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ミケーレ・トディーニの黄金のチェンバロ:イタリアのチェンバロについて3(169)

Michele Todini, Rome, c. 1670

Michele Todini, Rome, c. 1670
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/502377

このあえて悪趣味と言いたい、メトロポリタン美術館所蔵のバロック極まるチェンバロは、17世紀ローマの楽器製作者で発明家のミケーレ・トディーニ(1616-1690)が作り上げた「ガレリア・アルモニカ」と称する私設博物館のアトラクションの一部だったものです。

これについては当時のパンフレットに解説があります。

Michele Todini, Dichiaratione della galleria armonica, 1676.
https://books.google.ca/books?id=m_HNo1bs9YMC

第二の部屋はポリュペモスの世界の展示で、ガラテアを始めとする多くの黄金の像を伴う。貝殻に座ったキューピッドが手綱を取る二匹のイルカが、海の眷属たちの行列を率い、海のニンフたちの周りの等身大のトリトンたちが運ぶチェンバロのケースには、黄金仕上げの浮彫が豊かに施され、海の幸を捧げる海の眷属たちを伴うガラテアの凱旋が描かれる。ポリュペモスは岩山に座し、伝説にあるようにガラテアのためソルデッリーナあるいはミュゼットを演奏している。その岩山の中にはソルデッリーナの音を出すための装置が仕込まれており、前述のチェンバロの下にある鍵盤で演奏することができる。

この記述が件のチェンバロと付属の像に該当することは疑いないでしょう。

ポリュペモスは一つ目の巨人キュクロプスの一人で、ホメロスの『オデュッセイア』でオデュッセウスに目を潰される役回りですが、これはそれとは別の、ポリュペモスが海のニンフであるガラテアに音楽をもって求愛するエピソードに纏わるものです。

ガラテアに恋するポリュペモスが語られた最も古い例は、キティラのフィロクセヌス(c. 435-380 BC)によるものです。フィロクセヌスのディテュランボス『キュクロプスあるいはガラテア』は断片でしか伝わっていませんが、ポリュペモスがキタラ(竪琴)を弾いてガラテアに求愛する場面が有名であったらしいです。もちろんこのような雅な行為は粗野な一つ目巨人には不釣り合いなもので、『オデュッセイア』の滑稽なパロディであったのでしょう。

エレソスのフェニアスによれば、これはシラクサのディオニシオス1世と、ガラテアという名のアウロス奏者の女をめぐるいざこざを風刺したものであったのだといいます。

フェニアスによれば、キティラの詩人フィオクセノスは美食に凝っていたが、あるときディオニュシオスと食事をしたとき、ディオニュシオスの前に大きなボラが置かれ、自分には小さなボラが出されたのを見て、ボラを手に取り、耳に当てた。ディオニュシオスが「なぜそんなことをしたのか」と尋ねると、フィロクセノスは「ガラテアの詩を書いているので、ネレウスとその娘たちについてボラに質問したのです」と答えた。しかしその魚は若すぎるときに捕まったのでネレウスの眷属にはならなかったと、けれどディオニシオスの前にいる彼女の姉は年上なので全てを知っているだろうと言うと、ディオニュシオスは笑いながら、自分の分のボラを彼に譲った。

また、ディオニュシオスはフィロクセノスと共に深酒をするのを好んでいたが、フィロクセノスが王の愛人ガラテアを誘惑したことが発覚すると、彼は石切り場に投げ込まれた。そこで彼は自分に起こったことを語るべく、ディオニュシオスをキュクロプス、アウロス吹きの女をニンフのガラテア、そして自身をオデュッセウスに見立てた『キュクロプス』を書いた。

Athenaeus, Deipnosophistae.
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.185290/page/28/mode/2up
Polyphemus receiving a letter from Galatea, 45-79 AD.

牧歌の創始者とされるテオクリトス(c. 300 BC)の『牧歌 XI』では、語り手の友人で医者であるニキアスが、恋の病を癒やすものは歌しか無いと述べて、ガラテアに恋したポリュペモスを例として挙げます。

そのポリュペモスは「私より上手に笛を吹けるキュクロプスはいない」と言い、「どうして鰓をもって生まれてこなかったのか」と嘆きますが、結局は音楽を慰めとし、恋を諦めるのです。

Polyphemus and Galatea in a landscape, from the imperial villa at Boscotrecase, last decade of the 1st century BC.

