小説「なにもない日」

 あれ、これって……。

 玄関先の掃除を終えてほうきを物置にかたづけていると、シートがかけられたそれがみえた。
 シートをめくると、車いすがのぞいた。
 私は外にひっぱりだし、広げようとした。しかしさびついていてなかなか広がらない。体重をかけてシート部分を押し込んだ。お年寄りが乗る自転車のような甲高い音がして、ようやく車いすは広がった。
「なにしてんの」
 後ろからあくびまじりの声がした。妹がやってきていた。ジャージ姿ではれぼったい目をしていた。いかにも寝起きといった感じだ。
「これ、私が小学校の時乗ってた車いす」
 私は古い車いすをなでた。
 その車いすは私が養護学校小学部に進学したのを祝って、両親が新調してくれたものだった。今私が乗っているスポーティなものにくらべると、やけに四角ばって仰々しかった。
 もう十何年も前のものなので錆がひどかった。肘掛けのカバーがやぶけて中のスポンジが飛び出て、タイヤの溝もすり減っていた。背もたれやシートはかつては鮮やかな赤だったが、今は色あせ、白っぽくなっていた。
 それでもよく残っていたものだ。私は旧友に会った気分で車いすをなでた。
「お母さん、ずっと取っておいてくれたんだ……」
「ねえ、乗ってみたら」
 妹がいたずらっぽく言った。
「無理だよ。子ども用よ、これ」
「大丈夫だよ。お姉ちゃん全然小柄だもん」
 そう言うと妹はいわゆる「お姫様だっこ」で私を抱えあげ、古い車いすにそっとおろした。妹は特別力がある訳ではないのだが、私の抱え方は誰よりもうまかった。しっかりおさまる感覚があり、安定感が抜群なのだ。
 少しせまかったが、私の体は車いすにちゃんとおさまった。私の体の成長は小学校高学年にとうに止まってしまっていた。
 タイヤを動かしてみた。予想以上に重かった。でも昔はこれで学校や街中を走りまわっていた。あの時は重いなどと、ちっとも感じなかったはずなのに。
 隣では妹が空になった車いすに乗りこんでいた。歓声をあげ、前後に揺らしていた。
「ちょっと散歩に行ってみない?」
 私は返事をまたずに玄関を出た。重みに負けないように強くタイヤをにぎり、こぎだした。
 振り返ると、妹はあわててついてきていた。タイヤを細かく刻むように動かし、少しずつ前へ進んでいた。赤ちゃんのよちよち歩きのようだ。小さい頃、彼女が車いすによく乗りたがっていたことを思い出す。乗せてあげると遊園地に来たようにさわいだものだ。
 近所の公園に着いた。ブランコと砂場しかない小さい公園だ。敷地に入り、私は少し速くこいでみた。ぎしついた音をあげながら車いすはスピードをあげた。風を感じた。
 木かげに着くと車いすをとめ、妹を待つことにした。手についた土汚れを払った。
 左手薬指のつけ根に、白っぽい痕が残っていた。
 ひとりの男との五年間の同棲生活に終止符を打ち、実家に帰ってきたのは半月前のことだ。
 その時、はめていた指輪を抜いた。指がちぎれそうなほどの勢いで抜き取った。強く食いこんでいたのか、痕はまだ残っていた。いっそ土埃をつけた方がいいだろうか、と思う。
 よちよち歩きの妹がようやくそばに着いた。額に浮かんだ汗がきらついていた。

 家にもどり、遅い朝食にした。トーストに妹はバター、私はいちごジャムをぬって食べた。母は町内会の行事で朝早くから出かけていた。ふたりだけで食事するのはいつ以来だろう。
 私はジャムをスプーン三さじ分、トーストにぬった。コーヒーにもミルクと角砂糖をたっぷり溶かした。
「ますます甘い物好きになったよね」
 妹があきれるように言った。彼女の言う通り、私は家に帰ってから元来の甘党に拍車がかかっていた。買い物のたびにクッキーやチョコやらをかごに入れるし、先日母がもらってきた東京ばな奈も、ほぼ私ひとりで食べつくした。目の前にあると食べずにはいられないのだ。なぜなのか自分でもわからなかった。
 少し控えないと。そう思いつつ厚くジャムのぬられたトーストをかじった。口の端についたジャムも残らず舌でぬぐいとった。
 朝食をすませると薬の入ったビニール袋を取り出した。ちょっとした買い物帰りのようにふくらんでいた。皿の上にオブラートを広げ、銀のシートから錠剤の粒をぽろぽろ落としていった。色も形もさまざまで、どこか駄菓子のようにもみえた。
 これほどの薬を飲まなければならなくなったのは二年前からだ。
 ひどいめまいと疲労感を覚え、病院へ行った。結果、腎臓に結石や血管の狭窄がみつかった。その日のうちに緊急入院した。幸い要作を広げる処置がうまくいき、腎臓はなんとか息を吹き返した。しかしそれ以来、降圧剤や利尿剤を多量に服用しなければならなくなった。また腎臓は持ち直したが、体に疲労がたまりやすくなり、高校卒業後から勤務していた建設会社をやめざるを得なくなった。
 この粒々が自分を生かしてくれている。そんなことを思いつつ、オブラートでくるんだ薬を水で流し込んだ。
 その様子を妹はじっと眺めていた。
「あたしも少し飲んであげたいよ」
 妹は泣き笑いの顔でコーヒーを飲み干した。こんな妹の表情をみたことがあった。

