシャン・レジーム 
ルイ15世-1774年
1774年-ルイ16世 三部会開催
憲法制定国民議会/国民議会の成立
革命の性格は「反重税・反封建」
1791年ヴァレンヌ事件で、国外逃亡を企てたルイ16世は信用失墜-革命の性格に「反王政」追加
国民議会の解散

①立憲王政/第一王政になる。1791.10-1792.9
立憲議会が成立。貴族で立憲派のフイヤン派が主導。
1792.4ジロンド派が対オーストリアの戦、士気の低い貴族中心で敗れる。
革命の性格は「革命戦争 外国からの干渉戦争」
1792.9男性普通選挙で国民公会が成立-1795.10。

②第一共和政1792年-1804年
ブルジョワで共和主義のジロンド党が王政を廃止
オランダ、ベルギーへ侵攻。
革命の性格は「革命戦争」(外国へ侵攻)
1793.1ルイ16世処刑
過激な左派のジャコバン派(山岳派)の独裁
マラー、ダントン、ロベス・ピエールの恐怖政治=テロル。ロベス・ピエールの独裁
1794.7テルミドール9日のクーデタでロベス・ピエールを処刑 
1795.11 ジロンド党の総裁政府(5人)
1799.11ブリュメール18日のクーデタ
執政/統領政府(3人)-1804年   以降はナポレオン時代
第一執政はナポレオン。革命終了宣言。

③第一帝政
1804年ナポレオン一世。
「ナポレオン戦争(1796年/1803年-1815年)の時代」
1813年ライプチヒの戦/諸国民戦争で諸国同盟に負けて失脚。ナポレオンはエルバ島へ

④第一王政復活/復古王政
ブルボン朝。1814年、ルイ18世。
1814年-1815年ウィーン会議
革命前の旧体制復帰=「王政復古」。「正統主義」=自由、国民主義の否定

⑤第一帝政復活。
1815.3-6月、ナポレオンの百日天下。
ワーテルローの戦で、英国のウェリントン将軍に負けて、セントヘレナへ流されて死去  

⑥第一王政再度復活
ルイ18世 「反動政治」。                             
1815年、ウィーン議定書によりウィーン体制成立


詳しく書きます。
絶対王政
旧体制、フランス語をカタカナで書くと、アンシャン・レジームと言います。16世紀から続く王を頂点とした身分制国家の状態で、平民だけが課税されています。フランスでは絶対王政期と重なっています。
1715年~1774年は、ルイ15世の治世です。

第一身分の聖職者が12万人/人口の0.5% 免税特権あり=税を払わなくていい
第二身分の貴族が38万人/人口の1.5% 免税特権あり
ここまでは特権階級と言えます。

第三身分の平民は2450万人で、人口の98%を占めています。課税されています。21世紀にオキュパイ ウォールストリート/ウォール街を占拠せよという運動があって1%の人がかなり多くの資産を持っていることに対して、大富豪ではない市民が集まって「我々は99%」だと言ったのは、アンシャンレジームを意識しているのだと思います。
この時期のフランスでは、平民の中でも経済格差はあります。
都市ブルジョワ-貿易業者、金融業者、大商人、工場主、知識人 平民の10%を占めています
農村ブルジョワ-大農場の経営者 13%
ここまではブルジョワ/富裕な市民です。

無産市民-職人や労働者など。手間賃のみで財産がないひと。
貴族の履くキュロット・スカートを履けない=キュロットなし=サン・キュロットと言われるのが、この無産市民です。10%
下層農民-中小の農民です。ほとんどは小作人で、封建領主の下にいます。 67%

国王としては、絶対王政をしていますが、聖職者や貴族の力を削いで、国王に権力を集中させたい、中央集権化したいと思っています。
このころには貨幣経済が十分に浸透しているので、貴族は領地が減っています。有能な人は官吏に採用されています。つまり、血縁や身分よりも能力主義の時代になっています。能力のない貴族は不満に思うでしょうね。
マスメディアの発達で、新聞、雑誌、カフェでの談義が、身分制度、聖職者や貴族の特権、王権への批判という世論形成につながっていく時代です。
とくに商工業で成功して、経済的に裕福になったブルジョワ市民は、今度は政治的にも十分なものを得たいと不満を募らせています。
ファルツ継承戦争から七年戦争の第二次英仏百年戦争で負けたので、フランスの財政は悪化しているので、増税を検討せざるをえない状況にあります。

1774年-ルイ16世 
妻/王妃はハプスブルク家のマリー・アントワネット。王妃の数学教師はラグランジュ・ポイントなどで有名なラグランジュでした。21世紀にベストセラーになる中国のSF小説「三体」でも言及されている三体問題にも関わることです。
王立セーヴル焼は彫刻家デュプレシの手になる壺などが有名ですが、この時代はルイ16世と王妃マリー・アントワネットの彫像(50cm程度の高さ)を作って、外国王室に贈ってもいました。
1760年代頃から、ヨーロッパでは庭園が流行して、英国式の秩序のある幾何学的庭園と、フランス風の無秩序な自然的庭園が覇を競っていました。マリー・アントワネットが都会のパリではなく、田舎のヴェルサイユで田園暮らしを好んだのも、この流れのなかにあります。磁器や服やバッグにも花柄などの自然のデザインが好まれて多用されていました。
自然つながりで言うと、「自然の体系」は1770年にフランスのドルバックが著した本で、無知と恐怖を排除して、理性で生きなさい、つまり自然の声を聴きなさいと書いているそうです。大陸合理論の流れのなかにあります。
ラマルクが進化論の立場から「動物哲学」を著したのもこの時期です。
近代科学の祖と言われるアントワーヌ・ラヴォアジェ/ラヴォワジェが元素表を作ったり、質量保存の法則を発見したり、酸化現象/燃焼理論を確立したのもこの時期です。ラヴォアジェはフランス革命中に、反革命的だと指摘されて、処刑死しました。ラグランジュは「彼の頭を切り落とすのは一瞬だけれど、彼のような頭脳が生まれるには百年かかる」と嘆いたそうです。


ルイ16世の即位の翌年、1775年にはアメリカで独立革命が起きています。英国と対立するフランスは、アメリカ独立を支援するので、さらに財政が悪化します
1783年に米国が独立すると、英仏は仲よくしようという雰囲気にもなります。

そのころ、英国ではアダム・スミス(自由貿易)の信奉者のピット首相がいます。フランスでは自由貿易で農作物を輸出しようという重農主義者のヴェルジェンヌという人がいました。この二人は自由貿易という目標を共にしていました。
そして、1786年に英仏通商条約が結ばれます。
交渉人に由来して英国側はイーデン条約、フランス側はヴェルジェンヌ条約と言っています。互いに関税を下げると、フランスからはワイン、オリーヴ油、酢と穀物は売れたんですが、産業革命で技術革新をした英国からの安くて質の高い綿織物(例えば靴下)、陶器、鉄製品の流入で国産の物が売れなくなると不況になっていきます。こうなると、綿織物工場を経営する産業資本家、給与で生きている労働者は、政府/王家はわれらのことを考えてくれていないと怒ります。フランスは絹織物を売りたかったんですが、これは条約の例外になっていて、英国は輸入禁止にしていました。
その上に1786年の旱魃/干ばつ(かんばつ)があります。水不足で作物が育ちませんね。1788年にも凶作があったので食費が高騰すると、市民が不満を持ちます。

重農主義者のテュルゴー/チュルゴーは「植民地は果実のように熟したら必ず落ちる」と言って、1763年のパリ条約で失ったアメリカの植民地に頼らずに、自由主義に則って、内需拡大、技術革新によって、財政再建を進める考えを持っていました。ルイ16世は財政再建をしたかったので、1774年8月にテュルゴー/チュルゴーを財務総監とします。controle general des finance/財務総監は経済財務大臣ですが、フランスでは大臣の中でトップの地位にあるので、宰相と訳す人もいます。
テュルゴー/チュルゴーは王室の支出の削減、穀物の流通については国内関税を廃止して取引を自由化します。ギルド(同業組合)の廃止や、土地の所得に比例した地租制度などを提唱しました。
タイミングが悪いことに1775年に凶作で小麦が不作となったので、小麦の価格が高くなります。小麦粉戦争と言われる農民一揆が生じて、テュルゴー/チュルゴーの自由化政策が批判されました。貴族の牙城と言える高等法院の反対が激しかったので、1776年5月に辞職します。ギルド廃止に反対していた職人/親方も反対したので、辞任の後にギルドも復活してしまいます。

財務総監は、一時的に財務長官という名前になりますが、内容は変わらないと考えていいでしょう。1776年-1781年の財務長官は、スイス出身の銀行家、つまりブルジョワのネッケルです。スイス人なので財務長官という名称にしたようです。ネッケルの財政改革では、予算を初公開しました。これには人件費を公表された役人が怒りました。新税に対しては、貴族の免税特権を守る高等法院が反対しました。

アンシャンレジーム下では聖職者、貴族の少数支配なので、平民は資本主義の下で富裕になっても、政治の権利を持っていません。けれど、社会的地位は、生まれではなくて、資産で決まる社会が到来していたんです。1775年-1783年のアメリカ独立革命に刺激されて、市民は自分たちも横暴な権力者に対して何かできるんではないかと思っているところへ、免税特権を墨守する貴族たちの横暴があったので、市民の不満が爆発します。そして、貴族の免税特権を巡って対立が起こります。

1787年になると、名士会が160年ぶりに開催されます。国王が任命する高位聖職者、市政官、高等法院の判事、貴族が構成する会です。1787年2月に財務総監C.カロンヌが召集しましたが、地方議会の設置や、印紙税や、身分を問わない貢租/土地税として土地上納金などの新税を課す計画を立てます。けれど、貴族の意見を代表する「名士会議」は、この財政改革案を否決しました。
そして、ブリエンヌが財務総監になります。

名士会は高等法院とともに全国三部会を要求します。三部会は多数派になりやすい聖職者と貴族に有利だからです。
ルイ16世も財政について三部会の意見に耳を貸すこととしました。

1788年11月、再び財務総監(1788-1790)になったネッケルが名士会を召集します。そして、 三部会の開催を決定します。そして、名士会の32人のメンバーを自分の気に入った人に交代させた上で、さらに何人かを加えます。結局、王族7人、高位聖職者15人、大貴族37人、国務会議の構成員12人、高等法院などの上位官職保有者39人、州の三部会代表が19人、そして市長24人と言われています。このうち第三身分はたったの5人です。
この人たちは、三部会の構成、召集方法、選挙の方法について話し合います。6つのグループに分かれて話し合いをしたんですが、プロヴァンス伯が主導する第一部会が比較的自由主義的だったので,第三身分の議員を倍増することに同意しました。
アメリカ独立革命にも参戦したラファイエットは、第二部会に属していて、第三身分の議員を倍増することには賛成しましたが、一緒になって話し合うことには反対します。第二身分の自分たちと、第三身分とは別の部屋で話し合おうということです。
そして、財務長官ネッケルの案もあって、最終的に平民議員の倍増と、司祭など下級聖職者、貴族を議員に選ばれやすくしました。

アベ・シェイエスという人がいます。アベというのは、聖職者を表す言葉だそうで、名前ではありません。1789.1アベ・シェイエスは「第三身分とは何か」というパンフレットを配り始めます。そこには「第三身分とは全てである」と書かれていて、これが革命世論を後押しします。オキュパイ・ウォールストリートの「我々は99%」を越えました。100%だと言っています。
人口で言えば98%を占めているのに、政治には参加できないなんてありえない、第三身分のための国家になるべきだと言っているんですね。

国王ルイ16世は貴族への課税を話し合わせるためにと、リシュリューによって解散させられていた三部会を久々に招集します。1789.5ヴェルサイユで開催します。アベ・シェイエスは聖職者ですが、司教のような高い地位ではなかったので、第三身分で三部会に参加します。低い身分の貴族だったミラボーも第三身分で三部会に参加します。聖職者のタレーランは第一身分で三部会に入ります。ラファイエットは第二身分で参加します。三部会のメンバーは選挙されています。選挙というのは投票という意味ではなく、自分が参加したいからではなく、誰かによって選ばれているということです。                                        

話し合いが進まないので、平民や、国王に不満を持つ一部の貴族、たとえばミラボーなどは三部会を離脱します。そして、球戯場の誓いで「国王に任せておけんから、憲法を制定させるぞ!」と誓います。そして三部会とは別に、憲法制定国民議会/国民議会を成立させました。ラファイエットは三部会にも属しつつ、国民議会にも参加しています。
この時点の平民の目的は「反重税・反封建」です。

国王の国民議会への弾圧があって、市民に人気のあったネッケルの罷免も契機にして、市民がバスティーユ監獄を襲撃します。学者は、この襲撃のあった1789年7.14をフランス革命が勃発した日としています。 

1789年7.14フランス革命
21世紀には跡地がオペラ座になっているバスティーユ監獄を市民が襲撃しました。政治犯解放のため、弾薬の調達のためなどの目的があったようですが、はっきりとはわかっていません。手旗信号の送り間違いとも言われています。マルキ・ド・サドなどの政治犯は襲撃前に別の場所へ移送されていたようです。結局、バスティーユに収監されていたのは7人でしたし、精神病の患者2人、偽造犯4人、たぶんお酒を飲んで物を壊したり喧嘩したりした放蕩者の貴族1人で、彼らは市民の手で解放されました。襲撃側は90人ほどが亡くなったようです。

①国民議会は、8/4に農奴制、教会への十分の一税、領主裁判権、さらに有償で封建的地代の廃止などの封建的特権の廃止を決めます
封建地代、つまり領主への土地の使用代金の払いは、無条件でなく有償で廃止というのはよく出題されます。貢租を20年-25年分を一括で支払えば、以後は免除されるというものです。そんなに前払いでいる人はほとんどいないので、農民には不評でした。                                          

ラファイエットは「人間と市民の権利の宣言」を起草します。一般には「人権宣言/フランス人権宣言」と言われます。その中で、国民主権/人民主権、人間の自由、人間の平等、言論と思想の自由、出版の自由、私有権の不可侵(所有権の神聖)、圧制への抵抗権、法の下の平等、三権分立を含む17条の基本原則を主張しています。つまり、身分制社会の否定をします。

1789.8/26に憲法制定国民議会が人権宣言を採択しました。

国王は①②には反対でした。不況で食事もままならない市民、とくに女性は「パンを寄こせ。惨状を見れば国王ならわかってくれるはずだ。」と国王に訴えるためにパリから国王のいるヴェルサイユまで行進をします。この1789.10/5のヴェルサイユ行進という事件で王夫妻は、「わかったわかった。自分たちで行くから無理に連れて行かないでくれ」と言って、パリへ行きます。この時点で首都がパリに移ったと言えます。
そして、ルイ16世は①②を認めます。

1791年6月、国民議会が決めたル・シャプリエ法では、ギルド廃止、労働組合の禁止なども盛り込まれました。国民議会とは言え、無産市民は入っていませんから、労働者を警戒しているんですね。あと20年もすると英国では労働者が機械を打ち壊す運動なども始めますし、57年先ですがマルクスが「共産主義宣言」を発表します。労働者が先鋭化して暴力的な革命を起こす空気という物を国民議会のブルジョワ、自由主義的な貴族は感じていたのかもしれませんね。

1791年9/3にフランスで初めての成文憲法が制定されます。1791年憲法と言います。
この前文にラファイエットの起草した人権宣言が収録されました。農奴制、領主裁判権、有償で封建的地代の廃止によって、第二身分/貴族の特権が失われます。ル・シャプリエ法も取り込まれました。立憲王政、三権分立、財産による制限選挙なども項目として入っています。教会への十分の一税、教会財産の没収と国家管理化などの聖職者基本法も収録されていたので、食べていけなくなった司祭などはこの憲法に従う宣誓をすることで公務員となっていきます。この憲法に反発した宣誓拒否司祭もいます。カトリック/ローマ教皇も反発します。第一身分/聖職者の特権も失われたということです。こうして第一、第二身分の特権階層が実態を失っていくので、アンシャン・レジームは終わったと言えます。
この憲法は国民議会が作ったもので、ルイ16世が認めたことで効力を持つことになりました。