その後、最も有名になったのは、ローマの詩人オウィディウス(43 BC – AD 17/18)の『変身物語 Metamorphoses』中の「アキスとガラテア」です。

さて、ここにながい岬となって海のなかにつきでたひとつの楔形の丘があって、その両側の麓は、波にあらわれていました。乱暴なキュクロプスは、この丘によじのぼって、その中央にすわりました。家畜の羊たちは、だれも追っていく者がないので、勝手にかれのあとについていきました。かれは、杖につかった、帆柱にでもなりそうなでかい松の大木を足のまえに置き、百本の葦をあつめてつくった笛をとりだすと、四方の山々や海の波にその牧笛の音をひびかせました。わたしは、とある岩かげにかくれて、アキスの膝のあいだにもたれていましたが、遠くからかれの言葉が耳にきこえてきました。

「アキスとガラテアの恋物語」
オウィディウス著、田中秀央・前田敬作訳『転身物語』

ここでガラテアの恋人として、ファウヌスとシチリアのシメト川のニンフの子である美少年アキスが導入されます。例によってポリュペモスはガラテアに恋するのですが、ガラテアはあくまでアキスを愛し、ポリュペモスのことは嫌悪しています。ポリュペモスは一人寂しく丘の上で笛を吹き、思いを歌いますが、その後二人の逢引の現場に出くわして激昂し、アキスを殺してしまいます。しかしガラテアはその力を使ってアキスを神格化し、彼はアキ川の神になりました。ちなみに、その川は1169年のエトナ山の噴火によって消滅してしまい、今は地名に名残を留めるのみです。

ポリュペモスとガラテアの話は、基本的に一つ目巨人の滑稽にして哀しい実らぬ恋の物語なのですが、中にはポリュペモスの恋が成就するバージョンも存在したようです。ポンペイのフレスコ画にはポリュペモスとガラテアが接吻している様子を描いたと思われるものがあります。

Casa della Caccia antica, Pompeii (VII, 4, 48), 1st century AD.

時代を降って、有名なラファエロの『ガラテアの凱旋』(c. 1512)は、上述の古代の物語との関連がいまいち良くわからない絵です。そもそも何で彼女は凱旋しているのか。ガラテアの神格化を描いたものと言われますが、神格化したのはアキスだったはずでは。

Raffaello Sanzio, The Triumph of Galatea, c. 1512.

この絵はアンジェロ・ポリツィアーノ(1454-1494)の『槍試合のスタンツァ Stanze per la giostra』の詩句に基づくものとも言われています。

Duo formosi delfini un carro tirono:
Sovresso è Galatea che ’l fren corregge,
E quei notando parimente spirono;
Ruotasi attorno più lasciva gregge:
Qual le salse onde sputa, e quai s’aggirono,
Qual par che per amor giuochi e vanegge;
La bella ninfa colle suore fide
Di sì rozo cantor vezzosa ride.

2匹の形良きイルカが戦車を引き
ガラテアが座して手綱を取る
息を揃えてそれらは泳ぎ
いたずら者達が辺りを囲む
ある者は潮を吹き、ある者は泳ぎ回り
ある者は愛のために戯れる
麗しきニンフは忠実な姉妹たちと共に
粗野な歌い手を可憐に笑う

Angelo Poliziano, Stanze de messer Angelo Politiano cominciate per la giostra del magnifico Giuliano di Pietro de Medici: 118. 

イルカ戦車以外はさほど対応しているようには思えませんが。

粗野な歌い手=ポリュペモスを嘲笑しているのだとしたら、彼はどこに居るのかと言えば、それはちゃんと隣りにセバスティアーノ・デル・ピオンボ作の『ポリュペモス』があって、寂しそうな視線を向けています。

Sebastiano del Piombo, Polyphemus next to Raphael's Galatea in the Villa Farnesina, c. 1512.

ともかく、この「ガラテアの凱旋」は定番の画題となり、類似作品を大量に生み出しました。

Domenico Fetti, Galatea and Polyphem, 1622.
François Perrier, Acis and Galatea, c. 1645-50.
Jean-Baptiste van Loo, The Triumph of Galatea, 1720.