 五年前のあの日、彼と出会った。
 地元建設業者の懇親パーティの席だった。会場に入ると、車いす姿の彼がすぐ目に入った。向こうも同時に私に気づいた。
 彼は二歳年上だった。小学一年生の時に事故で下半身まひになり、以来車いす生活を送っていた。私が脊髄の腫瘍が原因で下半身まひの身体障害を負い、車いす生活になったのは五歳の時だと言ったら、じゃ、おれの先輩だね、と笑った。車いすバスケをやっているというだけあり、上半身が固くひきしまっていた。豪快に飲み食いする姿をみているだけで楽しくなった。上司からいろんな人にあいさつするよういわれていたが、パーティは彼と話しているうちに終わっていた。その日のうちにメールアドレスとLINEと電話番号の交換をした。それがはじまりだった。それからは自分でも驚くほど早く、彼にのめりこんでいった。
 彼との交際を両親に告げた。母は許してくれたが、父はすさまじい反発をみせた。こういう体なので両親を悲しませることだけはしたくないと思い、私は生きてきた。だがこの時だけはゆずれなかった。互いに激高した。最後にはなじりあった。
 普通の体の男と一緒になれ。
 こんな体に産んだのはあなたたちじゃない。
 棘にまみれた言葉を投げ合った。
 妹だけが応援してくれた。体は不自由でも気持ちは自由なんだから。父に向かって叫んでもくれた。しかし父は折れなかった。
 私は家を出ることにした。
 その日の早朝、家が寝静まっているうちに家を出た。妹だけが気づいてパジャマ姿で見送ってくれた。会いに行くね。彼女は涙にくずれそうな顔に、必死で笑みを浮かべていた。風に庭草の香りがまざっていた。夏がはじまろうとしている朝だった。
 一年後、父が脳梗塞で突然この世を去った。私は立ち会えなかった。墓参りにはいまだに行っていない。行こうとすると体がすくみ、動けなくなるのだ。月命日のたび、空に向かい手を合わせた。今月もうす曇りの空に手を合わせた。冥福を祈っているのか、謝っているのか。自分でもよくわからなかった。

