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東京芸人の運命を変えたひとり 芸人・リッキーが大手芸能事務所社長になるまで 3

日本初の「お笑いライブ」を開催したのはブッチャーブラザーズだった説


フライヤーのコピーは糸井重里氏

この頃のブッチャーブラザーズで特筆すべきは、演芸場、劇場などの定席以外で日本初と見られる“お笑いライブ”を開催したことだ。

「日本で初めてお笑いライブをやったのは、僕らだと思ってます。当時、芸人が立つ舞台は、東京なら浅草や新宿などの寄席、ストリップの幕間、大阪なら吉本さんや松竹さんの劇場ぐらいだった。僕らは演劇人の自主公演みたいなことを芸人でやろうと考え、演劇やフリージャズの公演をやっていた小屋を借りました」

この時、協力してくれたメンバーがすごい。

「チラシ(フライヤー)は宮澤さんやタケチュウ(竹中直人)経由で多摩美の人に頼み、コピーは糸井さんにお願いしました。糸井さんは当時、“1行100万円”と言われてましたが、タダでやってくれました」

なんと、80年代の“コピーライターブーム”の頂点にいた糸井氏が、無料でフライヤーのコピーを書いてくれたという。

リッキーこと岡社長が保存していた当時のチラシ。
80年代コピーライターブームの頂点にいた糸井重里氏が無料でコピーを書いた

ダンカンを発掘!立川談志→ビートたけしの弟子に

他の出演者は、雑誌「ぴあ」のはみ出しコーナーで募集した。するとその応募者の中に飯塚実という青年がいた。後にたけし軍団に加入するダンカンだ。ライブで飯塚君のネタを見た2人は、その才能を買い「ザ・テレビ演芸」のネタ見せに連れて行った。

「『面白いやつがいます』と紹介してネタを見てもらったところ、気に入ってくれたのが漫画家で演芸業界に通じていた高信太郎さんでした。高さんが『面白いね。君は何をやりたい?』と聞いたら、飯塚君は『落語家になりたい』と。高さんは『じゃあ紹介しよう』とすぐに立川談志さんのところに連れて行き、あっさり弟子入りが認められました。その時にもらった芸名が立川談カン。今の芸名の元になる名前ですね。その後、談カンは談志さんの紹介でビートたけしさんの弟子になります。その経緯は有名ですね」

なお飯塚君はヘタウマで味のあるイラストが描けたことから、第二回ブッチャーブラザーズ主催ライブのフライヤーをデザインしている。

この時ダンカンがビートたけしの元へ移籍したことが、大きな展開を生む。「たけし軍団」結成につながっていくのだ。(続く)

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