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11 始まりは黒い月 (完)

10 自由について より続く

 一刻も早く彼に会うべきだったけれど、いざ図書館に行ってみていなかったら、と思うと、怖くてたまらなかった。すぐに怖がってしまうわたしのことも、彼がどうにかしてくれたらいいのにと思う。
 何も知らないままの彼のことを、心の支えのように思っているわたしがいる。あまりに不均衡で不釣り合いで不健全な関係だった。そもそも双方向的な関係なんて始まってもいないのに、勝手に期待し続けている。期待をやめる方法はわからない。何一つわからないから、それすらも教えてほしい。

 決行は先週と同じ、金曜日の五時間目。
 彼がいることは確信していた。不安定なのに、根拠のない自信で満ち溢れている。他の曜日に出向くことは怖いけれど、月曜日と金曜日なら大丈夫だと信じられた。たった一回ずつの遭遇を確信に変える、無鉄砲な自信をなんと呼んだらいいのだろう。やっぱり適切な言葉がみつからない。
 わからないことばかりで、知らないことばかりで、どうしようもない。自由がどうとか言っているけれど、わたしはまだまだ無知な子どもなのだ。あぁでも知らないということを知れたから、少しは意味があったかな。それに子どもだからって、自由を求める権利くらいはあるはずだ。
 だからわたしは、まるで猫のように自由な、三日月目の彼に会わなければならない。

 金曜日まではあっという間だった。月曜日から金曜日へ、一瞬でタイムスリップしたみたいだった。間の三日は、もしかしたらずっと夢の中にいたのかもしれない。
 先週と同じように、事前に学校へ行くことを母親に伝えて、当日はひとりぼっちの家を出た。きちんと戸締りのチェックもした。電車ではやっぱりスマホを触ってしまった。学校の最寄り駅に着く直前にスマホはポーチに仕舞って、リュックの奥底に沈めた。先週の行動をなぞればなぞるほど、彼に近づくように思えた。
 身体は今日も邪魔だった。心ばかりが急いて前へと進んで、重たい身体はどんなに焦っても速く動けない。付いていくことに必死だ。今日も心は身体のずっと前を走っていて、時折後ろを振り返っては、早く早く、と身体を急き立てる。身体は待ってよ、と息も絶え絶えに呟くけれど、心は待ってはくれなかった。むしろもっと加速して、図書館までの道のりを急いでいる。急いでも身体が追い付かなければ何もできないのに、一秒でも早く彼をみつけようと躍起になっている。

 ゴールテープを切ったのはもちろん心のほうで、身体は息を切らし痛む横っ腹を抑えながら、図書館の入った建物を見上げていた。なんとなく、彼に会えたとしても、図書館に来るのはこれが最後な気がした。次に会えるとしたらここじゃないどこかだ。会えなければ、当然来ることはない。薄いピンク色の校舎は、汚れすら可愛くみせる魔法にかかっている。

 図書館の扉の前で深呼吸を繰り返す。これも先週と同じだ。小学生のときにハマっていたおまじないはひとつも叶わなかったけれど、神頼みだとか願掛けの類だと思えば叶うかもしれない。今更行動を選択しても彼の存在とは関係がないのに、なぞることでまだ近づけると思っている。
 ゆっくり扉を引いて、中に入った。もうすぐ春が来るのに、しん、とした空気に心が詰まる。息苦しい。肺を満たす冷たさにむせてしまいそうだ。
 手前から二列目のキャレル。その一番端の席。
 足取りが重くなる。心臓の音が脳内に響く。呼吸の音が反響する。噛みしめるように、一歩を踏み出す。奥歯をぎゅっと噛んでいる。涙が滲む。気を抜けば床に張り付いてしまいそうな足を、なんとか奮い立たせてまた踏み出す。手が小刻みに震えている。両手を絡ませ、お腹の前で祈るようにする。手の柔らかな感触が場違いに感じられる。震えを止めようと力を込めると、震えは止まるどころか全身に広がっていく。

 後頭部が、みえた。
 相変わらず確信できる材料はなかった。それでも、彼だとわかる。感覚に飛び込んでくる何かが、あそこに座るひとが彼であると知らせている。
 ゆっくり息を吐く。昨晩の決意が揺らがないうちに。

 すぐそばまで歩み寄った。わずかな足音を察したのか、彼が振り向く。時間が引き延ばされたみたいに、ただ振り返るだけの動作が、ゆっくりと輝いてみえた。
 やっぱり三日月目の彼だ。
 彼の視界に、彼の真っ黒な瞳に、わたしが映っている。今日もとっても素敵だ。

「あの」
 意を決して出した声は、とても小さく掠れていた。あまりにか細くて、揺れていて、彼に届いているか不安になる。続きの言葉が出てこなくて、彼をまたみてしまう。
 彼がまばたきをした。その動きだけで、届いているのだと思えた。少しだけずれていた周波数をぴたりと合わせるような、そんな些細で大切な仕草だった。
 きっとわたしと彼の発する電波は似ていて、微調整するだけで鮮明になるのだ。だからわたしは彼をみつけることができたし、彼はわたしの言葉を聞くことができる。言葉が足りなくても、正しく伝わる気がする。自惚れかもしれないけれど、今は直感が導いた根拠のない自信をかき集めて、積み重ねることしかできそうにない。

 もう一度、深呼吸をひとつ。わたしが映る、彼の瞳をみつめる。
 さっきまで騒がしかったはずの心が凪いでいた。
 言葉はもう決めていた。全然足りないけど、これしかないと思った。そして正しく伝えるなら、今しかない。
 ぎゅっと手を握りしめて、力を集める。そっと口を開く。

「連れて行ってくれませんか」
 いつか自由になれるところへ。
 まずは手始めに、彼の三日月へ。


(完)

***

連載小説『授業をサボる、図書館には君がいる』

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