 玄関で私は車いすに乗り、妹の準備ができるのを待っていた。ほどなく彼女は姿を現した。手には一通りの道具を抱えていた。
「ごめんね、休みの時に」
「今度服買ってもらうからね。ジーンズとTシャツ」
 妹はおどけて言い、下駄箱の上に鏡をたてかけた。楕円の縁に藤の花が刻まれていた。昔から母の部屋にあるものだ。続いてピンクのカットクロスを広げて私の体にかけた。大きめのもので車いすもすっぽりと包まれた。
「車いす対応のもの買ってたの」
 妹は自慢げに言い、最後にシザーケースを腰に巻いた。
 こうして、玄関が即席の美容院となった。
 実家に帰ってきてから、私はひそかに楽しみにしていたことがあった。美容師の卵である妹に髪を切ってもらうことだ。
 美容師になることは、妹の小さい頃からの夢だった。美容院ごっこには何度もつきあってきた。小学一年の「おとなになったら」の作文には、すでに「びようしさんになりたい」と書かれていた。高校を出ると迷わず美容学校に進学し、念願の美容師になった。はじめての客は私だった。今日のように玄関を美容室にした。はさみが細かくふるえていたものだ。
「で、どうする」
 妹は私の髪に軽くふれた。
「思い切って短くして。このくらいに」
 私はうなじのあたりに手をやった。今、髪は背中の真ん中近くまで伸びていた。そんなに短くするの、と妹が声をあげた。
「やっぱり、今はそういう気持ちってこと?」
 鏡ごしにうかがうような視線がみえた。
「ちがうわよ。これから暑くなるからすっきりしたいだけ」
 妹は腰のケースからはさみを取り出した。少し考えてからゆっくりと、静かに切り始めた。さくさくと髪が切れる音が心地よかった。
「仕事の方はどう? 楽しくやってるの?」
「うーん、けっこうしんどいかも。腰は痛いし手は荒れるし。水さわるのもつらい時あるからね。怖い先輩もいるしさ」
「そう。でもえらいね、ちっちゃい頃からの夢かなえたんだから」
「そんな大げさなもんじゃないって」
 そう言いつつ、妹は頬をゆるませた。
「そういえばさ、お姉ちゃんの小さい頃の夢ってなんだっけ」
「うーん、よく覚えてないなあ」
 うそだった。本当はよく覚えている。小学校三年の時、未来の自分の姿を題材に絵を描かされた。私は教会の前にいる花嫁姿の自分を描いた。手元にはあるだけのクレヨンを使い、華やかなブーケを描きいれた。まわりでは家族をはじめ大勢の人が祝福していた。だがなぜか新郎は描かなかった。白いドレスのスカートは、車いすをすっぽりとおおっていた。カットクロスをつけた今の姿に重なっていることに気づいた。苦笑いのできそこないのような顔が鏡に浮かんだ。
 カットが終わった。髪は望み通りばっさり短くなった。不安げな妹の顔が鏡に入りこんだ。ばっちり、と目で合図した。あらわになった首すじから、体にたまった澱みが抜けていく感覚を覚えた。
 昼になり、カットのお礼にと昼食は私が作った。残り野菜と油揚げを使ってけんちん汁風のうどんを作り、玉子焼きを添えた。茶の間の窓を開け放し、私たちはうどんを食べた。ほっとする味だね、と妹はよろこんでくれた。
 庭にはつつじが咲いていた。真ん中があざやかな赤で、花びらのふちに近づくにつれて白くなっていた。父と母がずっと大事にしていた花だ。特に父は休みとなると水をまき、枯れた枝葉を切ったりしていたものだ。
 後片付けをすませた後、妹は寝そべりながらテレビを眺めはじめた。
「出かける予定とかないの」
 妹は「なあい」とあくびをかみころした。
「なにもない日って案外ないでしょ。大事にしなきゃ」
 なにもない日。その言葉を胸でつぶやいた。

 静けさが破られたのは、妹がうたた寝をはじめた頃だった。チャイムが鳴って玄関に這い出た。思わず声をあげそうになった。
 そこには彼の姿があった。
 フレームも背もたれも黒の車いすに乗り、タイヤを強くつかんでいた。言葉をかけることもなく、まっすぐに私をみつめていた。
「話、したいんだけど……」
 家の中を振り返った。公園に行こうと小声で言った。妹を起こしたくなかった。
 公園には西日に近くなった光が照りつけていた。小学二年くらいの女の子ふたりが、競争のようにブランコをこいでいた。私たちをみつけるとブランコを止め、珍しい動物をみるような視線を送ってきた。
「髪、切ったんだな」
「さっき妹に切ってもらったの」
 似合うともなにも、彼は言わなかった。
「仕事はどうしたの。今日月曜だよ」
「早退した。お前に会いたくて」
「そんなことして大丈夫なの」
「ああ。それより体はどうだ」
 つい笑みをもらしそうになった。共に暮らしていた頃と同じだ。朝起きるとまず「調子はどうだ」とたずねてくるのが常だった。
「大丈夫。実家で楽させてもらってるから」
 彼はそうか、とうなずいた。本当に安心した顔を浮かべるのも同じだ。だがすぐ頬をひきしめた。
「おれたち、やり直さないか」
 西日が暑かった。車いすを後ろに下げ、木かげに入った。彼は動かず、まともに日差しを浴び続けた。車いすの金属部分が照らされ、ぎらついていた。
「やっぱりお前とじゃないとだめなんだ」
 私も、かつては同じだった。
 彼と私の体がおどろくほど似ていたことが、私にそう思わせた。
 骨と皮だけの両脚も、下半身まひの及ぶ範囲も、背中を走る手術痕も同じだった。鏡にうつしたようだった。彼の体をみることは、私自身の体をみつめることだった。
 このひとは、私と同じ体を持っている。
 奇跡をみた思いがした。
 いっしょに暮らそう。私から申し出た。家族も捨て、家を出た。
 つまづきは始めからだった。ふたり暮らしのためにアパートを探したが、共に車いすということもあり、みつからなかった。結局彼が元々いたアパートに住むことになった。六畳一間の部屋に、身をすぼめて暮らした。
 一瞬でも、彼と離れたくなかった。
 互いに仕事をしている平日の昼は、LINEを必ず交わすことを求めた。彼の帰りが少しでも遅くなると、LINEの言葉を積み重ね続けた。休日本屋に出かけるというとついていき、興味のない小説を買ったりした。飲み会があるときくと心がざわついた。その店まで行き、所在を確かめたことも一度ならずあった。彼にみつかり、顔をしかめられたことも何度かあった。
 お前の車いすは重いな。
 ある日彼はそんなことをつぶやいた。車で出かける時、先に助手席に乗った私の車いすを、彼が後部席に積み込んでいる時だった。彼の顔をみた。唇がかさつき、血の筋がにじんでいた。自らの熱病は私自身も傷つけたのか、二年前には腎臓を悪くし、仕事をやめた……。

