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【連載小説】 『宰相』 第1話 安倍元総理追悼小説


 平成24年夏––––。


 滴る汗を拭いながら、心一は猛暑の中をまっすぐ歩いていた。すれ違う人たちを横目に、やっぱりスーツで来るべきだったか、と少し焦りを感じていたが、うだるような暑さに、どうにもあの堅苦しい鎧を着る気にはなれなかった。


 無論、黒のスキニーに白のTシャツである自分の格好が間違っている可能性は否めず、焦燥感からいくらか歩く速度を上げた。身なりよりも気持ちが大事だから––––と思ったもののきちんとした格好で来るべきだったと後悔し始めていた。


 照り付ける陽光を浴びながら、ただただ目的にまで歩を進めた。歩き続けているとそれらしい建物が心一の目に映った。


(ここが入り口だろうか…)


 そこが南門だとは知らず、心一は立ち止まった。


(いや、もう少し先まで歩いてみよう…)


 再び歩き出して第二鳥居まで辿り着くと、溢れんばかりの人の多さに目をみはった。


 ––––世界が開けた感覚がした––––


 汗が滴る。止まない蝉の声と照りつける陽光。


 この目で見るまではわからないと思っていた〝日本〟がそこにあった。今、この国で起こっている事の中心に自分がいる事をまざまざと感じた瞬間だった。


 ズボンのポケットからハンカチを取り出すと、心一は額と鼻の下の汗を拭い、カバンから取り出したペットボトルの水を含んだ。


 自宅でキンキンに冷やしてきたおかげで、まだかろうじて冷たい。生き返る––––月並みな感想を心のなかで呟くと、心一は再び歩き出した。


 深々と一礼して鳥居をくぐり、大村益次郎像をまじまじ見つめたあと、やがて現れた人の列に圧倒されつつ、迷わず最後尾に並んだ。ちゃんとした作法でこなせるだろうか。そんな心配をしている彼はふと気づいた。


(若い人が多い・・・)


 自分と年の端も変わらない人たちが同じように汗を流しながら、黙々と列を成している。その光景たるや、この国の希望を示しているようにも思えた。


 前の人の参拝が終わると、数歩進む。1時間近く並び、ようやく拝殿の前まで来た心一は、少しの緊張をしながら、ようやく二拝二拍手一礼した。


(英霊のみなさま、ありがとうございます)


 心のなかで呟くと、心一は拝殿を後にした。空を見上げると、雲ひとつないカラッとした水色と白い太陽が広がっていた。


 境内に設置された屋台で日の丸かき氷を購い、ベンチに坐って食べることした。熱った体に、ほどよい甘味が生気を取り戻す。


 すると、少し向こうに集った人たちが時折拍手を繰り返す。その音がじんじんと心一の耳に響き、心の奥底を叩いた。


 食べ終えた容器を捨てると、群衆のなかに紛れ込み、到着殿へ目を向けた。


「あっ––––」 心一は思わず声を上げた。


 そこで目にしたのは––––


 石原慎太郎東京都知事だった。


 群衆から喝采。


「石原さーん!!」


 その声に応えるように、知事はこちらに目を向けてくれた。参拝を終えた知事が出てくると、再び群衆は大喝采。


「石原!石原!石原!石原!」とコールが鳴り響く。おそらく靖国神社に参拝して、コールが起こる政治家は石原慎太郎くらいのものだろう。


 心一も同じように石原知事の名前を叫んだ。どうしてか高鳴りが治らない。格好良かった。痺れるほど、心一の全身にスマートな長身の大作家であり、大政治家が焼き付けられた。


 電車に乗ってはるばる来た甲斐があった。


 8月15日––––初めての靖国神社参拝。


 時任心一、23歳の夏だった。


 その日、元内閣総理大臣・安倍晋三も靖国神社に参拝したという事を心一はまだ知らずにいた・・・。


続く・・・


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