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「われならで下紐解くな〜」伊勢物語はなかなか愛いな短歌揃い〜茶道で昇華するには

 元々、茶道は男性のたしなみだった。明治以降は女性が礼儀作法を学ぶ手段として、女性の間にも広めていったそうだ。
 先日のイケメン講師のトオルさんが言っていた「茶道はお点前3割、古典文学7割」と言う言葉。それを裏打ちするかの様に賛同の意を示したおっしょさんであったが……。しかし、その真意はどこにあるのか理解不能に陥りそうである。
 この二ヶ月余り、源氏物語をはじめ古今集、新古今集、万葉集、伊勢物語と斜め読みながらざっと読んできた。全てに共通していることは大半が大人の恋愛を歌った短歌であるということ。こうなってくると、もう一方の「茶禅一味」とは相入れない様に思えるのだが、どのように解釈すればいいのか悩んでいる。
 そんな自分の最近の悩みを会社の所長に打ち明けた。すると彼から正確に的を射た回答が返ってきた。
「何を言ってるんだカゲロウ。お前が求めていたもの、そのものじゃないか。あとは突き進むしかないだろう!」
 と言う言葉だった。確かに言われた通りだ。人生の「喰う寝る遊ぶ」の後に残るのは「男女の仲」なのだろう。それ以外に人生の真実はない。
 動機として最初に茶道に求めていたものは、千利休が長谷川等伯に与えた影響を見つけることだった。それは大義名分として二義的な興味は、人生の真実をそこから学び取ることができれば、という思いである。それゆえに「禅語」や「茶禅一味」、「茶湯御政道」と言う言葉は私の好奇心に火を灯けてくれた。
 さらに好奇心の赴くままに進んで来て、ぶち当たったのが、
「茶道はお点前3割、古典文学7割」
 と言う言葉だった。それで古典文学の世界に踏み入ってみた。現れたもので特徴的なところでは、例えば、これである。

伊勢物語 三十七 下紐 
 むかし、男、色好みなりける女にあへりけり。うしろめたくや思ひけむ
    
  われならで下紐解くな あさがほの 
         夕影またぬ 花にありとも
 返し、
  二人して 結びし紐を一人して
       あひ見るまでは 解かじとぞ思う

 意味については、ネット等で調べていただければ、すぐにわかると思います。
 ここで思い出したのは、夏目漱石の「草枕」の一文である。

 茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人ほどもったいぶった風流人はない。広い詩界をわざとらしく窮屈に縄張りして、きわめて自尊的に、きわめてことさらに、きわめてせせこましく、必要もないのにきつきゅう(つつましくひざまづいて)、あぶくを飲んで結構がるのが茶人である。あんな煩瑣な規則のうちに雅味があるなら、麻布の連隊の中は雅味で鼻がつかえるだろう。回れ右、前への連中は、ことごとく大茶人でなくてはならぬ。あれは商人とか町人とか、まるで趣味の教育の無い連中が、どうするのが風流か見当が付かぬ所から、器械的に利休以後の規則を鵜呑みにして、これで大方風流なんだろう、とかえって風流人をばかにするための芸である。

 夏目漱石は茶道に対してかなり懐疑的であった様子。
 この先、どのように自分と茶道との間で折り合いを付け、古典文学を茶道に昇華していくのか、しばらく苦悩の日々が続きそうだ。

 
             


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