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【短編小説】名付けられない時間と記憶

まどろみの中で浮かんだ人影は、輪郭がぼやけてにじんでいた。かろうじて見えた濃紺の腕時計とセルフレームの眼鏡、頬杖をついた横顔で、今はもう会えなくなった人だとわかった。

世界の片隅で、暗い沼の底に沈んでいくような時間を、共にした人だった。

その人は、私がよく行く喫茶店のスタッフだった。
カウンターで初めて見かけた横顔は、さながら外敵から逃れるために繁みに身を隠した野生動物のようだと思った。

彼は、何を考えているのかよくわからない人だった。あたりさわりのない人当たりのよさの中に、どこか投げやりで醒めた気配がくるりと丸まって潜んでいた。さながら、身体の中に手負いの獣を一匹飼っているようだった。

だからだろうか。お客様とにこやかに接する彼はどこか偽善的に感じられ、ふたりで話しているときに浮かべるひっそりとした静かな笑みのほうが、遥には好ましく映った。けれど、遥がその笑みに触れることは、結局一度もなかった。

「コーヒー、好きなんですか?」

彼の自宅を訪れるようになって何度目かに遥が尋ねたとき、彼はそれまで沈んでいた自分の世界からぱっと目覚めるように、こちらを向いた。
彼が働いていたのは、紅茶が有名な喫茶店だった。

ローテーブルの上には、湯気の立つマグカップがどこかさみしげな佇まいのまま、置き去りにされている。
遥は手に持ったマグカップから苦くも熱いコーヒーを口に入れた。舌が焼ける。

「いや、そうでもないよ。基本的にカフェイン摂るとお腹こわすから」

「そのわりには、コーヒーメーカーもあるし、道具も揃ってますよね」

疑問符を浮かべた遥に、彼は、

「人が来たときに出せるものが、うちにはこれくらいしかないから」

と言った。

どこか痛みを堪えたような表情に、遥は自分がいまだ癒えていない彼の傷跡に、またもやうっかり触れてしまったことを感じた。

この人と会っているときは、いつもこの繰り返しだった。どこに潜んでいるかわからない傷跡を避けるようにして話していた。地雷は、どこにあるかわからないからこそ地雷なのだということを、当時は気づけなかった。

彼と会っているときは、暗い沼の底に、ふたりで沈んでいくような時間だった。底がどこにあるかもわからないまま。

傷跡に触れてしまうのは、光の届かない沼の中で、底にある岩をよけきれずぶつかるようなものだった。彼は、おそらく岩にぶつからないことを望んでいた。

けれど、暗闇の中で岩にぶつからないことなど、遥には土台無理な話だった。どこに岩があるかもわからなかったから。

彼があの場所からいなくなったとき、遥は愕然としつつも心のどこかでほっとしていた。その安堵にかすかな違和感を感じながらも、気づいたことからわずかに目をそらした。彼と過ごした日々から抜け出して、ようやく息ができるようになったことを。

彼があの場所からいなくなって、もう5年以上が経つ。鮮明だった記憶も、ゆるやかに時の彼方に流れてとけていく。

それでもきっと、これからも彼と過ごした時間を思い出すのだろう。
あの薄暗い、部屋の片隅とともに。

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