 女の子たちが砂場で山を作りつつこちらをみていた。手を振ってみせた。戸惑っていたが、やがて砂まみれの手を振り返してきた。
「あの子は元気なの?」
 半月前のある土曜日、彼は休日出勤といって出かけた。朝から不調を覚えていた私はずっと寝ていたが、処方薬を飲むためのオブラートと頭痛薬が切れ、無理を押して買いに出た。スーパーのドラッグコーナーにふらふらと車いすをこいでいると、スーパーのお菓子コーナーに彼と見たこともない女、そして小さな女の子が一緒にいるのをみつけた。女は健常者だった。彼の車いすに手を添えて歩いていた。女の子は彼の膝の上に乗っていた。
 店内で彼に詰め寄った。彼は凍りついている女と女の子に、ゲームコーナーに行っててくれ、と言うと、具合の悪い私を外に連れ出し、言い訳をはじめた。私が体を悪くしてまもなく、あの女とつきあいはじめた。離婚歴があり、女の子は前夫との間に生まれ、今三歳だと彼は言った。
 それからのことは、よく覚えていない。
 思いだせるのは深夜、呆然と台所に座り込んでいたところからだ。喉がかわき、冷蔵庫をあけた。飲めるものは彼の好きなビールしかなかった。やけ気味にあおると、苦い泡が喉を突いた。
 背中でなにかうごめいた。彼が私をみていた。なにか突き上げられるような衝動を覚えた。私は彼に両腕だけで這いずり寄った。奪い取るように、彼の服をはぎとった。彼も私の服をはいだ。怒りが込められていた。
 台所で、ふたつの同じ体がむきだされた。
 彼は私のうすい乳房を握り、私は彼の背中を走る手術痕に爪を突き立てた。動かない骨と皮だけの両脚が、いびつにからまりあった。彼はやがて畜生、と唾を吐くようにつぶやいてから、私の太ももの間に荒っぽく顔をうめた。体の奥底が熱くなった。まひに侵された体に、こんな感覚があるのを教えてくれたのは彼だった。泣いたような自分の声を聞いた。冷たい台所の床で、私たちは一晩中辱めあった。
 翌朝、はだかのまま目覚めた。彼はまだ寝ていた。一瞬死んでいるようにもみえた。起こさないように服を着て、五年間過ごしたアパートを出た。彼が玄関に這い出る気配がしたが、追いかけてはこなかった……。

 やり直そう。あの夜を思い出していた私に、彼の声が重なった。女の子たちはいつのまにか姿を消し、公園には私たちだけだった。
「あの人は、あの子は、どうするの」
「別れた。だからやり直そう」
 彼はまっすぐに言った。
「無理よ」
 私はそれに、と力ない笑みを浮かべた。
「私たちが同じなのは、体だけだもの」
 涙がまざりそうになった。彼はうなだれた。首筋とタイヤが西日に焼かれていた……。

 公園を出ると、妹が街路樹のかげにいた。
「窓からお姉ちゃんが出ていくのがみえたの。気がついたら追いかけてた。ごめん」
 妹は母のサンダルをはいていた。コーヒーでも淹れようかと言った。妹は車いすを押し始めた。ゆりかごに揺られているようだった。
 家に着くとつつじの香りが鼻を過ぎた。甘い香りだった。
 明日父のお墓参りに行こうか、とふと思った。今までのことを素直に話そう。ばかな娘だと怒鳴られるだろうけれど。少しずつ弱った体もなおしていかなければ。軽いジョギング程度の運動がいいかもしれない。
 でも今はまずコーヒーを淹れよう。砂糖とミルクを溶かしたコーヒーを妹とゆっくり飲み、母の帰りを待とう。今日はそれでいい。なにもない日なのだから。
                              (了)


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