9/5になると、女性の権利が入っていないと考えた女優で劇作家のオランプ・ドゥ・グージュによる「女性および女性市民のための権利宣言」17か条が発表されます。ハイレベルの大学では、出題されます。

フランス国土の1割は教会が保有していましたが、聖職者の出身であるタレーランが提案した教会財産の没収を敢行します。国有化ですね。ただ持っていてもお金にならないので、その将来の売却資産を担保として、アシニア/アッシニア/アシニャという債券を発行します。このアシニア紙幣は、5%の利子つきの債券でした。政府はこのアシニア債券を割引銀行に渡します。割引銀行は手形割引の業務を取り扱う銀行です。割引銀行は、例えば一年後の手形の満期よりも前に政府にお金を支払います。その恩に報いて、政府は一年後に5%の利息を付けて、割引銀行にお金を返します。この一年の間に国有財産を売却するということです。ただ、これをどんどん発行すればいくらでもお金が手に入ると思った政府は、1790年からは金貨や銀貨とは交換を保証されない不換紙幣(ふかんしへい)として、使用を強制しました。市場にどんどんこのアシニア紙幣が出回ったので、フランスはハイパーインフレになりました。物価高ですね。

皆伝21  フランス革命、ナポレオン戦争 - コピー

王と市民の融和を図っていたミラボーの死を契機にして、1791.6ヴァレンヌ事件が起こります。地図のパリの北東に青い円で描きました。
革命が先鋭化すると危ない、我々はもう囚人ではないかと思って、ルイ16世は国外逃亡を企てます。妻マリーアントワネットの実家、オーストリアに亡命を考えたようです。けれど、亡命は不名誉と思い直したので、国境沿いのフランスの街に行くことにしました。危機意識が薄かったようで、足の遅い大きな馬車で、途中ピクニックをしながら、合流するフランス軍との待ち合わせ場所に向かいました。到着したころには、軍は解散した後でした。遅刻したんですね。
そして、ヴァレンヌというところで追手の軍に囲まれて、パリに連行されます。
国王は悪くない、貴族に利用されているんだと市民は国王を支持していたんですが、この逃亡劇を知って、怒り狂った市民は、
「市民を置き去りにして逃げようとした。妻の実家のオーストリアの軍を使って市民を殺すつもりだ」と信用が失墜します。ここに革命の性格は「反王政」が追加されます。

役目を果たしたとして、国民議会は解散しました。
パリには革命家の集まる場所として、すでに使われていないドミニコ会のジャコバン修道院がありました。この場所や、ここに集まる革命家はジャコバンクラブと言われていました。
ジャコバンクラブに入り浸っていた貴族(ラファイエットが有名)はフイヤン党を作って、立憲君主制を目指します穏和なブルジョワ(ブリッソが有名)もジャコバンクラブに入り浸っていましたが、こちらはジロンド党を作って、国王のいない政治/共和制を目指します。
のちに急進的な人たちも出てきて、山岳派/モンターニュ派と言われます。独裁をして強烈な印象を与えたので、ジャコバン派=山岳派というイメージができあがりました。傾斜のある議場で、高いところにまとまって座っていたので、山のように高いところにいる人たち=山岳派と綽名されます。
当たり前ですが、フランスはフランス革命だけではありません、有名人たちのどんちゃん騒ぎだけではないんです。このころ、ラプラス/ラプラースは星雲が固まっていって太陽系になったという星雲説を固めていました。これが宇宙進化論の一つとされています。最初に発案したのはカントですけどね。

立憲王政/第一王政 1791.10-1792.9
1791年憲法で定められたように財産資格のある人だけが有権者となれる制限選挙の結果、一院制の立憲議会/立法議会が成立します
憲法に立脚した議会という意味では立憲議会で、既に憲法はあるので法律を作る議会という意味では、立法議会となります。貴族で立憲王政派のフイヤン派が主導します。この人たちは議長から見て真ん中に座っています。議長から見て左に座っていたのが革命を推進するグループ/革新派の人たち、つまりジロンド党です。彼らは左派、左翼と言われました。議長から見て右側には王党派の人たち、絶対王政でいいではないかという保守的な人たちが座りました。彼らは右派、右翼と言われました。
左派、右派の語源はここにあります。

左派/革新 右派/保守
共産主義、自由主義、資本主義、中央集権、地方分権などは関係ありません。その時代の慣行を「一気に変えるぞー」という人たち/革新は左派と言います。「すこーしずつ変えようや」という人たち/保守は右派と言います
例えば21世紀の日本で憲法を一気に変えようという人は革新なので左派です。少しずつ変えようという人は保守なので右派です。自民党は保守だと言っていますが、大きく憲法を変えようというので、革新/左派ですね。共産党は左派だと言っていますが、憲法は変えないと言っているので、保守/右派です。ただ、本来の使い方はこうなんですけど、国や時代によって意味が変わっています。
21世紀の日本では、保守、革新は関係なく、中央集権(増税、軍増強、増省庁、大きな政府、規制増、福祉なし)は右派、分権(減税、軍備縮小、減省庁、小さな政府、規制減、福祉あり)は左派と言う人が多いですね。歴史的に見ると、右派を推し進めると国家主義、侵略戦争、独裁(ヒトラー)や全体主義(戦前の日本)、左派を推し進めると共産主義(レーニン)や独裁(スターリン)に行きつきます。バランスが大切ということですね。

230年ほど戻って、フランス革命の話です。
1791年8.27にハプスブルク家オーストリアのレオポルト二世、プロイセンのヴィルヘルム二世はルイ16世を支持するというピルニッツ宣言を発します。革命が伝播して、国王はいらないという考え/共和主義が自分たちの国に広まったら大変ですからね。
1792年3月、ジロンド派が優勢となって、王政を廃止して共和政へという動きが明確になります。他派の反発を抑え込むために、ブリッソなどのジロンド派は、戦争を計画します。外に敵を作ることで、国民を一致団結させようという愚かな権力者の常套手段です。こういうことは今後も、21世紀の世界にもあるので、注意してみていればわかります。

フランス革命の性格が「革命戦争 外国からの干渉に対する戦争」に変わります。
1792年の4/20、ピルニッツ宣言を真に受けたジロンド党がオーストリアへ宣戦布告しますが、士気の低い貴族が指揮官の中心なので負けます。ジロンド党の内閣は信頼が失墜して、フイヤン党が政権に戻ります。

そんな中で、急進的な市民であるサンキュロットが、国王のいるテュイルリー宮殿を襲撃するという8月10日事件が起こります。
王族はパリ三区のタンプル修道院に幽閉されます。この修道院は大塔が目立つのでタンプル塔と呼ばれていました。templeをフランス語ではタンプルと読むんです。
そして、王権停止、立憲議会の解散へと矢継ぎ早に事が起こります。
この頃から、サンキュロットが支持する山岳派(ジャコバン派/モンターニュ派)が台頭します
山岳派は、中央集権・生活保障を掲げています。政策が革新なので左派です。
1792.8プロイセンの司令官ブラウンシュヴァイク公の宣言「フランス王室に危害を加えた場合、パリを全滅させる」は、「国境を越えた王侯貴族VS市民戦争」の性格をフランス革命に加えます。

1792年9/20ヴァルミーの戦で、プロイセンとオーストリアの正規軍、フランスのコンデ公軍に、寄せ集めの義勇兵(元王立軍の元正規兵も混ざっています)であるフランス軍が勝利します。この時に参加していた南仏のマルセイユ軍団がラ・マルセイエーズを歌っていたて、これがのちにフランス国歌になります。
戦地でのフランス側のVive la Nation/国家万歳というシュプレヒコール(スローガンの一斉連呼)も有名ですね。
貴族がいなくても勝てるんだ、われらの道は正しいという勇気を与えたと言われています。
プロイセン側で従軍していたゲーテはこの戦争に関して、この日ここから、世界史の新しい時代が始まる。君たち全員がその誕生の場に居合わせたと言えると日記に記したとよく言われますが、本当なんでしょうか。
Von diesem Ort und von diesem Tag an beginnt eine neue Ära in der Weltgeschichte, und Sie alle können sagen, dass Sie bei ihrer Geburt dabei waren.
英語だとFrom this place, and from this day forth begins a new era in the history of the world, and you can all say that you were present at its birth.
日記はドイツ語で10冊はあるから、私は確認していません。社会の混乱、破壊、略奪を伴った民主主義の到来を感じたとは言われています。ただ、これは負けた自軍へのせめてもの慰めとして言ったそうです。

立憲議会は終わりました。
1792.9男性だけの財産無条件の普通選挙で、国民公会が成立(1795.10解散)します
ブルジョワで共和主義のジロンド党が主導権を握って、王政を廃止します。 第一共和政の始まりです。

第一共和政1792年-1804年
最初はジロンド党が主導権を握っていました
が、すぐに過激な左派の山岳派/ジャコバン派の独裁が始まります。中心メンバーはマラー、ダントン、ロベス・ピエールです。マラー、ダントンなどはパリを流れるセーヌ川左岸のサンジェルマン・デプレのカフェ、ルプロコープに通って話をしていたそうです。イタリアからの移民が始めたカフェだそうです。                                 
公安委員会は政・財・軍の指導をして、保安委員会は治安を担当して、革命裁判所はギロチンで処刑を担当するという恐怖政治=テロルの時代です。英語のテロの語源です。つまり、テロは政府が反政府の人たちに対して行ったものなんです。21世紀には反政府をテロという権力者が表現することが多いんですけどね。
ジャコバン派の独裁下では、実施されなかったんですけど、平等を目指すジャコバン憲法が作られました。
メートル法の制定
物差し、計測という意味のメトロン(古代ギリシャ語)からの造語です。タレーランが提案して、国際的な度量衡の基準を作ろうということになったんです。北半球、具体的には北極点から赤道までのパリを通る子午線の長さを1000万分の1にした長さを1メートルとして定義しました。同時に1立方デシメートルの水の質量を1キログラムとして定義しました。面積の単位はアール、体積はステール、液体はリットルとして定義しました。長さだけでなく、質量や体積も含めてメートル法と言います。フランスでも、最終的に長さをメートルだけに統一したのは1837年なんですけどね。

キリスト教禁止と革命暦の制定
フランス革命暦は、カトリックの教皇が作ったグレゴリウス暦を使わない宣言でもあります。つまり政教分離です。だから、カトリック側には不満なんですね。
1カ月は30日で、5日の閏日が年末につきます。1週間は10日(ええー)、1日間は10時間(へんな感じ)、1時間は100分(長いですね)、1分は100秒としました。1806年に廃止されるんですけど、日常生活で使っていた人っているのかな。
詩人ファーブル・デグランティーヌが月の名を考えました。
春はGerminal ジェルミナール/芽月Floréal フロレアール/花月Prairial プレリアール/牧月
夏はMessidorメシドール/収穫月Thermidorテルミドール/熱月 Fructidorフリュクティドール/実月
秋はVendémiaire ヴァンデミエール/葡萄月 Brumaire ブリュメール/霧月 Frimaire フリメール/霜月
冬はNivôse ニヴォーズ/雪月Pluviôse プリュヴィオーズ/雨月Ventôse ヴァントーズ/風月
受験では11月のブリュメール、8月のテルミドールだけが出題されます。

ライシテはフランス革命から1905年にかけた一連の法律で成立した国家と宗教の分離、個人の信教の保障を表現する用語です。政教分離とだけ言えないのは、司法、立法、行政といった国家機構のあらゆる部門で宗教に対して中立だからなんです。介入ではなく、中立。政治家だけではなくって、官吏、民間登用の大臣も含みます。
21世紀のフランスでも、公共の場では宗教的なシンボルが禁止されています。例えば、大きな十字架のネックレス、ムスリム女性が全身を覆って目だけを出すブルカ、全身を覆って顔を出すチャドル、顔を覆って目だけ出すニカーブなども禁止されています。学校に通うムスリムの女性には障害が立ちはだかっていますね。21世紀にムスリムの移民が増えて、ヨーロッパ中でこうした文化摩擦が注目されています。

・国民国家になったので、王侯貴族のための軍、傭兵ではなく、国民軍の設置
この徴兵制に対して、1793.3に西部のヴァンデー地方で、ヴァンデーの農民反乱が起きています。生活が苦しいのに、「国民が主権者になった、自分の国家のために戦え」なんて急に言われてもよくわかりませんもんね。

領主地の没収と自作農の創設、つまり封建制の廃止
・最高価格令

・1794.2/4奴隷制度の廃止を決定
これは奴隷の多い中南米、とくにフランスの支配するハイチを刺激しました。ハイチの独立運動の契機と言われることがあります。これはよく出題されます。

1793.1月にルイ16世、王妃マリー・アントワネットは処刑されて殺されます
直後に形式上は世襲でルイ17世が即位したことになるんですけど、幽閉されたままで、10歳で亡くなりました。
ギロチンで死ぬことになるルイ16世は機械いじりの好きな人でした。閉じこもっていじっているので、マリー・アントワネットとは親密になれなかったとも言われています。人道的に苦痛を与えずに一瞬で死刑にできる装置をギヨタンが提案して、アントワーヌ・ルイが設計したギロチンはギヨタンの子どもという意味の名称ですが、ルイ16世は刃を斜めにすればよく首が切れると、アイディアを出したという噂もあります。結局、それで首を斬られてしまうんですから、本当だとしたら皮肉なものです。
王と王妃の首をギロチンで刎ねたのは世襲の死刑執行人だったサンソンという人です。
「死刑執行人サンソン ―国王ルイ十六世の首を刎ねた男」 (集英社新書)という本が出ています。
「マリー・アントワネット」(中公新書)という本もあります。

外国の情勢にも詳しいドイツなどの知識人は、フランス革命を観ていて、市民革命を好意的に思っていました。けれど、ジャコバン独裁の恐怖政治化を受けて、各国の革命支持派は衰えました。
フランス国王夫妻の処刑死を受けて、周辺の王国はフランス革命が自国に波及することを本気で心配し出します。小ピット首相が中心になって、英国、プロイセン、オーストリアなどが第一回対仏大同盟(1793年-1797年)という軍事同盟を結成します。

ロベス・ピエール、右腕と言われたサン・ジュストはダントンなどの政敵を処刑して独裁をします。
マラーはジロンド派の女性に殺されたそうです。                                              1794年7/9、テルミドール9日のクーデタ/テルミドールの反動という事件があります。
ロベス・ピエールが逮捕されて、処刑された
んです。            

フランス軍はネーデルラント連邦共和国、オーストリア領の南ネーデルラント(ベルギー)へ侵攻します。革命の輸出を目的としていたんです。民主制の輸出という意味では、1900年代前半の米国大統領ウッドロー・ウィルソンの宣教師外交に近いものを感じます。
世界民主化計画とも言えますね。のちのレーニン、トロツキーの世界同時共産主義革命も想起します。
フランス軍の侵攻を、各国の市民、農民の中には封建制から解放されるかもしれないと思って、歓迎する人もいました。フランスとしては、各国で革命が起きることを期待して、対仏大同盟を内側から壊す意図もあったのかもしれません。
フランス革命の性格が「外国へ侵攻」に変化しています。

1795年にはフランスはベルギーを支配します。オランダは支配されてヴァタビヤ共和国と言われるようになります。そして、1799年にはオランダ東インド会社を解散して、南アフリカのケープ植民地も英国に占領されて、失います。

1795.11 ジロンド党が主導して、反独裁のために5人をリーダーとする総裁政府(-1799.11)を作ります。タレーランが外務大臣になっています。
貧しい暮らしで育ったバブーフは、土地は万人のものと考えて、土地の譲渡権、相続権を否定します。そして、既に軍隊では軍服、銃、食料などが配給になっているのだから、社会生活全般で可能だと考えて、私有を禁じる共産主義の革命を志します。2000人が集まったパンテオンクラブを率いていたバブーフですが、総裁政府によって処刑死します。バブーフの共産化未遂事件として知られています。          
1795年と言えば、鉛筆業界に革命的なことが起こっています。フランス人が、黒鉛と粘土を混ぜて、焼き固めたものを鉛筆の芯とする製法を発明したんです。
入試には出題されませんよ、けど面白いと感じました。

