はたらきたい

 低い蜂の羽音にも聞こえる電動車いすのモーター音を響かせながら、先輩はホールに姿を現した。

 知人がクラリネットで出演しているので聴きに来た吹奏楽コンサートの会場、第一部が終わった休憩時間のことだった。先輩は笑みを浮かべつつ近づいてきた。私も先輩へと車いすをこいでいった。先輩は筋肉のひきつれた手で操作レバーを巧みに、小刻みに動かしていた。やがてホールの窓際で、私と先輩は横に車いすを並べた。

 彼は私の養護学校時代の、ひとつ上の先輩だ。

 脚や腕の筋肉に障がいがあり、食事やトイレ、入浴といった日常のさまざまな場面で介護を必要としている。重度といえるハンディの持ち主だが行動的で、ほぼ毎週末、駅前を中心に外出している。今回のようなコンサートのようなイベントにもよく出かけている。駅前の歩道を電動車いすで進む姿は私も時々見かけていたが、実際に会うのはかなりひさしぶりだった。

「おひさしぶりです」

 私はお辞儀をしつつ挨拶した。先輩がコンサート開始ぎりぎりの時間に会場に入ったきたのに気がついていたので、休憩時間に挨拶しなきゃ、と思っていたのだ。

 先輩は車いすのわきから機械を取り出した。ノートパソコンほどの大きさのそれには五十音や句読点の書かれたボタンが並び、上の方には横長の画面がついていた。先輩はつっぱった指で何個かのボタンを押していった。やがて画面に先輩の言葉があらわれた。最後に赤いボタンが押されると、一字一字を刻むような声が、機械から聞こえてきた。

「ひさしぶり」

 先輩は機械から顔をあげ、笑みを浮かべた。ああほんとひさしぶりだ、と私も自然と笑みを浮かべていた。いかにも無機質な、いかにも機械の声だと、人によっては思うかもしれない声質だけど、でもこれが先輩の声の代わり、いや先輩のもうひとつの声だ、と私は思っていたから。

 先輩は機械を構え直すと再びボタンを押し始めた。

「しかいのあなうんさーのひととしりあいでさそわれてきた」
「司会の人と? そうなんですか。でもほんと、おひさしぶりですね。お元気でしたか?」
「うんさいきんはほうそうだいがくでふくしのべんきょうをしてるあとでいさーびすにもかよってる」
「放送大学? 学生さんなんだ、すごいですね」
「きょうはだれときたの」
「ひとりです。知り合いがクラリネットで出てるんで、聴きに来たんです」
「そうなんださいきんちょうしはどう?」
「うーん、いまいち、かなあ。腎臓悪くしたんです。内科とか泌尿器科とか、病院通いばっかりです」
「そうなんだたいへんだおれもびょういんいってるよとしだな」

 先輩の指がボタンを押し続ける。私が画面をのぞきこんでは先輩の言葉を読み、聞き、答える。そしてまた手がボタンに伸びる。そんな会話が繰り返される。周囲には他のお客さんが、見たいような、でも見てはいけないような視線をこちらに送っているのがわかる。

 先輩の質問が、私の職場のことに及んだ。
 どんな仕事内容なのか、どんな人が働いているのか、自分のような人もいるのか。次々と問いかける先輩の表情は、これまでとは変わって真剣なものになっていた。何度も首をひねって考えつつ、私は先輩の問いに答えていった。ひととおり問いかけが済むと、最後に訊いてきた。

「おれにもできるようなことはあるか」

 私の言葉が、ふと詰まった。

 私の様子に、先輩の指も止まった。何か物思いにふけるように視線を床に落とした。

 先輩ができるような仕事は……と私がまごついていると、先輩の指がまたボタンを押し始めた。こんな文字が画面に浮かびあがり、機械が、いや、先輩がつぶやいた。

「はたらきたい」

 私は思わず画面を凝視した。息が一瞬止まり、先輩を見返した。そこには今までの笑みはなかった。ただすがるような目つきで私を見ている先輩がいた。その髪の毛にまざった白髪が、ホールの照明に照らされ灰色に光っているのが、この時になってなぜかくっきりと私の目に入った。

「うーん……。パソコンができれば、なにかできる仕事はあるはずなんですけど……。ちょっと上の人に訊いてみないと私にもよく……」

 私が煮え切れない返答をしていたその時、第二部開始五分前を告げるブザーが鳴った。

「わかった」

 最後に簡潔に先輩は言い残すと、電動車いすを会場への出入り口に向けた。少し後、私も反対側の出入り口から会場に入った。第二部の演奏中、先輩の方を何度か横目で見たが、もう先ほどの表情は消えていた。演奏に心地よく聴きいっている様子だった。

 すべての演奏が終わると、私はなにかせかされるように先輩に車いすを近づけた。先輩は「おう」と、はじめて口から声を出し、肘が曲がったままの腕をあげた。その表情には笑みが浮かんでいた。そしてまたたくまにホールから出て行った。

 私はなにかを言わなきゃ、と思った。でもその間に先輩の電動車いすは蜂の羽音をたてながら進んでいった。一度も振り返ることはなかった。他の観客が、先輩を少し迂回するようにしながら追い越していった。私はホールの真ん中にたたずみ、電動車いすがホールから消えていく後ろ姿を、下唇を噛みながらただ見送っていた。

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