見出し画像

資料文献がない。水墨画や仏画を観て『虚心坦懐』に書き進める、しかない

 次に書こうとしている作品について書くのは良くないとは思うが、行きがかり上、「書くぞ!」と言ってしまった手前、不安に思いながらも、やっぱり書きたい。
 というのは、次の作品のために資料を探しながらインターネットで検索していて分かったことがある。しかも、同じ偉人の話で、直木賞を取った作家のコメントに重要なことが書かれていることに気付いた。
 そうなると、誰かに話したくて仕方がないから、会社の同僚に話した。「俺は、この偉人について、こんなことを発見したんだ」というと、
「ふーん。良かったね」
 で、それ以上の反応はなかった。
 じゃあ、noteに書いたら「ふーん、良かったね」以上の反応はあるだろうけれどもちょっと不安。でも、話したい。
 実は、次の作品の主人公についての文献的や古文書に相当するものは、かなり限定的であるということが、やんわりとわかって来た。つまり、私が書こうとしている偉人をテーマに直木賞を受賞した先生のコメントには、
「彼に関してほとんど、武将のような資料文献が残っていない。そこで、水墨画や仏画を観て『虚心坦懐』に書き進めるしかなかった」
 とあった。
 つまり、偉人に関する古文書を探しても無駄だと。偉人が残した作品から、その作品を書いていた時の本人の心の動きを想像して書き進む以外に、打つ手がない、ということのようだ。これは、嬉しいやら、悲しいやら。
 確かに偉人の話で、直木賞を取った作品を読んだが、微妙におかしいと感じる所が出てくる。直木賞作家ですらそうなのだから、私が書いたらもっと、「?」箇所がいっぱい出てくるだろう。でも、私が書き進めていく余地が、この偉人に関しては十分にあるといういことだと、確信した。勇気を持って、一歩前へ。
 ちなみに、Kindleデジタル書籍から出版した「七つの龍の尾根」について。私が通っている銀座の歌舞伎座の側の茶道教室の後藤宗華先生より、「出版、おめでとう」とささやかながら、お祝いのお言葉をいただきました。
 で、今日は宗華先生より、「貴人点前」のお供の役割を教わってきました。
「蜻蛉さん、あなたはお供ですから。お茶碗を主人から貴人の前に運んであげてください。それから、今日はお供の方にもお茶とお菓子が出ますけれども、本来は出ません。お供は、じっと手を体の横に垂らすように添えて、じっとしていてください。そうです。それでよろしいですよ」といわれて、じっとしていました。でも、茶菓子も薄茶も飲ませていただきました。ありがとうございました。今日も「ごきげんよう」に始まり、「ごきげんよう」で教室を後にしました。
 先にあげた偉人も、今習っている茶道の利休も、「七つの龍の尾根」の主人公も、今書いている作品の登場人物も、全てが同じ時代に生きた人びと。しかも、みんなが微妙に交差していて関わっていたと思われる。これは、次の作品を書かずには、いられない。

創作活動が円滑になるように、取材費をサポートしていただければ、幸いです。