この時期、フランスは各地で戦をしています。
コルシカ生まれのナポレオンは軍功をあげて、昇格しています。
1797年、フランス軍のイタリア方面司令官のナポレオンがオーストリア軍、ヴェネツィア共和国軍を破ったことをきっかけに、第一次対仏大同盟は崩壊します。オーストリアは1797年のカンポフォルミオの和で、南ネーデルラント、ロンバルディアを喪失します。滅亡したヴェネツィア共和国の領土はオーストリアが受け取りました。フランスは、イタリアに複数の国を作ります。
対仏大同盟は七回あって、きっかけ、主な戦、解散に至る条約などはよく出題されます。年号も時折出題されます。参加した国は、英国、オーストリアは毎回で、プロイセンやロシアは時折という感じで憶えています。

1798年、英国海軍のネルソン提督がフランス海軍に勝って、インドへの航路、海上覇権を権維します。これに対して、英国とインドとの航路を断ち切ろうとして、フランスはエジプト遠征をしました。ナポレオン軍がロゼッタストーンを発見するのはこの時です。シャンポリオンが後で解読をします。
このエジプト遠征に対して、英国などは1798年に第二次対仏大同盟(-1802年アミアンの和約で解散)を結成します。

1799.11英軍の侵入に対して、エジプトから戻ったナポレオンがブリュメール18日のクーデタを起こして、実権を握ります
形式上は3人が対等な執政政府(統領政府とも言います)
第一執政はナポレオンなので、実態は独裁の始まりです。第二執政はアベ・シェイエス、外務大臣にタレーランが就任します。
そして、革命の終了を宣言しました
以降はナポレオン時代と言われます。

小説ですが「小説フランス革命」(佐藤賢一)があります。
関心のある人には「物語フランス革命」(中公新書)もあります。

ナポレオン時代
ジャコバン独裁の時にもありましたが、1799年に再び採用された統一的な度量衡体系の名称はメートル法です。面積のアール、体積/容積のリットル、重さのグラムも含めてメートル法と言います。 
1801年にフランス革命の波及で反乱したアイルランドを併合して、イギリス王国は大ブリテン・アイルランド連合王国となっています。
1802年、英とフランスの結んだアミアンの和で第二次対仏大同盟は崩壊します。
この和約は現状維持を回復するもので、英国はオランダ/ヴァタビア共和国から奪ったセイロン、スペインから奪ったトリニダード、フランスから奪ったトバゴを除く占領地を各国に返します。
返さなかったセイロンはその後、正式に英国領になります。トリニダード・トバゴとして一つになったエリアも正式に英国領になります。
このころ、ドイツではクラシック/古典音楽を完成させたと言われるベートーヴェンが交響曲第3番「英雄」を作曲しています。ナポレオンを念頭においたと言う学者がいますね。因みに2020年に生誕250周年を迎えました。                

この平和と勝利を背景として、ナポレオンは終身大統領となります。
ナポレオンはアンシャン・レジームのような血統主義をやめます。つまり、フランス革命の成果を定着させようとしたんです。ナポレオンの政策によって、官僚の採用は能力主義となりました。かつての亡命者も帰国を許可されて、高い能力を持つ人が政府で仕事をするようになります。

革命中はアンシャン・レジームの一つと捉えられたカトリックを禁止して、1796年以降にはフランスが徐々に教皇領を侵略していたんですが、ナポレオン時代の1801年にはコンコルダードと言われる政策によって、教皇のピウス七世と和解をします。フランスにカトリックが復活するんです

国王の軍ではない国民が自分の国を守るための国民徴兵制、中央銀行としてのフランス銀行の創設もします。

革命の成果を成文化したという歴史的意義を持つフランス民法典、いわゆるナポレオン法典を1804.3に制定して、法の下の平等、私有財産権、個人の自由尊重などを認めました。アンシャン・レジーム、共産主義を否定したんですね。
ただ経済格差などは残るので、平等をもっと進めるべきと考える人たちは共産主義へと向かいます。
政府の力が強すぎると考えたり、女性、若い人、移民などの個人の自由が尊重されていないと思う人は、自由主義へと向かいます。
民法典は民法の規定です。刑法や憲法とは違います。

1804年、国民の支持を背景とした人民投票でナポレオンは皇帝になります。いわゆる第一帝政の開始です。せっかく王政を打倒したのに帝政にするなんて、当時を生きた人でないと感覚的にわかりませんね。

第一帝政
ナポレオン一世は、パリのセーヌ川の中州にあるノートルダム大聖堂(2019年に焼けてしまいます)で教皇のピウス7世の手で皇帝としての戴冠をします。カトリックと和解した成果が出たんです。教皇からの戴冠は神聖ローマ皇帝を想起させます。この「ナポレオン戴冠式」が、画家のダヴィドによって描かれました。出題されるので、史料集で絵を観ておきます。
アシニア紙幣の乱発でハイパーインフレーションを経験しているナポレオンは、紙幣をやめて、政府の支出を金貨、銀貨に限りました。紙と違って、容易に調達できない原料の金銀の保有量に貨幣の調達量が左右されるんです。 だから、インフレを抑え込めるんです。
1805年にはナポレオンの皇帝就任を契機として、第三次対仏大同盟が結成されます。       

皆伝21  フランス革命、ナポレオン戦争 - コピー

1805年、この第三次対仏大同盟を契機に、ジブラルタル海峡の近くでトラファルガーの海戦が起きます。ネルソン提督率いる英国に、フランス、ナポレオン支配下のスペインの連合軍は敗れます。その後、イギリスは戦いを避けて海上封鎖へ切り替えるんですが、フランスは海戦にはめっぽう弱いと憶えておくといいと思います。
ただ1805年には、陸戦のアウステルリッツの戦でフランスは勝利します。別名は三帝会戦で、三人の皇帝とはフランスのナポレオン一世、オーストリアのフランツ二世、ロシアのアレクサンドル一世のことです。講和条約のプレスブルクの和で、ヴェネツィアはオーストリア領からフランス領へ移ります。
このアウステルリッツ/三帝会戦での勝利を祝って、1806年からナポレオンの命令でエトワール凱旋門が建てられはじめます。あのパリの象徴の凱旋門です。1836年に完成するので、ナポレオンはくぐっていませんけどね。この時代、建築の素材が鋳鉄から錬鉄、鋼鉄へと変わってきています。新古典様式の凱旋門にも鋼鉄は使われているんでしょうかね。19世紀初頭には鋼の生産、板ガラスの大量生産が始まっていて、石の補強ではなく、主要な構造材になってきているので、もしかしたらそうかもしれません。受験生は忙しいので、私は調べません。

1802年、ナポレオンは、チュイルリー宮での儀式に、男は白の絹靴下とキュロット、女性は華美にというドレスコードを命令しています。裾を引く宮廷用トレーンがヨーロッパの貴族で一般化することに影響しているかもしれません。
ナポレオンが宮廷服にマント・ド・クールの採用をしたのは1804年で、この時期にはダンディズムが流行しています。男性は長ズボン、ジャケット(ジュストコール)、ベスト(ジレ)、クラヴァット(ネクタイのようなもの)を着用しました。1811年になると、ナポレオンは、公式服として絹の織物の着用を命令します。

ナポレオンはイタリア王国を建てて、自ら王位に就きます。1806年にはナポレオンの弟のルイがオランダ王になって、ナポレオンの兄ジョゼフがナポリ王(1806年-1808年)となっています。このジョゼフ・ボナパルトは1808年-1813年にはスペイン王にもなっています。
戴冠すると、教皇からもらえるものはなくなったので、ナポレオンは1810年に教皇領を併合します。こんな情勢でも、シチリア王国はスペイン系ブルボン家が維持しています。

フランスに占領されたドイツ地方では、1806年にフランスの主導で対プロイセン、オーストリアを念頭に置いたライン連邦(-1813年)が成立します。バイエルン王国やザクセン王国などの領邦国家が参加させられています。ライン同盟とも言いますが、中世の三大都市同盟の一つであるライン都市同盟とは違います。
ライン同盟では、フランス民法典が施行されました。支配されているとは言っても、民主的な空気に触れたことは、ナポレオン後のドイツが自由、民主を求めていく要素になったと思います。

そして、たくさんの領邦国家が抜けたことで、1806年に神聖ローマ帝国は解体して、滅びました。
だいたい900年の歴史を持つ中世からの国家の滅亡です。

1806年10/6に、英国はプロイセン、ロシア、ザクセン王国、スウェーデンなどと第四次対仏大同盟を結成します。 
1806年10/9のイエナ・アウエルシュタットの戦で、フランスはプロイセン、ロシアに勝利します。
1806年11月、プロイセンに勝利したので、ナポレオンはプロイセンの首都ベルリンで、ベルリン勅令を出します。内容は、対英国を目的とした大陸封鎖令です。英国を経済的に孤立させるために英国船、英国に向かう船を監視する海上封鎖をしたんです。そうすると、代わりにフランスの製品がヨーロッパ中で売れると考えたんですね。英国は密輸をしたり、南米との貿易を活性化させたりしています。なかなか効果があがらないので、ナポレオンは1807年、ミラノ勅令で大陸封鎖を強化します。

こうした宗主国スペインの船さえも植民地に行けない環境が生まれたことで、中南米では「今だ!独立するぞ!スペインは軍を派遣できないぞ」と、植民地生まれの白人/クレオーリョを刺激したんです。

1807年に、フランスは、プロイセン、ロシアと各々ティルジット条約を結びます。
1807.7/9プロイセン
①プロイセンが奪った旧ポーランド王国の土地にワルシャワ公国/ワルシャワ大公国を建国することを約束させられます。公国にはザクセン公が領主となります。実質はフランスの属国です。
②エルベ川左岸にウェストファリア王国/ウェストファーレン王国を建てさせられます。ナポレオンの弟ジェロームが王になります。
③ダンツィヒ(21世紀のグダニスク)は自由都市化。どの国のものでもないので、都市国家のような扱いですね。
④賠償金を払うまで、フランス軍が駐留します。
こうしたナポレオン占領下で、後のベルリン大学の総長フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」という演説をして、はじめてドイツ民族という意識に訴えかけました。ドイツ民族主義が鼓舞されたんです。ドイツ統一への道を開いたとも言えます。けれど、領土が減ったので、プロイセンの人口は900万人から400万人に減ったようです。
先を知っている私としては、第二次世界大戦までつづくドイツ人の統合、特にポーランドに関わる故地の回復、特にフランスへの賠償金への怨嗟などが想起されます。

1807.7/7ロシア
①第四次対仏大同盟から離脱して、大陸封鎖令に参加すること
②イギリスに宣戦布告すること
③スウェーデンからフィンランドを獲得することを、フランスは容認すること
④ロシアはスウェーデンが大陸封鎖令に参加するように促すこと
⑤ロシアが占領していたイオニア諸島をフランスへ返すこと

フランスに一度も降伏していないのは英国、シチリア王国、サルディニア王国だけです。      
このようにナポレオンが英国・シチリア王国・サルディニア王国を除いて、広範囲に占領して、政治的にヨーロッパを一体化したことで、フランス革命の思想や諸制度が普及します。封建制の廃止、教会財産の国有化、フランス民法典の押し付け、つまり近代化です。
その結果、各地にポーランド人だ、ドイツ人だ、イタリア人だという民族意識が生まれて、革命や独立運動が起こっていきます

対英国の大陸封鎖に対して、各国は貿易ができないと苦しいので密貿易をしています。その封鎖の抜穴となっているのがポルトガルなので、1807年にフランス軍が侵入すると、ポルトガル王室はブラジルに亡命しました。ポルトガルも駆け付けた英国軍と共に抵抗したんですが、フランスに敗退します。フランスはポルトガルには王を置かずに支配します。
1808年、フランスはスペインにも侵攻します。
1808年5月から、スペイン市民は反乱します。これが市民によるフランスへの初の反転攻勢と言われています。[裸のマハ]で有名な画家のゴヤは、ナポレオンを嫌悪していたと言われていて、この時の様子を[マドリード1808/5/3]で描いています。史料集で絵を観ておきますね。そして、ブルボン朝スペイン王国もフランスに滅ぼされます。ナポレオンの兄ジョゼフ(ナポリ王をしていた人)がスペイン王になりますが、治安が不安定なのですぐにフランスに戻ってしまったようです。
このナポレオンのスペイン侵略と独立戦争(1808年‐1814年)の間、市民の抵抗は小戦争/ゲリラと言われました。ゲリラという言葉が生まれたのはこの時です。
この時期、非占領地域だったカディスに国民議会が召集されて、自由主義的な1812年のカディス憲法が制定されています。フランス軍に支配されていない地域のスペインは立憲国化したと言えます。

1809年に英国は、第五次対仏大同盟を結成します。
1810年、ナポレオン皇帝は、かつて神聖ローマ皇帝だったフランツ二世/オーストリア皇帝としてのフランツ一世の娘マリルーズと結婚します。ハプスブルクの血が入るんです。箔を付けようというんですかね。夫婦仲はよかったみたいです。最初の妻ジョセフィーヌが亡くなったので、再婚を考えたんです。

ロシアが英国と密貿易をしていることが発覚したので、1812年、ナポレオンはロシア遠征をします。モスクワを占拠したんですが、あまりに早く冬がやって来たことで冬の準備ができていない兵士は寒さで戦どころではなくなります。ロシアのクツーゾフ将軍の焦土作戦、つまり占拠される前に、フランス軍が利用しそうなものはすべて焼いてしまう作戦で、フランス軍は撤退するしかなくなります。
1813年、このロシア遠征での敗北が契機となって、第六次対仏大同盟が結成されると、大陸封鎖で溜まっていた商品をどっと出して、英国は自由貿易化します。そして、東インド会社のお茶以外の貿易独占も廃止します。自由貿易なので、関税も特許も独占もなくす時代です。

1813年、諸国民戦争とも言われるライプチヒの戦でプロイセン、オーストリア、ロシア、スウェーデンなど諸国同盟とフランスは戦します。この時の諸国同盟の総司令官はベルナドット、ナポレオンの下でフランス軍の元帥もしたことがある人でした。ベルナドットはのちにスウェーデン国王カール3世ヨハンとして即位します。フランス軍は敗退します。初めて大きな陸戦で負けたのかもしれません。敗戦を契機に、1814年、皇帝から失脚したナポレオンはエルバ島へ流されます。エルバ島の位置は出題されます。

1814年、ナポレオンが作ったイタリア王国も崩壊します。
1814年、フランスでは第一王制が復活します。あのブルボン朝です。国王はルイ18世。ルイ16世の弟でした。

フランスのタレーラン、オーストリアのメッテルニヒの主導で1814年-1815年にウィーン会議が開かれて、この後の政治について話し合いが行われます。
そして、このウィーン会議は、フランス革命前の旧体制復帰を掲げました。「王政復古」、「正統主義」です。フランス革命前の王朝を正統と見なすという考えで、フランスならブルボン朝になるし、スペイン、ナポリ、オランダなどではナポレオンの血筋を認めないぞということです。フランス革命の理念である自由や国民主義の否定でもありますね。だから「自由のない平和」と言われました。
こうした大枠はすぐに決まりました。「会議は踊る。されど進まず」と揶揄する人もいましたが、この言葉は実態を表していないという考えで、21世紀の学者は共通理解を持っているようです。
ただ、エルバ島はイタリア半島から近いんです。小舟で戻れるんです。警備も甘かったようで、エルバ島を脱出したナポレオンがイタリアに上陸して、パリに戻ってくると、市民は大歓迎したようで、再び皇帝になります。

⑤ナポレオンの百日天下と言われます
1815年3月-6月と短い期間ですが、第一帝政の復活です。
この時、ナポレオンから後継指名されて、1815年6/22-7/7ハプスブルク=ロートリンゲン家の妻マリ・ルイーズとの間に生まれていた息子、ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフはナポレオン二世を名乗りました。後で、ナポレオンの甥がナポレオン三世を名乗るのは間にナポレオン二世がいるからなんです。

