酔歩する男の考察と解釈
(本記事は投げ銭スタイルです!酔歩する男を読んでホンモノのホラーを体験してください!)
酔歩する男(小林泰三)という本に出会った。
これはかなり昔にミゾヲチが送りつけてきた短編集「玩具修理者」に収録されている小長編であるが、何となく読む気がせず放置していた。ついこの間なんとなく手にとってみると極めて天才的な作品であった。通読するのに一時間ほどしかかからなかったが完全に没入しきってしまい、読み終えた後の余韻がそれまた一時間ほど続いて放心状態になった。その興奮冷めやらぬままミゾヲチと通話した。
曰く、この本を読んで「いい反応」が返ってきた読者は彼の周りでは私しかおらず、予想通りの反応に満足していたようであった。確かに本作を「理解」するのには高いEDUとINTがあってかつアイデアロールに成功する必要があり、さらに気質の合う合わないが本作の評価を二分するらしいというのはすぐにわかった。狂気は没入しなければ体験できない。引いて読んでしまうタイプの読者にはあまり響かないだろう。大変満足度の高い読書体験をさせていただいたのは幸運のしきりである。
本作はホラーである。いやSFホラーというべきだろうか。しかしその読書体験を一言で表すなら体感するクトゥルフである。ラブクラフト作品に登場する神話生物はグロテスクかつ狂気じみた描写を以てその恐怖を煽るものであるし、そこから派生したCoC(クトゥルフTRPG)に至っては正気度SANを削る行為とは「はい神話生物ですSANチェックです」とか「はいネクロノミコンでしたSANチェックです」とかそういう罰ゲーム的要素でしかない。
ところが本作は違う。登場人物に起きていることを理解しようとすればするほど、没入すればするほどにまさに自らの、いやこの世界の基本原理を脅かす恐怖体験を味わうことができるのだ。それもその狂気的事態がSFという形で丁寧に原理を説明されているため、まさか実現可能なのではないかという錯覚を覚え、そしてその事実に直面してまた目眩がするという大変悪質な(褒め言葉)ホラー作品だ。
ホラーとは、ソシュール的な理解をするのであれば、グロテスクな素材による、通時的な、予測破りであると理解される。しかし普通ホラーというのは何かしらこの世の理に反した、あるいは明らかに異常であり現実的でない仮定を持ち込むことによって現実世界との一線が守られているのが通例である。
この作品の特徴はその通例を破ったところにある。ホラーの原理が量子物理学や熱力学、精神医学などの言葉で丁寧に提示されているため、まさか自分の身にも起きかねないという背筋の凍る思いをさせられる。大変悪質である(褒め言葉)。
紹介はこのくらいにしておこう。大した値段もしないのでぜひ入手して楽しんでほしい。なお、あらすじややる夫スレも存在するので読後にイマイチつかめなかったという人も筋はわかるだろう。
以下は私独自の見解に加えてミゾヲチと議論を交わした末に得られた一つの考察・解釈である。異論はあるだろうが、ネタバレOKの投稿を眺めてもここまで踏み込んだ議論をしているものがなかったのでこの際だからまとめてみようと試みるものである。
目次より先は未読者にとってネタバレというかギャグの説明のような野暮ったさを覚えるだろうからここで引き返すことをおすすめする。また同時に本作を通読したことを前提として解釈を起こすのでいちいち作中の概念について引用、説明はしない。どうかご了承願いたい。
未読の方はまず本作を読んで最高のホラーに接してほしい。
↑アフィリエイトじゃないよ。
血沼はなぜタイムスリップできないのか
最初の疑問は、血沼はなぜタイムスリップの能力を喪ったのかということである。小竹田の一回目のタイムスリップの際にすでに一〇〇回タイムスリップした後の血沼を見ている。もしタイムスリップが時間把握能力の欠如であり、その精神についた傷が新しい脳にもデータ欠損という形で劣化コピーされるのであれば、作中主体の血沼もまたタイムトラベラーであるはずだ。しかしそうではない。なぜか。
私の仮説は多世界解釈に立脚する。すなわちタイムスリップを繰り返すたびに世界線が分岐しつづけ、そこで出会う血沼はもはや別世界線の血沼であるとするのだ。最初こそその世界線の隔たりが小さいためタイムスリップした血沼にも出えたが、小竹田はもはや胎児にまで戻って世界をやり直しているため、すべての人間関係、というかその後努力する気が無くなって落ちぶれていることも含めてすべての人生における状況がリセットされている。だから作中主体の血沼と小竹田の大学時代に出会った親友たる血沼は同一個体ではないと考えたほうが良い。もはや別の存在である。
そう理解すると一つの結論が得られる。ほぼ確実に、小竹田の親友たる血沼が同様に胎児からやり直させられ、そしてまた同じように小竹田を見つけて似たような問答をしている世界線が存在するということだ。つまり世界線が新たに分岐するたびに小竹田が(別世界線の)血沼を見つけているように、血沼もまた(別世界線の)小竹田に出会っているのだ。そしてそのたびに縁が結ばれ直しているため、とある世界線では今回のように面識がなかったが、また別の世界線では面識のある場合もあっただろう。なにせ主観時間で数億年生きているのだ。何があってもおかしくない。
