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雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう

子供の頃、雨の日は長靴を履いていた。

道路の所々には水溜まりがあって、長靴は濡れなくて平気だから、わざと水溜りを歩いて、じゃぶじゃぶと波立てて遊んだことがあった。

ような気がした。

記憶違いなのかもしれない、と思った。

僕は生まれて一度も、長靴を履いたことがない。

だから、長靴を履いて水溜りを歩いたことなんてない。

なんてことないのに、どうしてそんな記憶があるのだろう。

写真や映画や小説などの中にそんなシーンがあって、いつの間にか、自分の体験と思ってしまったのだろうか。

誰かとの会話の中で、そんなことをして遊んだという思い出話に触れて、羨ましく思って、いつの間にか、それは自分の記憶だと思い込んでしまったのだろうか。

それとも、他人の記憶、作られた記憶、そんなものを、誰かが僕の中に移植したのだろうか。

最後の可能性が、一番高いかもしれない。


僕が今まで話しかけた人は、大抵、怪訝そうに僕をみる。
驚く人や、怪しげな眼差しで見返す人もいる。不安気で後退りする人、無視する人様々いる。

ただ、にこやかに笑顔を返してくれた人は、今までひとりもいない。

僕が今まで話しかけた人は皆、知り合いと思っていた人たちだけだった。

子供の頃の友人、学生時代の仲の良かった友達、会社の同僚や部下、上司など、自分の体験に少なからず関わって来た人たちだ。

そんな中には、当然、家族や恋人などの、身内や、親しい人たちも含まれていた。

それなのに、誰一人として、僕が話しかけても、僕のことを知らなかった。

あなたは誰?どなたですか?人違いしていませんか?

その時の反応は、ほぼ、この3種類だった。

僕が知り合いだと思っていた人たちは、皆、僕にとっては、いや、その人たちにとっても、知らない人間だった。

僕の記憶はどうなっているのだろう。

病院の精密検査も心理試験もいろいろと検査を受けた。どこにも異常はなかった。

それでも、僕の記憶は、どこにも、事実も真実もなかった。砂粒ほどの記憶さえ、全て。

架空の記憶、偽りの記憶、虚構の中に僕がいるのか、僕の中に虚構があるのか、わからなかった。

そんなある日、僕の元に、一通の手紙が届いた。

差出人は不明だった。

封筒の中には、一枚の紙と古ぼけた写真が入っていた。

その紙には、一言だけ書いてあった。

あなたのことを知っています。

古ぼけた写真に写っているのは、和服姿の若い女性だった。

僕はその女性の顔をまじまじと見た。

見たこともない女性だった。

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