これに対して、1815年3月に、第七次対仏大同盟が結成されます。
ナポレオンは最後の戦をします。
1815年6/18ネーデルラント連合王国領土内(21世紀年時点でベルギー)のワーテルローの戦で、英国、オランダ、プロイセンなどの連合軍に負けます。英国のウェリントン将軍が入試では出題されます。理由を知りませんが、ロシアは参加していません。
このワーテルローの戦を、ファルツ継承戦争に始まる第二次英仏百年戦争の最後と見る学者もいます。
ワーテルローの実質的なフランス軍指揮官はネイ将軍ですが、砲兵と連携せずに騎兵を突撃させるなど、作戦ミスを犯しました。もともと、エルバ島を脱出したナポレオンを捕縛してきますと言って、出かけて、ナポレオン軍に加わったので、ルイ18世の下で反逆罪で処刑されます。

フランスではフーシェが臨時政府を作ります。ナポレオンは退位して、イギリス海軍に投降しました。Elbaエルバ島の時のように逃げられると困るので、アフリカの絶海の孤島セントヘレナへ配流されて亡くなります。   
ナポレオン毒殺説は21世紀には否定されています。胃癌、腎臓病などが有力視されています。
この時代の人は肖像画を描かれるときに右手をお腹にあてるポーズが流行していました。
例えば、同時代のバレンシアの画家アセンシオ・フリアの肖像画もお腹を押さえています。これはゴヤが描いたものですね。ちなみにアセンシオ・フリア は「巨人」の真の画家ではないかとプラド美術館は言っています。
こういうことを考えると、ナポレオンの肖像画が、お腹に手を当てている姿勢なんですが、胃癌の根拠にはなりません。 

三谷幸喜さんが「おのれナポレオン」という戯曲を書いて、舞台を作っていましたね。
小説ですが、佐藤賢一さんが「ナポレオン」を書いています。
関心のある人には「ナポレオン」(岩波新書)、「ナポレオン時代」(中公新書)「ナポレオン四代」(中公新書)もあります。

⑥ブルボン朝第一王制の再度復活。
ルイ18世です。とは言っても、もう絶対王政ではなく、立憲王政です。
首相はタレーランで、百日天下に協力した人たちが殺される事件がたくさんあったので、治安は悪かったようですね。
反動的な議会と違って、最初はルイ18世は自由主義的な人を積極的に周囲に置こうとしました。
反動というのは、時代の流れに「反」して逆行している「動」きのことで、たいていは否定的なイメージで語られます。
この時代はフランスの浪漫主義/ロマン主義が全盛で、「アタラ・ルネ」などを書いた作家のシャトーブリアンは貴族院の議員でもありました。後で、外務大臣にもなります。

さて、ナポレオンがいなくなったので、ウィーン会議はウィーン議定書を作ります。
ここにウィーン体制が成立しました。
主導したオーストリアのメッテルニヒに由来してメッテルニヒ体制とも言われる保守的な秩序重視の復古体制がヨーロッパに敷かれました。
このウィーン体制は、フランス革命前の旧体制復帰を掲げたので、「王政復古」、「正統主義」です。スペインやイタリア、オランダではナポレオンの血縁者が王位に就いて歪んだけれど、元の王朝に戻ります。戻らなかったのが、神聖ローマ帝国で、この地域はドイツ連邦になります。ポーランド王国もナポレオンとは関係なく分割されて滅んだ後に、ナポレオンの手でワルシャワ公国として復活したので、元のポーランド王国には戻りません。

この体制を担保するために二つの組織が作られます。
神聖同盟
ロシアのアレクサンドル一世が提唱したキリスト教的友愛を掲げる神聖同盟
。これは同じキリスト教の君主なんだから仲よくしようという物です。何だか浮世離れしていますが、ロシアってなぜだか中世を持ち出した神聖同盟や、万国平和会議のような理想を打ち出したり、社会主義/共産主義国家を初めて作ったり、身分や地位に関わらずに、理想で実際に動く時がありますよね。
四国同盟
1815年に成立した大国の武力的な同盟です。四国は英露普墺、イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリアのことです。1818年にはフランスも参加します。五国同盟に変わるんです。最初に勝利した列強が作って、後から敗者も入ること、国際的な秩序を武力で維持すること、なんだか国際連合との類似性がありますね。

フランス革命とナポレオン戦争の影響
論述で出題されます。王の軍隊ではなく、ナポレオン時代は別として、フランスの国民軍の支配によって、各国で民主主義、共和制への志向が生まれました。その意識は、1830年の七月革命、1848年の二月革命の影響を受けて強くなって、自治・独立・立憲制・共和制・選挙権拡大への改革という実際の行動へとつながります。

ウィーン会議で決まったこと
・奴隷貿易を非難する
奴隷貿易の禁止が原則となります。
すでに英国は1807年に廃止していますし、フランスも植民地では奴隷制を廃止していました。ただ、本国への奴隷貿易の禁止となると、少し違います。それでフランスは当初反対しましたが、敗戦国フランスだけに5年間の奴隷貿易廃止が義務付けられたようですね。
他の国は努力義務のようです。
奴隷制度、奴隷の売買とは違うので、注意します。
今後、アフリカには奴隷以外のもので稼げるものはないかと考える人が出てくるのは自然なことです。それで、ヨーロッパ人には沿岸部しか知られていなかったアフリカが、探検家によって内陸も知られていきます。物を売りつけられる人/市場、ダイヤモンドや金などの資源を求めて、ヨーロッパ人は最初は商人が行って、のちに軍隊を送るようになります。植民地化ですね。

・ロシア
ザクセン公が君主だったワルシャワ公国が廃止されて、ポーランド立憲王国を建国します。そしてロシア帝アレクサンドル一世が王を兼ねます。
スウェーデンからフィンランド、オスマン帝国からベッサラビアを獲得。

・プロイセン
スウェーデンからポンメルン/ザクセン北半分、フランスからラインラント(ライン川流域)の東岸/ルール地方、ワルシャワ公国の一部だった地域/ポズナン大公国を獲得。

・オーストリア
ベルギー、元ポーランド領、南ドイツを放棄。
ヴェネツィア、ロンバルディアを獲得。

・英国
オランダ領だったケープ、セイロンを獲得。マルタを獲得。
英国とインドを結ぶラインに寄港地を獲得して、産業革命で生まれた安い新製品を大量に作って売って、経済的にも政治的にも一強の時代、パックスブリタニカの時代になります。

・オランダ
セイロン、ケープを英国に譲渡。オーストリア領ベルギーを併合。

・サルデーニャ王国
イタリア半島北部のピエモンテ、サヴォイを獲得

・スウェーデン
デンマーク領のノルウェイを獲得。
フィンランドをロシアに割譲。ポンメルンをプロイセンに割譲。

・ライン連邦
解散して、オーストリア中心に、プロイセンなどが参加するドイツ連邦を形成

・スイス
永世中立国になることを承認されます。承認した周辺国はスイスが攻められた時に、守る責任を負います。

米国の独立、フランス革命を機に、自由独立の機運が盛り上がるようになるのは、わかったと思います。もう抑圧的なウィーン体制の時代ではないんです。次の時代はウィーン体制の崩壊、自由主義へと向かいます。

□□イベリア半島、オランダ、ベルギー

□スペイン
この時期、ようやくスペインでは宗教裁判が禁止されました。

アメリカ北部は独立戦争をしていますが、中南米のスペイン植民地でも1778年、アメリカ大陸貿易の自由化で、決まった貿易港・都市の商人以外も参加できるようになりました。そうなると、ナポレオン時代には、対英国のためにフランスが大陸封鎖をしているのに、密貿易の抜穴になるんですね。それで、1807/1808年にフランス軍が侵入を開始します。
1808年にはバルセロナが占領されます。
市民の抵抗、ゲリラは1814年まで続きました。[裸のマハ]で有名なゴヤが[マドリード1808年5月3日]を描いたこと書きましたね。これはナポレオン軍の侵攻を描いたもので、ふらんす軍が民衆に銃を向けている様子がわかります。

1808年にはボルボン朝スペイン王国が滅んで、ナポレオンの兄ジョゼフが王になります。ボナパルト王朝と言えばいいんですかね。ジョゼフが1806年にナポリ王になっていたことも書きましたね。
この時期、非占領地域だったカディスに国民議会が召集されて、自由主義的な1812年のカディス憲法が制定されています。フランス軍に支配されていない地域のスペインは立憲国化したと言えます。

ナポレオン戦争後、1814年スペインは王政復古で、ボブボン朝のフェルナンド7世が専制政治を再開します。カディス憲法も廃止されてしまいました。

□ポルトガル
ポルトガルも対英国の大陸封鎖にとっては密貿易をしている抜穴なので、1807年にフランス軍が侵入してきます。ポルトガルの王室はブラジルへ亡命します。
ナポレオン戦争後、1814年にポルトガルも王政復古します。王子だけはブラジルに残りました。

□オランダ/ネーデルラント連邦共和国
総督が元首です。
1779年、医師のインゲンハウスが光合成を発見しました。
1795年、フランス軍の侵攻があると、反総督制度を掲げる民主派の人たちがバタビヤ共和国(1795年-1806年)を名乗るようになりますが、フランスの傀儡と言えます。インドネシアのバタヴィヤとは関係のない名前です。
こんなときに、英国はインドとの貿易を活性化したいので、南アフリカにあるオランダ領のケープ植民地などを占領しています。セイロンも占領します。漁夫の利ですね。
1799年、総督から特許を得ていたオランダ東インド会社は解散となりました。とは言え、日本の出島などにはオランダ人がいて、東南アジアにもいるので、貿易はしています。インドネシアのバタヴィヤ(ジャカルタ)の商人は、中立国の米国船を利用して、長崎と貿易をしたそうなんですが、オランダ国旗を掲げれば、アメリカ船籍でも長崎に寄港できるということですね。
1800年代には、ホラント王国となって、ナポレオンの弟ルイが王位に就きます。ボナパルト朝です。

1814年、ケープは英国との二国間協定で譲渡が決まりますが、ウィーン会議で、正式に放棄します。また、オーストリアが放棄したベルギーを併合して、ネーデルラント連合王国/オランダ王国へと変わりました。

□ベルギー
オーストリア領ベルギーは、1795年にフランス軍の支配を受けます。
ウィーン会議では、ネーデルラント連合王国/オランダ王国に併合されました。

□□中欧(ドイツ、オーストリア、ハンガリー、チェコスロヴァキア)

□神聖ローマ帝国
オーストリアはマリア・テレジアから1765年に啓蒙君主ヨゼフ二世/ヨーゼフ二世に代わっています。それに伴って神聖ローマ帝国皇帝も、マリアテレジアの夫フランツ一世からヨーゼフ二世が皇帝になっています。
この人はマリー・アントワネットの兄ですね。
啓蒙君主らしく、1781年には農奴解放をしていますし、宗教に関する寛容令も発しています。1555年のアウクスブルクの宗教和議以来、認められてこなかった個人の信仰の自由が認められたんです。画期的なことだと思います。皇帝はカトリックの擁護者なのに、ギリシア正教も信仰が認められます。

他に、司法制度の改革で死刑、拷問の廃止。出版の自由、官庁と教会による検閲を廃止。貧民救済制度、慈善施設の建設、学校、病院、共同墓地の建設。また、言語統一令を発して、ネーデルラント、北イタリアを除くハプスブルク帝国内の公用語はドイツ語に統一したり、警察制度などの整備をしたりと、中央集権化も進めています。ドイツ人意識というのが、ドイツ地域に醸成されていくのに貢献していると思います。
商工業の保護もしています。
ウィーン郊外にあるハプスブルク家の狩猟場、プラーターを市民に開放しています。21世紀にはプラーター公園となっています。
1752年にフランツ一世の命令で作られたシェーンブルン動物園が市民に開放されるのも1779年で、ヨーゼフ二世の時期です。無料だったそうです。恩恵ということでしょうね。現存する世界最古の動物園とも言われています。現存しないものでは古代エジプト、周、ローマ、アステカにもあったそうです。
教育、研究を目的にした博物館的な意味での動物園は、1828年のロンドン動物園が最古と言われています。

カントの前にはイギリス経験論、大陸合理論が覇を競っていましたね。
イギリス経験論は、実験観察を重視するけれど、そのかわりに観察できない因果性を否定する懐疑論に陥ってしまいました。大陸合理論は、徹底的に思考することを重視しますが、宇宙や神に対する人間の位置は確かめようがないという立場です。
合理論が知性を過大評価し、経験論は過少評価しているとも言われます。

1760年代、プロイセンのカントはドイツ観念論哲学を展開しました。
大陸合理論とイギリス経験論を調和させて、経験は知性の関与なしに成り立たないとも考えた「純粋理性批判」、自由は道徳に従うこととする「実践理性批判」、そして美とは何かということを考えた末の「判断力批判」を著しています。
永久平和論」も有名ですね。

形而上学的テーマを合理論で考えても無意味で、「それは知の越権行為だ、それは信仰の問題なのだ」と書いています。
どんなテーマも二つの命題が同時に成立するか、どちらも不成立かの二律背反と考えました。
例えば、鶏が先でないと卵を産めませんが、卵がないと鶏が生まれないので、鶏が先も卵が先もどっちも成立すると考えたんです。

ドイツ観念論哲学の系譜はカントに始まって、フィヒテ、ヘーゲルと続きます。ヘーゲルの弁証法と、フォイエルバッハの唯物論を融合させたものは、プレハーノフが名付けた弁証法的唯物論で、この理論ではマルクスが有名です。

フィヒテ(18C後半-19世紀)は、単一の原理を持たない分裂した人間には統一性がなくなってしまうから、単一の原理を自我に置こうと考えました。自我こそが自由を拡大するものであるとしたんです。
シェリングは、なにか唯一の根源(神のようなもの)に一つの規定を付与できないと考えました。そうすると、規定に反するものは生まれなくなってしまうからということです。
混沌と自然は根源的に同一性を持っている、それこそが原理だと考えました。混沌から上や下、濃い薄い、熱い冷たいといった対流が生まれるし、全体の秩序も生まれると考えました。これはナーガールジュナの空の概念に似ています。ナーガールジュナの場合も、空という形のないもの、すべての元からすべての現象が生まれると考えました。自ら川、滝、湖、海、雨が生まれるようにです。ターレスももしかしたらおんなじことを考えていたのかな。

イエナ大学で教えていたヘーゲルは、弁証法が有名です。対立する意見を相互に取入れて、新たな意見が生まれます。このように、どんどん高みへ(止揚)行く、このプロセスを弁証法と「精神現象学」で言っています。止揚はAufheben/アウフヘーベンと言います。弁証法は元はソクラテスやアリストテレスの対話法、問答法という意味だったんですが、いつしか意味が変わっています。

文学では1770年代にレッシングが戯曲「賢者ナータン」を著して、フランス古典主義の影響から脱却したと言われています。
感情解放を重視したシュトルム・ウント・ドラング/Storm and Impulseという運動が展開します。疾風怒濤運動と日本語訳されています。嵐と衝動が直訳だと思います。
この流れの中で、シラーは「群盗」を書いています。貴族をやめた盗賊の首領の恋と兄弟争いを描いたものです。シラーの最後の戯曲が、スイス独立で活躍したという「ウィルヘルム・テル」です。
1780年代、カントと対立していたヘルダーからシュトルム・ウント・ドラングという考えを得たゲーテは「若きウェルテルの悩み」を書いています
ゲーテの後期はシュトルムウントドランクではなく、大作「ファウスト」は国民文学の基礎と言われていて、ロマン文学の萌芽に位置付けられています。詩劇という位置づけのようです。
ファウストは主人公の名前で、思うような人生を送りたいので、悪魔メフィストフェレスと契約をします。思い通りの人生を生きられたら、死後は従うというものでした。めくるめく人生は一瞬で終わります。そして、地獄に連れていかれそうなファウストの前に、天使が現れて、天国へ連れて行ってくれるんです。読んでいて、都合がよすぎる気がしました。