つまりトディーニの作品もこれらに連なるものであるわけですが、なぜかイルカの手綱を取っているのはキューピッドで、さらにポリュペモスの楽器は普通パンパイプであるのに「ソルデッリーナあるいはミュゼット」つまりバグパイプです。「牧人の笛」というのを拡大解釈すれば、これもありなのかもしれませんが。

そしてこのポリュペモスの中にはオルガンのような装置が仕込まれ、チェンバロの下の鍵盤(足鍵盤?)で演奏できたというのですが、現在は何も残っていないので、どのようなものであったのかは不明です。この "Macchina di Polifemo e Galatea" は1657年に構想され、完成には10年を費やしたといいます。

肝心のチェンバロの方は、当然インナー・アウター型で、楽器本体はシンプルなものです。ただし巨大。装飾を除いても全長269.4cmもあります。イタリアのチェンバロは細長く、全長2.5mぐらいは普通であるものの、さすがにここまで巨大なものは珍しいです。スタインウェイのD-274が全長274cmですからアウターケース込みなら良い勝負でしょう。

Pollens, Stewart. “Michele Todini’s Golden Harpsichord: An Examination of the Machine of Galatea and Polyphemus.” Metropolitan Museum Journal, vol. 25, 1990, pp. 33–47.
Ibid
Ibid

響板はスプルース、ケースはサイプレス、2×8' で音域は FF#を欠く FF-f3 の60鍵ですが、これは改造によるもので、本来は GG# 抜きの GG-d3 だったようです。わざわざ改造しているということは、これは実際に長く使用されていたのでしょう。オリジナルのスケーリングの推測値は c2=310mm というロングスケールで、元は変なピッチの楽器であった可能性もあります。現状のスケーリングは c2=276mm で、c1=546mm, c=1060mm, C=2061mm と、オクターヴごとに弦長がほぼ倍になるラディカルな仕様となっています。

現在のこの楽器の状態は劣悪で、とても演奏は不可能な有様です。スパインとベントサイドに亀裂が生じているので修復も難しいでしょう。主にガワが有名な個体であるためか、複製楽器を作ったという話も聞きません。

ちなみにガレリア・アルモニカの第一の部屋の展示は、一つの鍵盤から七つの楽器(チェンバロ、スピネット三種、オルガン、ヴァイオリン、リラ・アド・アルコ)を演奏するというもので、アタナシウス・キルヒャーの『Phonurgia Nova』(1673)にその様子が描かれています。

Athanasius Kircher, Phonurgia Nova, 1673.
https://archive.org/details/bub_gb_cLlCAAAAcAAJ

キルヒャーの弟子のフィリッポ・ブオナンニの著書にも同じものを描いた図がありますが随分違います。メトロポリタン美術館の説明では "differs in detail from the same instrument" とありますが、ディテールが違うとかいうレベルではないでしょう。こちらの楽器は全く残っていないので実際どちらが正確なのかは分かりません。

Filippo Buonanni, Gabinetto armonico, 1722.
https://library.si.edu/digital-library/book/gabinettoarmonic00buon

トディーニのガレリア・アルモニカが最終的に完成したのは1672年のことです。彼はこの見世物で一儲けを企んでいたのですが、製作費が嵩み、逆に破産の危機に陥いる羽目になりました。

それでもガレリア・アルモニカは多くの本で紹介されて有名になり、トディーニ亡き後もローマの観光名所の一つとして人気を呼びました。

しかしチャールズ・バーニーが1770年に訪れたときには、もはや寂れきっていたようです。

Charles Burney, The Present State of Music in France and Italy, 1773.
https://books.google.co.jp/books?id=tSJDAAAAcAAJ&dq

20日、火曜日。今朝はヴェロスピ宮殿にある有名なポディーニのギャラリーに行った。ローマについての報告は皆この音楽ギャラリーについての賛辞で溢れている。あるいは楽器ギャラリーというべきか。しかし、これらの記述ほど自分の目で確かめることの必要性を示しているものはない。

件の楽器は、長年の使用に耐えうるものであったとは思えない。 しかし、一度でも面白いものとして書物に載ったものは、調べもせずに際限なく他の本に写し取られるのだ。

そこには見た目は素晴らしいハープシコードがあったが、鳴るキーは無かった。これは以前は同じ部屋のオルガンや2つのスピネットとヴァージナルに繋がっていた。フレームの下にはヴァイオリン、テナー、バスがあり、かつてはハープシコードの足鍵盤で演奏されていた。オルガンは部屋の横ではなく正面にあり、パイプや装置が収められているように見えたが、しかしそれを開けて説明してくれる人は居なかった。老いた案内人がちょうど亡くなったばかりだったのだ。

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