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これからも、この物差しで測る社会のままなのか。例えば、司書について(エッセイ)
この方の記事を読んで、考えてしまった。
※勝手に埋め込んで良いのでしたっけ(ご本人様に通知が行くらしいです)。書かれた主旨と違っていたり何か失礼だったりしたら申し訳ありません。以下も上の方の文章から引用しています。
だが考えてみると、図書館司書として結果を残す、とは一体なんだろうか?
司書はどうやって評価されるのだろうか? その評価基準はどこにあるのだろうか? なにをもって司書は、司書の仕事は成果を上げたと言えるのだろうか。
学生時代に図書館がいつも近くにあったおかげで、より豊かな人生になったというエッセイを書いた。
それが答えだと思っていた。
図書館は、数値で測ることができない価値だと。
例えば、進学先について
進学校や塾なら、名門高校や名門大学への合格者数がPRポイントとなる。
東大に何人合格、地元の名門大に何人合格…。
個人的には「いや、有名大学以外に進んだ生徒もたくさんいるし、自分なりにベストを尽くした結果の進学や就職先なら何の問題がある?」と思ったりする。
教育とは、偏差値が高い学校に合格させることなのか、とも。
数値として表に出ないものには、価値がないのか
あるいは部活動。
インターハイ、甲子園出場などで垂れ幕を飾る学校はたくさんある。
その一方で何千倍も、試合に負けた学校があるということだ。ではそれは無価値なのか。
同級生や先輩後輩と関わって人間性を磨いたり、リーダーを努めて人を束ねる難しさを知ったり、勉強だけが人生ではないと学んだりすることも、大切なことではないのか。
家族以外の大人と出会い、試合に負けた悔しさをバネに何かに打ち込み、友情を育むことに価値はないのか。
大きな大会に出ることだけが「価値」なのか?
教育は、学校は、そういう種蒔きをするところではないのか。
10年後に今より成長した大人になるために、心にたくさん何かを育む場所ではないのか。
いつか児童や生徒が自分なりに望んだ生き方を選べるように、色々な経験を積ませ、多様な人々に出会わせるために存在するのが学校ではなかったのか…
GDP4位だから何?
GDPは国の経済力を表す目安で高い方が良いかもしれないが、国民の生活満足度とさほど関係がないのは、昨今の貧富の差の激しさなどから多くの人が知っているはずだ。
こども食堂の増加、不安定な非正規雇用、正規だけど過労死レベルの労働、奨学金という名の借金苦…国民が苦しむ声はそこここで聞こえる。
GDPが何位だろうが、多くの国民が苦しみから解き放たれる社会の方が望ましいと私は思う。幸福度ランキングというものもあるけれど、個々の幸せは数値化できるものではない。
数値化ですべてが語れるわけではない。
『星の王子さま』ではないが、大切なことは目には見えない。
数値は、何かを切り捨てる時に都合よく使われる。
いつの間にか、こんなに余裕のない国になってしまっていた。
数値化することで評価したつもりになり、わかりやすいもので何かを決め、そうでないものは「無価値」とする社会になってしまった。
図書館で言えば、わかりやすく目に見える評価は「利用者数」「貸出冊数」で、それらを増やすのはある意味では簡単だ。
貸出できる人気漫画を増やす、楽しいイベントをする、ホッとするスペースを作る。
もちろんこういうことも大事だ。利用者のニーズにあう図書館であることは必要だ。
でもそれだけでいいんだろうか。
難解な本を、メモを取りながら一生懸命に読む生徒がいた。貸出冊数は多くない生徒だったが、充実した時間を過ごしていたように思う。
そういう場を提供し続けることも、図書館の一つの価値だと信じている。
その場を提供し続けるためには、司書自体が図書館の本を知らないといけない。
一人職場なら特に、司書の書籍の知識量が図書館運営にも左右される。
ではいつ読むか?
仕事時間以外しか、ない。
教諭が教材研究するように、司書は利用者が望みそうな本についての知識を少しでも多く入れておかないと、サービスが低下する。
本を知っているからこそ、新しく本を選ぶことができるのだから。
知らないと、見当違いの本を入れて利用者の期待に応えられないし、読書推進もしづらい。
利用者によく聞かれるのがこれ。
「この本面白いですか?」
その時「ごめんなさい、読んでいなくて」という回答も仕方ないが、なるべく自分の意見を具体的に言えた方がよい。
知っている人の「口コミ」は強力だから。
評価されることだけが全てではない。
だけど。
昨今は評価できないものを切り捨てる時代なのかと考えさせられた。
だから司書の勤務条件がどんどん悪化しているのかと、あらためて気付かされた。
冒頭の方は司書として頑張っていた。
でもそこは評価されなかった(あるいは単に予算の優先順位の話だったとも思うが)。
そしてそれは周りでも聞く話だ。
精神病みそうになりながらも必死に図書館勤めしている人を私は知っている。
こんなにしているのに、なぜこの大変さをわかってもらえないのかという心の叫びを聞いている。
評価する側が図書館を理解していたら、対応は違ったものになっていたかもしれない。
評価しない人たちは、そもそも図書館のことを知らない場合が多い。
本のことなんか知らなくても図書館運営ができると思っているから、ベテランを切って素人を後釜に据えたりする。
NDCも目録規則も何も知らない人を、ただ自分たちに使い勝手が良さそうだからと。
図書館のことを何も知らない人だと「こういう理由で作業が多いのです」と正当な文句も言わないから。
図書館の理解を深めようと、日本のあちこちで司書たちが働きかけている。たとえば埼玉県の「みちねこ」さん。その動きは図書館関係者から保護者、そして地域の人々へと広がっている。
…ここでエッセイ書く程度の私ですみませんという終わり方になってしまったので、すごく素敵な記事を最後に、またしても勝手に引用して締めようと思う。