国民文学と言うと、一生のうちに一回は読まなければなあと頭に引っ掛かっている作品です。日本だと「源氏物語」、イタリアでは「神曲」、ドイツでは「ファウスト」のようです。スペインでは「ドン・キホーテ」かな。英国はいろいろあって、ミルトンの「失楽園」とも言われますけど、文学ではないんですが、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」は一生のうちに一回は読まなければなあと思われている本で、読むと肩の荷が下りる気がするそうです。アメリカ合衆国だと、金字塔と言われるのが「キャッチャー・イン・ザ・ライ」「グレート・ギャツビー」で、「老人と海」「日はまた昇る」はヘミングウェイが二作はバランスが宜しくないと言う人もいますね。「風と共に去りぬ」はBLMの運動があって以来、黒人に差別的ということで非難されているので、近いうちに金字塔からは外れるかもしれませんね。

ナポレオン軍の侵入でオーストリアは負けて、1797年にカンポフォルミオの和を結ぶと、ベルギー、ロンバルディアを喪失します、第一回対仏大同盟の解散のきっかけですね。

1803年になると、神聖ローマ帝国は長くないとわかっていたようで、皇帝の名称を遺すために、帝国代表者会議を開きます。そして、オーストリア公国はオーストリア帝国を称することにしました。始祖はフランツ一世です。

そして、思っていたことが起こります。フランスの主導で対プロイセン、オーストリアのライン連邦/ライン同盟が成立すると同時に、多くの両方を失った神聖ローマ帝国は解体したのです。
このときリヒテンシュタインは独立しています。

ちなみにRheinbundはドイツ語ではライン連邦の意味になります。 Confédération du Rhinはフランス語で、ライン連邦、ライン連合の意味になります。神聖ローマ帝国を脱してフランスと同盟する形式ですが、ナポレオンが盟主で、ダールベルク大司教が総裁となっているフランス主導の国家連合でした。
ライン同盟には、バイエルン王国、ウェストファリア王国など4つの王国、バーデン大公国など5つの大公国、ザクセン・ゴータ公国など13の公国、17の侯国、3つの自由都市が加盟しました。首都はフランクフルト・アム・マインです。サッカーの長谷部選手の活躍が想起されますね。国際空港もあります。
1807年にナポレオンはウェストファリア王国を建国して、ナポレオンの弟ジェロームが王になります。
ナポレオン占領下のプロイセン王国の都ベルリンでは、
1807年-1808年、大衆向けにフィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」という演説をしています。
元イエナ大学教授でしたが、無神論者だと思われて、追放されていたんですが、ベルリン科学アカデミーの講堂 で、フィヒテは市民向けに1807年12月から1808年3月まで行った連続14回の講演をしました。ドイツ国民の文化が優秀だけど、もっと高めるためには教育が大事で、ドイツ語でドイツ国民を男女の隔てなく作ること、これがドイツ国民の生存を図る唯一の方法だーと訴えています。
これまではプロイセン人、オーストリア人という意識が強かったと思いますが、ドイツ民族主義を鼓舞したんです。これで「私たちはドイツ人なんだ」と認識が広まっていったようです。
近代化のために1810年にカール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの尽力でフリードリヒ・ヴィルヘルム大学が開校すると、フィヒテは初代の哲学教授になります。自我の意思を強調する主観的観念論を主張したそうです。学長にもなっています
のちベルリン大学、21世紀にはフンボルト大学ベルリンと言っています。
フンボルト家に後から生まれたフリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルトは、探検家で、近代地理学の祖とも言われています。 動植物の分布、緯度、経度、気候には関係があると考えて、近代地理学の方法論を書いた「コスモス」を著しました。エピソードとして電気ウナギが馬を感電させたと記録したのも彼ですね。 ペルー沖のフンボルト海流、その周辺に生息するフンボルトペンギンも彼の名前に由来します。

このころ、ドイツのモルワイデは新たな地図を作っていました。子午線/縦線が曲がっているモルワイデ図法です。面積を比較的ですが正確に表せるので、グリーンランド、ロシア、南極など、極地に近いほど面積がやたらと大きいということがなくなります。

皆伝21 メルカトル図法、モルワイデ図法 - コピー

大航海時代のころは航海に役立つように、イタリアのメルカトルが、子午線/経線と緯線/横線を直角に交差させるメルカトル図法の地図を作りました。方角が正確なので、船の進路を定めるのに役立つそうです。その代わりに極地近くの面積はかなり不正確です。
英国のグリニッジ天文台付近を通る子午線(赤い線)は別にして、他の子午線が曲がっているかまっすぐかで判断できます。

1790年代から1800年代初頭には、ロマン主義理論を樹立したシュレーゲル兄弟がいます。「文学対話」が有名ですね。弟フリードリヒ、兄オウガストウィルヘルムは雑誌への寄稿、機関誌の創刊、大学での講義などをしました。実作は低い評価だったようです。坪内逍遥が「小説神髄」で理論家として知られていますが、実作は低評価だったことを思い出しました。ノーベル経済学賞の受賞者が関わった投資会社ロングターム・キャピタル・マネジメント が倒産したこともありますし、理論と実践は違いますよね。
「ヒューペリオン」は、家庭教師を任された少年のお母さんと浮気をしたヘルダーリンが、浮気相手をモデルに書いた恋愛小説です。ヘルダーリンは、シェリングやヘーゲルと友人だったみたいです。

1810年代のロマン文学では、ノヴァーリスの「青い花」が有名です。
民族主義者のグリム兄弟はともに言語学者で、ドイツの神話、民話などを収集して「グリム童話」を編纂しました。ヘンゼルとグレーテル、ラプンツェル、シンデレラ、赤頭巾、白雪姫などは広く知られています。
この偏狭な民族主義者グリム兄弟に批判されてしまうのが、歴史法学の祖と言われるサヴィニーです。サヴィニーはナポレオン時代に活躍した人で、ローマ法を研究していたんですが、結局ローマというのはラテン人の作った異国だ、ドイツはゲルマン人だということで、二世代下のグリム兄弟に批判されたんです。視野の狭いナショナリストっていやですね。愛国心と民族と文化と政権を混同してしまっているんです。ドイツの元になったフランク王国はローマ法を基にしてサリの法典を作ったんですよ。ドイツ法にもローマ法が生きているということなんです。

音楽は、ウィーン古典派が全盛で、クラシックと言うと、この時代が典型的な気がします。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、そして、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1827年に死去したことで、古典派音楽の終焉とする学者がいます。
そうそうたる顔ぶれです。

交響学の父と言われるハイドン。宮廷に雇われているので注文に応じた作曲をするんです。だから100以上の交響曲を遺しています。
1770年代には、理性、啓蒙、調和の古典主義を打ち立てるモーツァルト
マリア・テレジアのために演奏したとき、転んだモーツァルトが置きあがるのに手を貸してくれたマリー・アントワネットに、儀礼的に求婚したことも有名なエピソードですね。モーツァルト6歳、マリア・アントーニア/マリー・アントワネット7歳の出来事でした。
戦前の日本では女の人に「かわいい」と言ったら、そのお兄さんが「そんなこと言われたらもう他の男のところには嫁にいけねえから、お前がもらってくれ」と言われたと、聞いたこともあります。なぜだか思い出しました。
これでマリー・アントワネットとモーツァルトが同時代の人だと忘れないと思います。

1810年代には古典音楽が完成します。
祖父はケルンの宮廷歌手でしたが、ドイツ人ベートーヴェンは音楽家のための宮廷はもはや存在しない時代です。だから、寡作で、9つの交響曲しか遺していないんです。自分の好きなようにじっくり作れる半面、楽譜を出版社に売るなど商売もしなければならないというのはきついですね。代表作は多くあって、交響曲第3番/英雄が有名ですね。イタリア語が原題で、シンフォニックエロイコ/英雄交響曲1804、と言うそうですが、ナポレオンを念頭に作ったということが一般に言われていますね。交響曲第5番/運命、交響曲第7番の第二楽章は初演時にアンコールされたので、第二楽章を二度演奏してから第三楽章に入ったそうです。交響曲第9番、いわゆる第九として日本の年末に歓喜の歌の部分が合唱されますね。
第一次世界大戦では日本はドイツと戦争をしました。そして1918年(大正7年)6/1に、徳島県の板東町(21世紀の鳴門市)にあったドイツ兵の捕虜収容所で、第九の日本初演がされました。
そして、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)には日本交響楽団(21世紀のNHK交響楽団)が、12月になって三日連続で第九コンサートをしたんですが、これが大絶賛、そして、年末恒例の行事となっていくんです。
この偉大なベートーヴェンがクラシック/古典音楽を完成させたと言われています。

1813年、ライプツィヒの戦でフランスが敗れて、ライン連邦は解体します。
1815年、ウィーン体制では、オーストリアが議長になって、プロイセン、バイエルンなどが参加するドイツ連邦が成立しました

1801年にはガウスが「整数論」を著しています。素数や、1640年にフェルマーがメモしたフェルマーの定理などを説明しています。門外漢にはわかりませんが、とにかくすごい本らしいんです。


□ドイツ 
フランスからは貴族がドイツ地域、オーストリアに亡命をして来ます。そして、革命をつぶそうとしてロビー活動をします。つまり、王族に圧力をかけるんです。
そして1791年、ピルニッツ宣言が出されます。プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム二世はフランス市民ではなく、フランス王を支持しました。当然ですが、フランス王妃マリー・アントワネットの兄であるオーストリアのレオポルト二世も共同で宣言をしました。介入の意図はなかったんですが、フランスでは外交の機微がわかる人間は革命の主導者にいなかったので、本当に介入して革命をつぶす気だと思われたんですね。そして、フランスでは抗戦派が主導権を握ることになってしまいました。

王と王妃はフランス内で幽閉されています。     
1792年、プロイセンの司令官ブラウンシュヴァイク公が「フランス王室に危害をくわえた場合、巴里を全滅させる」と宣言しました。国境を越えた王侯貴族VS市民戦争へ変化した瞬間です。

1806年10月14日イエナ・アウエルシュテットの戦
ロシアと同盟したうえでプロイセンはフランスに宣戦布告をして、ドイツのテューリンゲン、イエナおよびアウエルシュタットで、ナポレオン軍と戦いました。プロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世は負けました。
そして1807年7/7チルジット条約/ティルジット条約を結びます
①エルベ川の西部に、ナポレオンの弟ジェロームを王とするウェストファリア王国を建てる
②ポーランドから奪った領土にワルシャワ公国を建て、ザクセン公を領主とする
③ダンツィヒは自由都市とする。
この三つを約束します。

フィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」の講演をしたことは書きましたね。
1810年代、プロイセンでは、シュタイン首相の下で、農奴制の廃止、つまりグーツヘルシャフトの廃止がなされます。農奴の移動が自由化されます。ギルド制度の廃止もこのころです。
近代化をしないとフランスに勝てないと思ったんですね。
国際舞台で活躍するハルデンベルク首相は、解放された農奴は小作人になるしかないので、土地を払い下げます
フンボルトは、教育改革の一環で1810年にベルリン大学を開設します。
ゲルハルト・ヨハン・ダーヴィト・フォン・シャルンホルストとアウグスト・フォン・グナイゼナウは軍政改革をします。主に徴兵制の実施です。

□オーストリア
レオポルト二世は、啓蒙主義者として、支配するトスカーナ大公国でも君主と諸侯とは協力して、行政権は君主が持つけれど、立法権は臣民が持ち、君主の交代時に立法を新しくするという考えを持っていました。だから、初期にはフランス革命を好意的に観ていたんです。
けれど、1791年のピルニッツ宣言では、フランス王妃マリー・アントワネットの兄であるオーストリアのレオポルト二世はフランス王を支持しました。介入の意図はありませんでしたが、ルイ16世の弟のアルトワ伯(のちのシャルル10世)が、「威嚇で構わんから出してくれ」との要求を受けたんです。
具体的にどう宣言したかというと、
「フランス国王の現状は、ヨーロッパのすべての主権者に共通する利害に関わる問題だ。フランス国王を完全に自由にするために、オーストリア、プロイセンの国王は、すぐに必要な武力を用いて行動する」
フランスでは外交の機微がわかる人間は革命の主導者にいなかったので、本当に介入して革命をつぶす気だと思われました。この文面では仕方がない気がします。  

1803年、帝国代表者会議で、オーストリア公国はオーストリア帝国へ変わります。
始祖はフランツ一世です。神聖ローマ帝国が滅んで、皇帝の地位を失っても、皇帝を名乗れます。

オーストリアはメッテルニヒが政治を主導して、国際会議にも参加します。
ウィーン会議でオーストリア、プロイセンは権威を拡大させます。
小説ですが、「メッテルニヒ氏の仕事」(佐藤亜紀)があります。

□スイス
すでに1499年、実質的にスイスは連邦共和国化していますが、自治国の同盟体と見なされてもいたようなんです。
1815年、ウィーン会議で22州/国からなる連邦となります。永世中立国としても認められます。

□□イタリア

1768年コルシカがフランス領になって、1769年にナポレオンが生まれました。
このころ、ローマのトレヴィの泉が改修されています。

1773年、ローマ教皇はイエズス会を解散させました。近代的な集権国家の過程にある列強が、汎国家的な組織として自由な往来と布教をするのは都合が悪いということで、圧力をかけたんです。グローバル企業に国際的に課税をしようというのに似ています。ロシアだけは正教ということもあるので、ローマ教皇に従わいませんでした。エカテリーナ二世は正教なのに、カトリックのイエズス会を保護しました。ササン朝ペルシア下のネストリウス派を思い出します。

1796年になるとナポレオン軍が遠征してきます。ダヴィドが「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」という絵を描いています。
ミラノ公国を滅ぼした跡地にトランスパダーナ共和国を作ったり、チスパダーナ共和国を作ります。
1797年にオーストリア軍、サルディニア王国軍を破り第一次対仏大同盟は崩壊します。
トランスパダーナ共和国 、チスパダーナ共和国を統合して、チザルピーナ共和国など複数の国を作ります。ローマ教皇領も併合されました。その後、教皇領は復活します。
サンマリノ共和国はティターノ山を中心とした国で、21世紀には周囲をすべてイタリアに囲まれています。二人いる元首は無給で、任期は半年という独裁を避ける政治体制です。こうした自由を重んじるところにナポレオンは惹かれたと言われています。そうでなくても山の上にある小さな国で、戦争をして征服しても何も得るところはないので、あえて攻めなかったとも考えられます。ナポレオンは領土の提供も申し入れましたが、サンマリノ共和国は断りました。

第一次対仏大同盟に不参加で中立だったヴェネツィア共和国にもナポレオン軍は攻め入りました。フランス、オーストリアが結んだカンポ・フォルミオの和約でヴェネツィア共和国は滅ぼされると決まりました。そして、オーストリアがヴェネト県として支配することになります。ひどいですね。
ナポリ王国のブルボン朝政府は第二次対仏大同盟に参加したんですが、ナポレオン軍に攻められてシチリアに亡命しました。そして1799年、ナポリ王国に代わってフランスはパルテノペア(パルテノンの意味かな)共和国を建てました。

1802年、チザルピーナ共和国はナポレオンを大統領としてイタリア共和国(1802年-1805年)とされます。 
1805年の三帝会戦/アウステルリッツの戦が終わると、プレスブルクの和約で、ヴェネツィア市を含むヴェネト県はオーストリアからフランス領へ移ります。
前年にナポレオンがフランス皇帝に就任したことに伴って、ナポレオン大統領のイタリア共和国も再編されてイタリア王国Regno d'Italia(1805年-1814年)になります。半島の中東部と北部が領域で、ミラノが首都です。ナポレオンが国王に就任します。

1806年、ナポレオンによる征服でナポリ王国(‐1815年)は、「両シチリア王」を名乗りますが、実際はシチリア島ではスペイン系のブルボン家の支配が続きました。
ナポレオンの兄ジョゼフがナポリ王、ジュゼッペ1世となります。ナポレオンの弟のルイはオランダ王位に就いています。ジョゼフは1808年にスペイン王位に就きます。1808年にはナポレオンの義弟ジョアシャン・ミュラがナポリ王ジョアッキーノ1世となります。ミュラはイタリア語ではムラトとなります。何だかオスマン帝国の感じがあります。