手児奈とはなにか
そうすると、では手児奈とはなにか、という疑問に突き当たる。手児奈はどう考えても「上位存在」であり、すべての時間に遍在する何か次元の一個二個上の存在であるとしか思えない。だが手児奈が誰であるかはあまり問題ではないのだ。手児奈とはなにかというのが問題である。
そもそもいつから存在するのか不明なのである。作中前半で小竹田と噛み合わない言葉を交わすシーンをヒントに読み解いてみよう(通読後この部分を再読すると面白い)。手児奈は出身地の地名を忘れたと主張していることから、廃藩置県前後から存在していたことは確かである。ところがそれどころではない。手児奈という命名は万葉集などに詠まれた「二人の男が一人の女を巡って争い、女が自殺する」という悲嘆に由来することは間違いないと言っていいだろう。しかしその物語が変わっている可能性があると主張しているのだから、少なくとも奈良時代から存在していたことは明らかである。
また「石のにおいがしない」と言っているのだから、石の匂いがする時代からすでにいたと思ってもよい。石の匂いがする時代とはいつか、それはそもそもこの世なのかも定かではないが、地球誕生から存在していたという主張も直ちには棄却できない。
そうだとするなら、もはや地球の存否にこだわる必要もない。あっさりと書いてしまえば本当にすべての時間に遍在する存在、宇宙の始まりから終わりまですべての時間、それもプランク時間ごとに紙芝居的な離散的時間すべてに存在すると言っても良いのではないか。もちろん多世界解釈を仮定するならすべての世界線に遍く存在するのだ。
でもそれはそこまでの話。手児奈がなにであるかというのはまたあまり問題ではない。「上位存在」などと名前をつけて思考を放棄してもよいだろう。作中の説明に準拠するのであればこれ以上の考察は無意味だ。
ところがどうしても触れなければならない核心的問題がある。手児奈はいつ生まれたのかという疑問だ。
小竹田の証言を信じれば、血沼と小竹田が手児奈を取り合った末に手児奈は自殺し、そしてタイムトラベラーが生まれたという順番になる。だがこの理解は小竹田自身が否定している。脳の処置によってタイムトラベル可能になったから手児奈が生まれたのだ。時間的逆行を許す世界では常識的因果が逆転していてもまったく問題ないことは小竹田の回想中の血沼が主張している。すなわち原因が先にあって結果があとになるというのは「時間の流れという意識」によって形成された共通認識に過ぎず、もし時間の流れを否定するのであれば結果が先にあって原因があとに来ていたって何ら問題ない。
それどころではない。多世界解釈説に立てば実は原因と結果が同じ世界線に立っている必要すらなくなるのである。そもそもタイムトラベラーになってから数億年ものあいだタイムトラベラーとしての奇妙な生活を強いられているにも拘らず、各世界線にはタイムトラベラーの原因は存在しない。つまり別の世界線に原因があって現在に結果が生じているというのが本作の特徴である。とするならば、小竹田の主観的時間の始まりにおける事件が起点となって手児奈が生まれたという理解は正当化されうるどころか、その小竹田の主観的時間の最初期における世界線自体がまた別の世界線の影響を受けていても何ら問題ないことになる。
そういった理解をとった場合、もはや手児奈とタイムトラベラーの因果関係は逆転どころではない。イベント的に関係はしているが先後関係も因果関係もないというほかないのだ。すなわちこの作品においては、ラストシーンで血沼が理解したように、因果関係が逆転しているのではなく因果律そのものが破壊されていると理解すべきだろう。破壊されているのだからどちらが原因でどちらが結果かという議論そのものが無意味なのだ。ただ血沼と小竹田、そして手児奈との間には何かしらの関係があるというに留まる。もちろんタイムトラベルの能力も然りである。
だから手児奈はいつ生まれたのか、などという議論は無意味だ。彼女は、いやアレは、脳の処置と関係のある事象として生じている概念にすぎない。
そして血沼が最後に妻に語りかけたシーンもが手児奈であったと理解するのは早計だろう。おそらく作中時間に存在する「手児奈」が答えてくれたのだ。
血沼というホラー
ここまで理解すると一旦はスッキリする。もちろん私もこの作品を一読した後の疑問として一番意味不明なのは手児奈だった。だがちょっと考えてみれば、これは上述の通り「上位存在」などというレッテルを貼れば解決してしまう安易な問題である。
最も謎が多いのは作中時間における血沼である。
ここで最初の疑問に戻る。なぜ彼は波動関数を再発散させない能力だけ欠如しているのか。この点につき、私はそれが本作最大のホラーなのだと強く主張したい。言い換えれば、血沼の存在は作中において全く説明を放棄しており、完全に意味不明な男なのだ。
本作の九割は小竹田の回想が占めている。そしてその中でタイムトラベルの理論が明晰に語られる。脳の一部を損傷させて時間感覚を狂わせることにより、意識だけタイムトラベルさせ、タイムトラベルした過去をやり直すことで波動関数の再発散と再収束を試みるという理論だ。この理論は大変説得力があり、本作におけるタイムトラベルの原理を説明している……かのように見える。