フランスは再びローマ教皇領を併合します。フランス革命中に教会財産の没収などがありましたが、それでもピウス七世がナポレオンと交渉した結果、コンコルダード/合意によって、叙任権などの維持は確認されました。1804年にはナポレオンの戴冠式にも出席したのに、教皇領を失って、教皇ピウス七世は幽閉されてしまいます。
1814年からのウィーン会議で、教皇領は復活します。サルディニア王国領は拡大します。スペイン領シチリア王国はブルボン朝の両シチリア王国へと変わります。ヴェネツィア、ロンバルディア地方はオーストリア領へ移ります
1814年、教皇ピウス七世はイエズス会の復興を許可しました。ウィーン会議の復古主義と関係あるかもしれませんが、自分の領地が消滅して人の痛みが分かったのかな。

科学の分野では、1790年代にボルタがボルタ電池を発明しています。10ボルトというときのボルト、単位の由来ですね。
1800年代、アボガドロが分子説を主張しています。原子と分子を区別したうえで、酸素原子同士がくっつくこともあり得ると考えました。それまでは同じ種類の原子はくっつかないと思われていたんです。かなり化学を事実に近づけました。

□□北欧

ナポレオンの要求する大陸封鎖令に従う見返りに、ロシアのアレクサンドル一世はフィンランドの獲得を要求しました。ナポレオンがこれを受け入れたので1807年にティルジット条約が結ばれます。そして、1808年にロシアがスウェーデンに侵攻すると、スウェーデン領土のフィンランドはロシア領土へ移りました。1809年フィンランドは大公国とされます。アレクサンドル一世が大公です。自治が認められるので、内政はフィンランド人が行いました。
その後、フィンランドは併合されて、自治権も消滅します。

ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドットは、フランスで平民の子として生まれ育ちました。17歳のときに父親が亡くなったので、生活費のために軍隊に入りました。軍隊で昇進して、元帥にまでなります。
このころ、スウェーデンで王家の血筋が絶えそうになりました。スウェーデン王家と議会では、ベルナドット元帥がプロテスタントへ改宗するならば、王として迎えようと決めます。
以前、戦いの後、スウェーデン人の捕虜に対して寛大だったこと、ロシアに奪われたフィンランドを取り戻すために、ナポレオンの力を借りたいという側面もありました。
ナポレオンはスウェーデンが味方になることを期待して、この話を受けます。因みにコルシカ島から大陸に移住したときに面倒を見てくれたクラリー家のジュリーはナポレオンの兄ジョゼフの妻になっています。デジレもナポレオンと婚約をしていたんですが、一方的に婚約を破棄されています。この人はベルナドットの妻になりました。そういう縁があるので、ナポレオンはベルナドットに報いたいとも思っていたようですね。
ベルナドットはプロテスタントに改宗すると、カール・ヨハンと名乗ります。そして、スウェーデン国王の養子になって、摂政として政治と軍事を担当します。
結局、スウェーデンはフランスと同盟を結ばなかったし、ライプツィヒの戦では、連合軍を率いてナポレオンを破り、退位に追い込むことになります。
未来の話ですが、1818年に国王が亡くなると、ベルナドットはカール14世ヨハンとして王位に就きます。1815年のウィーン会議では、スウェーデンがデンマーク下のノルウェイを併合すると決まったので、ノルウエーの王位も兼ねました。ベルナドットとデジレの子オスカルは、後にスウェーデン国王になります。このオスカルの妻は、ナポレオンの養子ウジェーヌの子ジョゼフィーヌです。
錯綜していますね。
このベルナドット朝/ベルナドッテ朝は21世紀にも存続しています。

□□東欧(エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ)

1764年-1795年、ポーランド・リトアニア王位は親ロシアのスタニスワフ・ポニャノフスキーで、ロシアのエカテリーナ二世の愛人だったこともあるし、子もいたそうです。
この時期にはポーランド・リトアニアが支配するウクライナ西部の農民、コサックの決起が相次ぎます。
1772年、ポーランド・リトアニア、及び支配地のウクライナ西部は周辺国に分割されてしまいます。 
いわゆる第一次ポーランド分割という出来事で、ロシアの進出を受けて、プロイセン、オーストリアも一部を併合しました。ロシアはラトガレを編入しました。ロシアと同盟しているオーストリアはプロイセンを警戒しているので、この二か国と協調行動をとることで宥和する意図があったようです。
1773年にはポーランドで国民教育委員会が発足しています。
ポーランド人意識を高めて、残った領土を守ろうということなんでしょうか。

1774年、露土戦争/ロシア・オスマン帝国戦争の結果、キュチュクカイナルジ条約/クチュクカイナルジ条約が結ばれます。クリム・ハン国/クリミア・ハン国がオスマン帝国から独立することが承認されました。これは将来的にロシアがクリミア・ハン国を取るつもりがあるので、切り離しておこうという考えの現れです。黒海北岸の支配は、こうしてオスマン帝国からロシア帝国へと変わります。
1775年、ポーランドでは常設評議会が設置されます。
民主主義を進めていますね。
1783年、出ました。ロシアがクリミア・ハン国を併合しました。
さらに1787年から再び露土戦争を開始しています。1792年まで続きます。
1791年には、ポーランド・リトアニアは五月三日憲法を可決しています。
絶対王政からの脱却です。立憲王政になっていきます。
翌年の1792年にはポーランド・ロシア戦争があって、
1793年には、第二次ポーランド分割がなされます。これはロシアとプロイセンが実施したんですが、オーストリアはフランス革命軍との戦で手いっぱいでした。それを好機と捉えて二カ国で分割したんです。
1794年からは、アメリカ独立革命にも参加したコシューシコがロシア、プロイセンに抵抗するんですが、抑え込まれてしまって、ポーランドは小国化します。
ロシアは、黒海北岸にオデッサ市を建設します。これからここを拠点に黒海、そしてボスフォラス海峡を越えて、地中海へと出ていくつもりなんです。小麦の輸出もします。
1795年10/24、第三次ポーランド分割
ロシアとプロイセン、オーストリアが、残るポーランド・リトアニア領を支配して、ポーランド王国もリトアニア王国も滅んでしまいます。
支配されていても、ポーランド人の民族意識は消えません。1800年にはワルシャワ学術愛好協会が設立されています。
ウクライナ、リトアニア地域はロシアに編入されていますが、アレクサンドル一世はヴィルノ教育管区を設立したり、ヴィルノ帝国大学を創設したりと、ロシア風の教育を計画しています。
ナポレオンが侵攻してくると、1807年7/22、旧ポーランドにワルシャワ公国憲法が制定、公布されて、ワルソー/ワルシャワ公国が建国されます。そして、ライン同盟/ライン連邦に加入します
その後、ポーランド人のワルシャワ公国はオーストリア軍と戦して、領土を拡大しますし、ナポレオンのロシア遠征軍にも参加しています。
ただ、ナポレオン亡き後の1815年ウィーン会議では、コシューシコも参加したんですが、ワルシャワ公国は消えてしまいます。
ポーランド立憲王国が成立しますが、ロシア帝アレクサンドル一世が王を兼ねるんです。アレクサンドル一世はポーランド王国憲法を制定して、形式上は立憲王政としています。
ほかに旧ポーランド領にはポズナン大公国、クラクフ共和国も建てられます。
ポズナン大公国はプロイセン王が大公になっている国で、1848年のドイツ三月革命で消滅します。 

□□ロマノフ朝ロシア

 
ロマノフ朝では夫のピョートル三世を退位させたエカテリーナ二世(1762年-1796年)の治世です。啓蒙君主として、ヴォルテールと交流したり、シベリア、清、太平洋へのさらなる進出を目指して、日本語学校を建てるなどしています。
ベルヌーイ/ロピタルの定理で有名なベルヌーイに見いだされたスイス人の数学者オイラーは、晩年をエカテリーナ二世の支援を受けて過ごしたそうです。オイラーの公式、オイラーの定理などたくさんの名前を遺しています。

1773年、コサックがプガチョフの乱を起こしますが、エカテリーナ二世はこれを抑え込むと、農奴制を強化しました。西欧では決起すると待遇が改善されるんですが、前時代の価値観が残る東欧、ロシアでは却って悪化するんです。プーシキンが「大尉の娘」で小説としてプガチョフの乱を書いています。

1768年、第一次露土戦争/第一次トルコ戦争が始まって、1774年のキュチュクカイナルジ条約で、クリム・ハン国の独立を承認させて、黒海北岸を獲得しました。
1783年には、カフカス地方(ロシア語、グルジア語、アゼルバイジャン語、アルメニア語)/コーカサス(英語)のグルジアと、クリム・ハン国も併合しています。
黒海北岸を奪取したので、セヴァストポリに軍港を作って、黒海の覇権を握ります。オデッサ港を作って、小麦を輸出します。

1789年からの第二次露土戦争では、1792年のヤッシー条約で、ロシアは勝手に併合していたクリム・ハン国、オデッサの併合をオスマン帝国に承認させます
モンゴルのバトゥ遠征以来タタールのくびきがありましたが、ロシア人を支配していたキプチャク・ハン国を継いで黒海北岸を支配したのはクリム・ハン国でした。だからロシアがクリミアを併合することは、仇を取ったことになるんです。

ロシアはアラスカまで進出していますが、毛皮を中国との貿易のためにキャフタへ運ぶのは困難です。内陸ですからね。そこで広州か日本へ使節を派遣使用と考えていたところへ、漂流していたところを救われて、ロシアにいた大黒屋光太夫がやって来ます。エカテリーナ二世は大黒屋光太夫と面会して、帰国を許可します。日本はヨーロッパの中ではオランダとだけ交流していることを知っているので、貿易の交渉をするためには、漂流民を連れてきてあげたという口実がある方が都合がいいし、無下に追い払われないだろうという目算があったんです。そして、ラクスマンが大黒屋光太夫を伴って、日本に行きました。大黒屋光太夫はその後、日本で余生を過ごしますが、日本国は長崎でしかヨーロッパ諸国との交渉はしないと言って、追い払われてしまいました。そんなことを言われても、長崎なんてどうやって行ったらいいかわからないし、準備もできていないので、ラクスマンはロシアに戻りました。

アレクサンドル一世(1801年-1825年)
フランスに負けて1807年7/4にチルジット条約/ティルジット条約を結ぶと大陸封鎖令に従う代わりに、スウェーデンからフィンランドを獲得して、大公国としたうえで皇帝が大公になります。自治は認めています
負けたロシアですが、ポーランドから奪った領土は維持できたし、失ったものはありません。
大陸封鎖で穀物を輸出できずに不満を持ったアレクサンドル一世は、結局英国と密貿易をはじめますしね。これが露見して、1812年フランス軍のロシア遠征を生むんです。ナポレオンと、その傀儡(かいらい)/操り人形となったプロイセン、オーストリア軍が侵入してきます。一時、モスクワを占拠されたんですが、クツーゾフ将軍の焦土作戦と、意外に早い冬の到来でナポレオン軍は撤退します。
トルストイが「戦争と平和」(1869年)という小説で、このことを書いています。チャイコフスキーの「祝典序曲/大序曲1812年」(1880年)は、ロシアにとっての勝利を祝って作曲したものです。
 
その後、ロシアはフィンランドを併合して、自治権を取り消しました。
1812年、オスマン帝国からベッサラビアを獲得します。

ウィーン会議には、ドイツ系プロテスタントの外交官ネッセルローデが全権代表団の主席として参加しますが、アレクサンドル一世がほとんど実際に交渉していたようです。そして、王制、帝制の維持を主張して、キリスト教精神で融和をすることによって平和を維持しようと神聖同盟の設立を決定しました。不参加の国が出題されますが、英国、オスマン帝国、ローマ教皇は参加していません。


後部

□□オスマン帝国

 
エカテリーナ二世のロシアと1768年-1774年に戦争をします。エジプトは太守のアリ・ベイが独立しようとしてロシア側に付くことも表明しています。オスマン帝国はエジプト独立を阻止しますが、この[第一次ロシアトルコ戦争/第一次露土戦争/ロシア側の呼称は第一次トルコ戦争]に負けて、キチュクカイナルジ条約/クチュクカイナルジ条約でクリム・ハン国の保護権を譲渡します。オスマン帝国からの独立を承認したと表現する学者もいます。そしてロシアがクリミア半島に進出してきます。オスマン帝国はクリミア=タタール人(バトゥ進軍時、一緒にやって来たアジアの人たち)から保護してほしいという要請を受けて、ロシアにクリミア半島と黒海北岸の軍隊の撤退を要求しました。オーストリアが支持するロシア、イギリスとスウェーデンが支持するオスマン帝国が再び戦をします。1787年-1792年、第二次ロシアトルコ戦争をします。戦争中の1789年、セリム三世が第28代のスルタンとして即位していますが、1792年のヤッシー条約でクリム・ハン国、オデッサを含むクリミア半島をオスマン帝国は完全に放棄しました。地図の黒海北岸にある黄色いところです。 ロシアがクリム・ハン国、オデッサを併合することを承認したんです。21世紀にもロシアがウクライナからクリミア半島を武力で奪う事件がありましたね。

皆伝21 オスマン帝国からの独立 - コピー

セリム三世の即位はフランス革命の同年なので、ナポレオン率いるフランス軍がエジプトに来ていることもわかると思います。フランスからエジプトを守りたいと思ったのかもしれませんが、オスマン帝国は第二次対仏大同盟(1798年-1802年)にも参加しています。そこで1799年になるとオスマン帝国がムハンマド=アリーを派遣して、エジプトを再領土化します。1805年にムハンマド=アリーは現地の人からエジプト総督/ワーリー、そして太守/アーヤーンとして認められます。実質的なムハンマド=アリー朝の成立です。在位は1805年-1849年です。
1806年になると、セリム三世は、ムハンマド=アリーをエジプト総督/ワーリー、そして太守/アーヤーンとして正式に認めました。属国ではあります。1811年のことだと言う学者もいます。
1700年代の後期からは北アフリカでチュニジアのアリ王朝、リビア、アルジェリアもオスマン帝国から自立していきます。実質的な独立国家です。オスマン帝国の衰退と言えます。

内政では、イエニチェリが旧式の装備、特権や軍事力を利用した政治介入などで、スルタンにも帝国にとっても危険な集団になっていました。そこで、軍隊の近代化のために西洋式軍隊のニザーム=ジェディットを創設します。「新たな秩序」の意味で、軍服、軍規、武器などを西洋化/近代化すること、イェニチェリ解体を目的としていました。イェニチェリのようなキリスト教の捕虜といった特殊性もなく。平民から成ります。ただ、イエニチェリの抵抗にあい、セリム三世は1807年に廃位されてしまいます。
経済的にも、北米からの安価な綿が入ってくるようになって、アナトリアの綿は衰退します。さらに、カリブ海から安価なコーヒーが入って、アラビアコーヒーが衰退します。

1810年代ころから、オスマン帝国はヨーロッパから「瀕死の病人」と言われるようになりました。
この頃からオスマン帝国内で流通を担っていたギリシア人、アルメニア人など、キリスト教勢力が台頭してきます。
1814年、黒海北岸のロシア領のオデッサで3人のギリシャ人商人が、ギリシア人秘密結社の 「ヘタイリア・フィリケ/フィリキ・エテリアPhilik Etairea/エタイリアフィリケ」を設立します。友愛会/友愛結社の意味です。ギリシア人という民族意識を高めて、キリスト教徒の解放、ギリシア人の独立を目指す組織です。ナポレオンに刺激を受けて、自由を求めたことと、オスマン帝国はもう強くないと思ったんでしょうね。
次の時代ですが、1820年にロシア軍のギリシア人将校イプシランティ/イプシランディスが指導者となって、1821年にギリシャ独立戦争の契機となる武装蜂起を行います。


□□中東

1744年アラビア半島に第一次サウード王国/第一次ワッハーブ王国が建てられています。アラブ人豪族のサウード家とワッハーブ派が結んだ国です。ワッハーブ派はスンニ派の原理主義で、聖者崇拝も認めません。1802年、紅海沿いのヒジャーズ地方に進出して、メッカ(マッカ)、メディナ(マディナ)を支配下に入れました。メッカではたくさんの廟を破壊したので、スンナ派の各宗派、シーア派とも敵対します。この両聖地の守護者を称していたオスマン帝国は奪回を計画します。
マフムト二世はエジプトのムハンマド・アリーに命じて、メッカを奪回させます。先の話ですが、第一次サウード王国/第一次ワッハーブ王国は1818年にムハンマド=アリー朝に滅ぼされます。

□エジプト
既に1517年、オスマン帝国のエジプト征服でマムルーク朝は滅んでいますが、エジプト支配はマムルークに委託していたんです。オスマン帝国へ貢献金を払い続ける半自立、属州のような状態です。1769年、第一次露土戦争に乗じて、オスマンの太守(アーヤーン)にしてマムルークのアリ・ベイがエジプトの独立を計画しますが失敗。
1798年、フランス軍のナポレオンが英国とインドの間を遮断するためにエジプト遠征をしますが、1799年、オスマン帝国がエジプトを再領土化します。1801年、オスマン帝国が残っていたフランス軍を追い払うために派遣したアルバニア人傭兵部隊の副隊長としてムハンマド・アリーはエジプトに入ります。アルバニア人ではないと言われますが、アラブ人なのかと言うと不明です。
1805年、ムハンマド・アリー(トルコ語ではメフメト=アリー)がエジプト太守(アーヤーン)になります。この時点で、トルコの属国として建国と考える学者は、ムハンマド=アリー朝の建国とします。在位は1805年–1849年です。市民の支持を背景にしたエジプト総督(ワーリー)に勝手に就任して、パシャ(文武高官の称号)とも称されます。オスマン帝国はこれを認めていませんでしたが、1806年オスマン帝国のスルタンのセリム三世が正式に認めます。
1811年-1812年、ムハンマド・アリーはマムルークを排除して、支配権を確立します。
1813年、オスマン帝国の依頼で、第一次サウード王国の支配するメッカ、メディナもエジプトが支配します。この過程でマムルークを排除したと言う学者もいます。入試ではこちらの学説で出題されたことがあります。

エジプト史まとめ 
メネスが建国-リビア人ファラオ-クシュ王国人のブラックファラオ時代-ギリシア人のプトレマイオス朝時代-ローマ帝国-正統カリフ時代-ウマイヤ朝-トゥールーン朝-アッバース朝-ファーティマ朝-クルド人のアイユーブ朝(サラディン)-トルコ人のマムルーク朝-ムハンマド・アリー朝 

次の時代には、トルコと戦をして、1841年エジプト・スーダンの総督の地位の世襲化を国際的に認められたので、形式的にもムハンマド=アリー朝エジプト王国(-1952年)の建国と言えます。以降は、英国が支援しているので、実質的にはトルコと英国の両属国です。
スエズ運河の建設をフランス人レセップスと組んで開始して、1869年に完成させます。財政が悪化して、外国に債券を売っていましたが、1876年に財政破綻して、イギリス・フランスの管理下に置かれます。1881年ウラービー・パシャのアレクサンドリア暴動を英軍が鎮圧して、1882年スエズ運河地帯に英軍が駐留します。トルコの保護下も継続しています。1914年、大戦がはじまると、イギリスは正式にエジプトを保護国とすることをオスマン帝国に通告します。
1922年、エジプト王国が独立します。
1952年にナセル、ナギブなどの青年将校によるエジプト革命でムハンマド=アリー朝エジプト王国は滅んで、1953年にエジプト共和国が成立します。1970年-1981年はサダト独裁、その後はムバラク大統領の独裁。2011年、アラブの春でムバラク独裁は崩壊しますが、軍事独裁になります。

□□ペルシア

分裂しています。
1796年、アーガー・ムハンマドがカージャール朝を建てるとイランを統一します。都はテヘランでう。

□□中央アジア

1760年代、西部のホラズムにヒヴァ・ハン国、真ん中のソグディアナにボハラ・ハン国、東部のフェルガナ盆地にコーカンド・ハン国があります。字数の少ない順に西から並んでいます。
1780年代になると、コーカンド・ハン国は清の属国化します。

□□インド

1649年、ヴィジャヤナガル朝が滅びたので、有力者だったウォディヤール家のナラサー・ラージャ1世がインドの南部、21世紀のカルターナカ州マイソールで分離独立して、ウォディヤール朝マイソール王国を建てていました。ムガル帝国の支援もありました。
1760年代、ムスリム軍人のハイダル=アリーと、子のティプー・スルタンが実権を握ると、王は傀儡となります。ただ、ハイダル=アリーの下で農業奨励と、産業の近代化が進められたので、国力は上がります。
 
マイソール王国が勢力を拡張していることに対して、マイソール王国の宗主国を自認するマラーター同盟と、北に隣接するハイデラバード王国は、イギリス東インド会社軍と結んで三方から攻撃を加えてきます、これが第一次マイソール戦争(1767年-1769年)です。ハイダル=アリーは、マラーター同盟、ハイデラバード王国には領土の割譲や人質を出すなどの妥協をすることで講和をします。そしてイギリスだけを攻撃します。マイソール王国軍のマドラス攻撃を受けてイギリスも妥協します。1769年、捕虜交換と攻守同盟を結んで講和しました。

第二次マイソール戦争(1780年-1784年)はマイソール王国のハイダル=アリーと、子のティプー・スルタンの軍がイギリスに対して優位でした。
第三次マイソール戦争(1789年/1790年-1792年)では、マイソール王国は諸勢力との団結に失敗します。そして第四次マイソール戦争(1798年-1799年)で、ティプー・スルターンがシュリー ランガパトナで死亡して、マイソール戦争は終結しました。
英国東インド会社のインド支配は、入試ではインドの南部で4回の戦が行われたなど、場所と回数がヒントとして出題されます。

1764年、インドのブクサールでイギリス東インド会社軍がムガル帝国、アワド太守、前ベンガル太守の連合軍を破ります。ムガル皇帝はイギリス東インド会社から年金を受け取る傀儡政権になって、イギリス東インド会社は1765年にはムガル皇帝からビハール地方、オリッサ地方、ベンガル地方のディワーニー=徴税権などの権利を得ました
ある意味ではジャーギール制に組み込まれたとも言えますが、実質はイギリス東インド会社の地方政府ができたんです。
イギリス東インド会社軍と争う勢力は、直轄支配の州になって、協力した王国は藩王国として存続することを許可されます。

1774年、イギリス東インド会社のヘースチングス/へースティングス/ヘースティングズが初代ベンガル総督になります。インド中部でマラーター同盟とのマラーター戦争を起こします。

イギリス東インド会社が商社から統治機構に変わっていきます。地方政権の藩王から徴税権などを奪ったり、ビハール、ベンガルではイギリス東インド会社が塩の専売を行います。塩は欠かせませんから、インド人も買うほかありません。その利益がイギリス東インド会社に入るというのは納得できないでしょうね。

1793年、ベンガル管区で、地主(ザミンダール)に徴税を委託するザミンダーリー制(徴税請負人制)を開始します。ザミーンが土地、ダールが所有者の意味です。
このころ、インド全体の総督として、チャールズ・コーンウォリスが赴任しています。

1804年、イギリス東インド会社がムガール帝国を保護国にします。企業の保護国というのは変な感じがしますね。もちろん、英国政府の許可があってこそなんですが、商業の枠を超えて、国家の枠も超えているので、グローバル企業と言えます。  
1805年、イギリス東インド会社がマラーター同盟を保護下に置いて、インド中部を支配します。
1806年、イギリス東インド会社はマドラス管区からライヤットワーリー制を開始します。この税制では領主や徴税請負人(ザミンダーリー)をいっさい介在させず、個々の農民(ライヤット)から直接租税を徴収します。各地に拡大させる制度ですが、ベンガルはザミンダーリー制を維持します。
1813年、英国政府はイギリス東インド会社のインド貿易独占権を廃止します。産業革命で伸長した商人が自由貿易を求めたからですね。「我々にもインドに機械式の安い綿布を売る権利がある」と主張したんです。イギリス東インド会社の貿易独占は中国に対するものだけが残されます。これも20年後の1833年に廃止されますけどね。

1814年ネパール戦争を起こしたイギリス東インド会社は、1816年にゴルカ朝ネパール王国を支配します。以後、ゴルカ兵/グルカ兵と言われるネパール兵が英国兵として参加します。                              

1796年、ナポレオン戦争中でどうにもできないフランス支配下のオランダから、英国がセイロンを奪っていますが、1815年、ウィーン会議で正式にセイロンが英国領になります。 1814年の英蘭パリ協定でもアフリカのケープを英国は奪っています。

□□東南アジア

□ビルマ
1767年、コンバウン/アラウンパヤ朝が「世界の支配者」を自称して、タイのアユタヤ朝を滅ぼします。抵抗を続けているタークシンなどの勢力もいました。
西部のラカイン地方には1430年からムラウー朝アラカン王国があります。仏教国ですが、ムスリムの高官もいました。1785年、コンバウン朝がムラウー朝を滅ぼします。ラカインにいたムスリムや仏教徒はインドのベンガルへ避難します。このムスリムはのち/20世紀中ごろにロヒンギャと名乗るグループなのではないかと言われています。
1790年、コンバウン朝は清の属国になります。実質的に支配されるわけではないので、朝貢貿易をしたいから受け入れたんだと思います。

□タイ
1767年、ビルマのコンバウン朝が、数次にわたる攻撃でアユタヤ朝を滅ぼすと、抵抗を続けたタークシンがトンブリ朝を建てて、タイ文化を守ります。ただ、横暴な政治だったので、1782年、チャクリ将軍がクーデタでトンブリ朝を滅ぼしました。
チャクリはラタナコーシン/チャクリ朝を建国して、ラーマ一世を名乗ります。21世紀にも続く王朝ですね。チャオプラヤ川左岸のバンコクに都するので、バンコク朝と言われたりもします。米の貿易を独占したので王室は潤ったようですが、やはり、清の属国になることを選んでします。

□インドネシア

皆伝21 東南アジア - コピー

東という意味のティモール島はポルトガルが支配しています。
スラヴェシ島、スマトラ島、ボルネオ島/カリマンタン島などには土着の勢力が国を作っています。
ジャワ島はオランダの支配が拡大しつつあります。
オランダ本国がフランスに占領されたので、反総督制度を掲げる民主派の人たちがバタビヤ共和国(1795年-1806年)を名乗っていますが、フランスの傀儡と言えます。
1799年、総督から特許を得ていたオランダ東インド会社は解散となりました。インドネシアのバタヴィヤ(ジャカルタ)の商人は、中立国の米国船を利用して、長崎と貿易をしたそうなんですが、オランダ国旗を掲げれば、アメリカ船籍でも長崎に寄港できるということですね。
ナポレオン戦争が終わると、会社任せにせずに、オランダ王室が植民地化を主導します。

1815年4/10、スンバワ島のタンボラ火山が噴火します。1200km離れたバタヴィヤでも聞こえたようですし、1800km離れた場所でも爆発した音が聞こえたと言われていて、25km先の村が火砕流で埋まったり、火山灰などで周辺は日中も暗くなったようです。津波も含めて直後の死者は1万人、耕地も消えたので餓死、疫病死者で、10万人くらいが亡くなったそうです。
21世紀にも直径約7キロ、深さ約1200メートルのカルデラが残っています。標高は4000mあったものが、いまでは2850mになってしまいました。
噴出物が多かったので、ヨーロッパにもかなりのガスが流れたようで、日光を遮って冷夏、多雨になりました。
ワーテルローの戦では、ナポレオンが英国軍を討とうとしていましたが、ふだんなら降らないはずの時期に豪雨で道が泥になったために馬の騎兵、車輪を擁する砲兵は移動できないので、ナポレオンは戦闘の開始を遅らせました。そのことで、プロイセン軍の援軍が戦場に到着する時間を与えてしまい、結果的に敗戦につながるんです。もちろん、ナポレオンやネイ将軍のミスなどもありますが、自然環境、異常気象も歴史に影響を与えています。

□マレーシア
英国が中国との貿易をしたいので、インドの拠点から中国に向かう寄港地として
1786年、ケダー王国/クダ・スルタン国から得たマレー半島のペナン、1795年マラッカ、1819年にはシンガポールを植民地化します。のちのマレーシアの元です。

□ヴェトナム
1773年、西山(たいそん)党の乱
阮文岳ら阮3兄弟が、ユエ/富春に都する阮氏の広南国を滅ぼします。王族の阮福映は逃亡しました。介入してきた清を西山(たいそん)党は撃退すると、ハノイに都する鄭氏の後黎朝大越国も滅ぼします。そして、1789年、北部、中部ヴェトナムを統一すると、西山朝大越国を名乗ります。
都はクイニョン/歸仁に置きました。
1802年、フエ出身の阮福映はフランス人宣教師ピニョーや、ラタナコーシン朝のラーマ一世から支援を受けて西山朝と戦します。ピニョーはフランスとの同盟を結ばせることに成功しますが、遠征は実現せず、ピニョーは義勇兵のフランス人と共に参戦しましたが、病死しています。

1802年に阮福映は西山朝大越国を滅ぼすと、ベトナム国/越南国を建国して、コーチシナ/ヴェトナム南部も統一します。支配領域は21世紀のベトナム社会主義共和国の領土とほぼ同じです。都は出身地のフエ(順化という漢字に変わるようです。)において、自らは嘉隆帝を称します。
紅河デルタをはじめとする北ベトナムは北城総鎮、クアンビンからビントゥアンにかけての中部地域は直隷(皇帝のおひざ元という意味です)、サイゴンを中心とする南部のメコン・デルタ地域は嘉定総鎮とそれぞれ呼びました。直隷はフエの政府によって直接支配されますが、北城総鎮と嘉定総鎮には大幅な自治が認められています。
阮福暎は清に冊封と「南越」という国号の承認を求めたんですが、「南越」は前漢の武帝に滅ぼされた南越国と同じ名前なので却下されて、「南」と「越」をひっくり返した「越南」とされます。
1804年、清の属国になると「越南国王」の称号を得ます。越南が冊封を求めたのは、安全保障、国王としての正当性の確保、朝貢が理由です。ただ、清の商人が越南に入ることはできますが、越南の商人は清に入れませんでした。
清に服属していますが、独自の元号(嘉隆元年)を使っています。ベトナムでも小中華意識はありますからね。清への外交文書では越南国王を名乗って、国内では皇帝を称します。カンボジアを属国として扱ってもいます。

内政では、六部を設置して、皇帝の下で尚書が内閣を担当します。大清律令の模倣もします。

□フィリピン
マニラはスペインが独占しているので、他国は寄港できません。スペイン人はフィリピン人をキリスト教へ強制改宗させます。南部のミンダナオ島に多いムスリムは弾圧されて抵抗します。このモロ戦争は19世紀末まで続きます。スペイン人がイベリア半島のムスリムをムーア人と呼んだので、ムーア人がモーア人、モーロ人に変化したようです。

□□中国/清

1735年-1796年は、高宗乾隆帝の治世です。
乾隆帝の勅命によって1787年‐1794年ころに成立したのが
「五体清文鑑」です。満州語、モンゴル語、漢語、チベット語、ウイグル語の対照語辞典で、清文鑑という別名もあります。この時期には耕地の拡大があったり、稲の品種改良で穀物の生産が増えているし、平和で安定していたので、戦死、病死する人も少ないし、人口は二億人いますし、直轄地の他に藩部などもあるので意思疎通は大変だったでしょうね。

1773年、ヴェトナムで西山(たいそん)党の乱があって広南国、黎朝が滅ぼされたので、介入した清が撃退されたことはもう書きました。北部、中部を統一した西山党は、清の属国になります。
同じころ、チャクリ将軍/ラーマ一世がクーデタでトンブリ朝を滅ぼすと、ラタナコーシン/チャクリ朝を建国して、清の属国になっています。
清は冊封体制を取って、貿易は公式な朝貢貿易を基本としています。
その朝貢貿易はあくまで恩恵であって、清王朝が欲しいものがあるからしているのではないという姿勢です。だから、貿易港も広州だけで、事務も民間の商人ギルドである13ある公行(こうほん/こほん/こうこう)に委託しています。
東インド会社の独占も崩れていって、自由貿易に移行しようとしている英国では、清も自由貿易をするべきだと考えます。清からの紅茶の輸入が増えて、英国は銀であんまり払いたくないんですが、かといって代わりに売るものもないんですよね。貿易港を増やしてほしい、関税を下げてほしいなどの清朝との直接の交渉もできませんしね。それで、1792年に英国が派遣したマカートニーは、1793年に清に着きました。マカートニーは皇帝に拝謁する時に必要な三跪九叩頭の儀礼を拒否します。
三々九度のように、土下座をして一回お辞儀をする間に、3回頭を床につける、この動きを3回繰り返します。9回頭を床につけるんです。西洋人にとっては、これはかなりの屈辱だったんでしょう。
それで、乾隆帝の前でひざを折って、手にキスすることで折り合ったので、謁見はできました。けれど、公行(こうほん/こほん/こうこう)打破して自由貿易をしたいという開国要求は斥(しりぞけ)けられました
1757年に海禁もしていますし、公行に委託するという方針を維持したんです。あくまで朝貢貿易は清からの恩恵なんです。自由で対等なんてありえないと思っているんですね。
マカートニーの日記「中国訪問使節日記」(東洋文庫)が遺っています。
アイルランド生まれのスコットランド人であるジョージMacartney 。イングランドのマンチェスター生まれであるビートルズのマッカートニーはPaul McCartneyでスペルが異なります。だから、マッカトニーではなくって、マカートニーなんです。
マカートニーの後は、アマーストが同じ使命を帯びてやってきて失敗します。「マカートニーは任せた後のアマースト」と憶えればいいと先生は言っていました。

1796年-1820年は、嘉慶帝の治世です。
1807年にプロテスタントのロバート=モリソンが来て、広州、マカオで布教をします。中国語を話して、辮髪にして、中国服、中国靴を身につけて、箸で食事をするなど中国文化に溶け込む努力をしたそうです。初の英中辞典「英華字典」を編纂したり、「旧約聖書」と「新約聖書」を翻訳して「神天聖書」としてマラッカで出版したりもしています。

このころは、もう清朝に力はないと露見していて、反政府活動が増えるんです。
会党と言われる秘密結社が各地で作られています。天地会、青幇(チンパン)の他には、"反清復明"をスローガンにして、1911年の辛亥革命にも参加した哥老(かろう)会が有名な会党です。

1796年~1804年/1806年、白蓮教徒の乱が起こります。白蓮教は東晋の慧遠が創始したんですが、南宋の時代に、弥勒菩薩が下生/下界に来て、民を救済するという信仰へ変質しています。元代の末に起きた紅巾の乱も白蓮教徒が主導したんでしたね。
結局、この白蓮教徒の乱を、正規兵の八旗兵は形骸化して鎮圧できなかったので、自警団の団練や、団練から募集/選抜された郷勇が鎮圧しました。
団練は唐の時代には地方にあったようですが、清代に活発化します。地方の有力者/郷紳が盗賊等から郷・鎮を自衛するために組織した私兵組織です。主に農村の成人男子を徴集、または募集して、地元民から調達した経費で維持をしていました。内乱があったときには政府軍を補助しました。
団練を元に、地方の官吏や有力者が義勇兵を選抜したものが郷勇で、政府が武器、食糧を与えているし、出身地域を越えて出征するので準正規軍と言えます。

嘉慶海寇の乱という海賊が荒らしまわる事件もありました。
同じころに福建人の蔡牽が率いた艇盗の乱も起こっています。

1813年には天理教徒の乱が起こって、紫禁城に乱入するということもありました。
この時期には人口が三億人になっていますが、地主が増税に反対する抗糧という運動も盛んに起こっていました。
清朝は内乱が増加したので、戦費が増えます。それを補うために増税するから、こうなるんです。といって、増税をしないと兵力を維持できません。郷勇にも支払いをしますからね。
人口が増えたことで、耕地を拡大するんですが、それはまだ開拓されていない土地、少数民族の暮らす土地なんです。だから民族間の争いも増えるんです。

□□朝鮮半島 

清朝も朝鮮も日本国も基本的にはキリスト教を禁止して、西欧との貿易は制限しています。海禁政策と言えます。
それでも密航してくるキリスト教徒、西洋人というのはいるもので、朝鮮では1790年代からキリスト教徒を迫害します。
1801年の大迫害は、辛酉(しんゆう)の迫害と言われます。甲乙丙丁戊己庚壬癸の十干(じっかん)、子(ね)丑(うし)寅(とら)卯(う)辰(たつ)巳(み)午(うま)未(ひつじ)申(さる)(とり)戌(いぬ)亥(い) の干支(えと)の組み合わせですね。        
1811年には、洪景来の乱と言われる事件があります。没落した両班と農民が反乱を起こしたものです。洪景来は没落した両班の家柄に生まれた占い師/地師なんですが、農民を率いて平安北道で挙兵しました。半年後に戦死しました。

□□日本列島

日本では、老中の田沼意次(おきつぐ)の政治と言われる時代で、重商主義に立っているので、株仲間を奨励したり、干拓を推進したりもしました。
老中は宰相みたいなものですね。フランク王国にもカールマルテルがいたように、日本にも何人かの老中が同時にいます。
浅間山が噴火して、耕地がダメになったことで天明の飢饉が起きたりもします。

老中の松平定信が寛政の改革をします。贅沢を禁止する倹約、貯蓄の奨励、田舎の出身者は故郷に帰って農民をやりなさいという人返し、西洋の学問を禁じる異学の禁などをするんですけど、人気のない政策だとは見ればわかります。お金を使わないので不景気になりました。
寛政異学の禁とは言われますが、その代わりに東洋の学問、特に朱子学を高めようということで、林家の孔子廟だったところが、公的な昌平坂学問所に改組されました。21世紀には跡地に湯島聖堂があります。

このころ、北海道/蝦夷地ではアイヌの決起もあったし、ロシア人がやってくるという話を聞きつけたので、幕府は脅威を感じて、最上徳内を蝦夷地、樺太へ派遣します。
それで松前藩がロシア、満州と密貿易をしたり、アイヌを迫害していることもわかりました。
幕府の外交方針は1640年以降は打ち払いをしないというものでしたが、1791年、ロシアの進出に対して、異国船取り扱い令を発して、船に乗り込んで調査する臨検を拒否した場合には船を破壊すると定めています。
1792年、噂通りロシアからラクスマンが根室へやって来ます。漂流民だった大黒屋光太夫を伴っているので、幕府も話を聞きます。このとき、松平定信は、「決まった国以外と付き合わない国法があるんだ。」と言って、お引き取り戴きました。
実際はそんな国法はないんですけどね。
その後、御庭番/スパイの間宮林蔵が樺太は島だということを確認しています。
このころ、蝦夷地も含めた日本の正確な地図が必要だということで、1800年-1816年に伊能忠敬が歩いて日本全土を測量して、1821年に「大日本沿海輿地全図」を作っています。海防/沿岸防備が大切なので、内陸はそんなに調査していません。太陽が南中(真南に来て、いちばん高く上がったとき)の地平からの角度を測って緯度を知ったり、日食や月食を観察することで経度を知ったりしたようです。
1804年-1805年にかけては、ロシアからやって来たレザノフが長崎にいます。幕府は再び通商を拒否します。中国、朝鮮、オランダ、琉球以外との通商/貿易はしないのが国法だと言うんです。このとき、鎖国思想というものが固まったと学者は考えています。

ロシア船が頻繁にやってくるようでは、戦になったら困るので、1806年に幕府は「場合によっては食糧を援助してもいい」と方針を転換しています。
レザノフは長崎からの帰りに部下のフボォストフに命じて蝦夷地で襲撃をしています。文化露寇事件と言うんですが、1806年-1808年に、本国には無断で樺太の松前藩、択捉島の幕府軍を攻撃します。村人を拉致したり、小屋や魚網を燃やしたりと海賊ですね。こういう悪行は200年経過しても日本の歴史に記録されていて、ロシア人、レザノフってひどい輩だねということが繰り返し日本人の記憶に刷り込まれていくので、尊敬されたい人はこういうことをしてはいけません。日本人も朝鮮や東南アジアでは酷いことをしたので、繰り返し悪い輩だと言われているはずです。

こういうことがあったので、ロシアには話し合いは通じないということで、1807年、ロシア船打ち払い令が発せられています。開国をしないためには暴力を辞さないという姿勢です。
1808年には、フェートン号事件があります。
ナポレオン戦争中なので、フランスに支配されているオランダ王国(ルイ・ナポレオンが国王)は英国の敵なんですが、英国の軍艦フェートン号がオランダ船を拿捕(だほ)する目的で長崎に侵入してきたんです。
しかも、最初はオランダ国旗を掲げるという海賊の常套手段も使っています。オランダ人が拉致されたので、幕府は水や食料を提供して、解放させることに成功しました。これ以降も英国の船がやって来ます。こわいですね。

1811年にはゴローニン事件があります。国後島に勝手に寄港したロシア人のゴローニン/ゴロヴニンが捕縛されます。このときには間宮林蔵も尋問をしています。ゴローニンの解放を求めたロシア側は、高田屋嘉兵衛の船を国後島の沖で拉致して、交渉します。結局、オホーツク長官の謝罪文を出すことで、ゴローニンも高田屋嘉兵衛も解放されました。1812年に実現するナポレオンのロシア遠征という脅威があったので、日本ともめている場合ではないとロシア側が考えたとも言われています。

この時代の世相を少し書いておくと、引退するまで地位が空かない大関が相撲の最高位でした。上が引退しないので、人気も実力もあった谷風、小野川という関脇を大関に上げたかった相撲の家元(司家)である吉田司家が、はじめて横綱という称号を作りました。そのうえで、二人を横綱にします。伝達式の後で、二人は太刀持ちと露払いを従えて、史上初の横綱土俵入りを披露しました。
1791年、徳川家斉の上覧/観覧相撲で、褒美として弓を授与された関取が、史上初の弓の舞/弓取り式を披露します。このころ、武家相撲の作法、土俵への登場の方法、礼式などが定められました。

□北海道/蝦夷地
千島列島には北部でロシア人が千島アイヌを従属させて貢納をさせています。
幕府は最上徳内を派遣して、千島列島の南部を調査させています。

1789年、クナシリメナシの戦
場所請負制で、松前藩からアイヌとの交易を任されている和人の商人 飛騨屋が強制労働をさせたりと酷い仕打ちをしていたので、クナシリ、メナシのアイヌが決起して和人71人を殺します。松前藩の軍、アイヌ首領たちの説得で決起は収まりました。

1791年、ロシアの進出に対して、幕府が異国船取り扱い令を発して、臨検拒否なら破壊をすると定めます。
1799年、千島列島でロシアが活発に活動しているので、幕府は東蝦夷地を直轄、次いで商人への請負制だった西蝦夷地、松前藩の直轄地だった樺太も幕府の直轄地にします。そして松前や函館に奉行を置きます。ただ、財政負担が増えたので、実態は商人の請負制です。1817年には西蝦夷地は正式に場所請負制に戻します。
アイヌへの支配も厳しくなって、同化政策、つまり和人化を進めます。アイヌが髷(まげ)を結って、髭(ひげ)を剃って、お歯黒を塗る人も出ます。
1806年、場合によっては食糧援助をしてもいいと幕府は軟化しますが、レザノフ一行が蝦夷地で襲撃をして、アイヌを拉致したりもしています。文化露寇事件と言います。
1807年、幕府はロシア船打ち払い令を発します。
1811年には国後島でゴローニン事件が起こりました。

□沖縄
琉球にも英仏の船が来航して通商を要求したようですが、清の仲介で帰って貰っています。

□□太平洋

1766年、英国のフィリップ・カートレットが率いるスワロー号、サミュエル・ウォリスが率いるドルフィン号は世界一周に向かいました。ウォリスのドルフィン号はマガリャンイス海峡の通過後にスワロー号と別れると、上陸したタヒチ島を1767年6月にキングジョージ3世島と名づけます。そして、国旗を掲揚して、国王の名の元に英国領と宣言しました。ウォリスの上陸を知らないフランスの航海家ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルはタヒチ島に上陸すると、フランス国王領であると宣言しています。 帰国したウォリス一行はジェームズ・クックに太平洋の情報を伝えます。

ジェームズ・クックは金星と太陽の距離を計測するために、金星の太陽面通過を観測する目的で太平洋に向かいました。そして観測を終えると、次の指令で利益になりそうな島を探して、1769年、ニュージーランドに着きます。ここには先住民のマオリがいました。このときには、領有を宣言していません。
1770年4/29、ジェームズ・クックがオーストラリアに到達して、国王の名の元に英国領と宣言します。最初に上陸したのが、のちのボタニー湾のあるニューサウスウェールズ州(州都はシドニー)です。ここには先住民のアボリジニがいました。
1747年に英国海軍が規則化したビタミンC不足から来る壊血病対策として、クックは柑橘類、ザワークラウトを船員に食べさせていました。
1778年にはクックがハワイにも到達しています
ちなみに、旅行代理店を経営して、近代ツーリズムの祖と言われる英国人のトマス・クックは別人です。

1780年代になると、オーストラリア/豪州は英国の刑犯罪者の流刑地になります。島流しですね。1810年代にラダイト運動などをした労働者もオーストラリアに送り込まれます。
21世紀のオーストラリアでは、白人が自分の祖先の流刑されてきた日、犯罪記録などを調べることができるようになっています。

バウンティ号は、奴隷用の食料品としてパンノキをタヒチから西インド諸島に運ぶために、英国海軍が徴用した貨物船で、艦長のウィリアム ブライを含めて46人の船員がいました。1789年、タヒチに滞在中、3人の船員が脱走の罪で逮捕されて、鞭打ち刑となります。こうした劣悪な環境などに不満を募らせた船員は、トンガのフレンドリー諸島でいわゆる「バウンティ号の反乱」を起こします。艦長は救命艇で降ろされて、ティモール島に着きました。バウンティ号の船員の一部はタヒチに戻って、逮捕されます。のこりの一部はピトケアン島に着きました。1808年1月にアメリカ船のトパーズ号がピトケアン諸島にやってきた時、バウンティ号の乗組員はジョン・アダムスだけが生きていて、他は一緒に乗船させられたタヒチ人の女性や(おそらく現地で生まれた)子供だけでした。

今回は1763年-1815年を書きました。
次回は1815年-1871年の前部を書きます。分裂した米国が南北戦争後に統一されたり、300国あるドイツが統一されたり、いろんな国が支配しているイタリアが統一されたり、フランスの七月革命、二月革命が影響してウィーン体制が崩壊したり、そんな時代です。

今回、アメリカ独立革命がわかった、フランス革命からナポレオン戦争への推移がわかった、ジャコバン派とジャコバンクラブと山岳派の違いがわかった、ポーランド分割を理解できた、オスマン帝国や清の衰退過程がわかった、日本の対外政策の揺れが面白かった、役立った、目からうろこが落ちたと思ったりしたら、スキを押したり、本郷りんのツイッターをフォローしたり、コメントを書いたりしてくださると嬉しいです。投げ銭したいと思ったら、下部の「サポートする」を押せば寄付できます。この文は頻繁に書きますが、家計の苦しい方はサポートではなく、宣伝していただければ十分ですからね。そうすればお金を節約して勉強をしたい人が「本郷りんの皆伝」の存在を知ることができるようになります。だから、気兼ねをしたり、引け目を感じずに利用してくださいね 。


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これからも学んでいく費用に使いたいと思います。

ありがとうございます(*^-^*)
本郷りんの皆伝 大学受験
ヴァーチャル受験生の本郷りんです。東京の大学を目指しています。塾の先生が、「人に教えると理解が深くなるし、記憶に残りやすく、思い出しやすくなる」と言うので、妹に教えています。せっかくなので授業で書いたノートをもとにnoteでも書いていこうと思います。