実はこの小竹田の証言というのは作中時間における血沼の目の前に現れた見すぼらしい男の語りであり、確かに小竹田の世界ではその原理でタイムトラベルがなされているが、作中時間における血沼については何も説明していない。このSF要素こそが最大のミスリーディングであり、何もかもこの原理で説明されるかと思いきや作中時間における血沼の身におきた現象をすべて説明している保証はない。そして血沼自身が波動関数を再発散させない能力に欠如しているわけだから、血沼はいわゆる信頼できない語り手であり、彼の身におきたことが一本の世界線に乗った常識的時間軸において発生している事件ではないことが濃厚に示唆される。
そして血沼はある世界線の小竹田に会ったに過ぎず、つまり数億年のうちのたったひとつの仮説を聞かされているだけなのだ。この世界において因果関係は逆転ではなく破壊されているので、別の世界線における事件が要因となって作中時間における血沼の波動関数を再発散させない能力の欠如が起きていると理解することもできる。結局、作中時間の彼がなにかしたからとか、小竹田の証言の通りに処置を受けたからとかですらなく、ここに語られていない全く別の世界線における事件のせいで血沼が悲惨な目に遭っているのだ。これは因果関係の破壊の項目で私が主張したことにより根拠付けられる。
酔歩する男
本作の題名は「酔歩する男」である。酔歩とは確率論の問題に出てくるランダムウォークのことだが、実にその指すものは二つある。
ひとつは自分の人生を酔歩する小竹田。そして同じ時間軸に見せかけてあらゆる世界線を酔歩する血沼である。その両方とも酔歩していると言えるが、しかしその実体は大きく異なる。実によいタイトルである。
テセウスの船 再考
そして血沼に起きた出来事はあまりに悲惨であった。小竹田の回想の中で大脳の他の部分が時間把握能力の欠損を補っているから意識を失わないとタイムスリップしないと説明されていたが、このアイディアを援用するなら血沼は波動関数を再発散させない能力を欠如させていながら、そのことについていままで「奇妙な出来事」としてあまり考えないようにしていたおかげで問題が顕在化していなかった。彼は慣性で生きてこれたのだ。
しかしもはやその時代には戻れない。血沼は波動関数を再発散させない能力の欠如を意識してしまったため、いままでプランク時間ごとに世界線が発散収束していることに気づいてしまい、建物のあるなし、他人との関係、会社の意味などすべての他者との関係に連続性を認めることができなくなった。
そもそも人を同一個体として認めることができるのは何故か。
これはテセウスの船という哲学的問によって定立された古い問題であるが、本作を通じてテセウスの船に対する一つの結論を導くことができる。
よく自殺を図ろうとしている人に対して「絶対に死なないという約束を結ぶ」という処方箋がある。これは自殺を図ろうとしているうつ病患者は真面目なことが多いからそういう約束をすると守ってくれると理解している人が多いが、実際には違う。「約束をする」というのは人間が人間として生きるための最低条件なのだ。
人間もやはり細胞は何年かすればすべて入れ替わるだろう。しかし彼が彼であるということは、その構成要素たる細胞からは根拠付けられないのだ。彼が彼であるということを保証するのは他人であって、他人が彼を彼の名で呼び続けることによって彼は彼として存立し続けることができるに過ぎない。
別の例を出すと、会社の連続性という問題がある。法学的にはあまり深く論じられないが、社員も社長も変わっているのになぜ同じ会社であると認識し続けられるのか? この観点から会社という概念のテセウスの船を考えることができる。
これは会計的な回答が可能である。すなわち会社の連続性を担保しているのは債権債務関係であるという理解だ。取引先の銀行であるとか、仕入先、客先など、会社は様々な債権債務関係を結んでいる。もちろんスーパーでトマトを買うことだってその一つだ。その債権債務関係が連続している、あるいは連続的に変化しているからこそ、会社の連続性が担保される。では会社が死ぬときとはいつかというと、破産してすべての債務がなくなったときである。清算し、借金がなくなったところで会社は死ぬ。登記が抹消されたからではない。誰の債務も負わなくなったから死ぬのである。
人も同じである。来週末映画を観に行きましょうという約束はその人の連続性を担保する。その一週間で爪が伸び、肌が擦れ、髪を切った自分というのは一週間前の自分とは少し変化しているが、週末に映画を行く約束を履行する、もしくはキャンセルするなどの行為そのものが自分の存在を担保するのだ。
「なんでこの前の映画ドタキャンしたの」
「ドタキャンって、そもそもそんな約束してない」
「そんなわけ無いでしょ。ちゃんと予定表に書いてもらった」
「えーっと……ああ、それは双子の兄の方だね。兄に文句を言ってくれ」
……という会話があれば、同じ遺伝子を共有する兄弟を取り違えたという笑い話として理解できるだろう。
もしこの双子を敢えて真正に同一個体が二人いるというフィクションとして捉えたとしても、片一方とは映画の約束をしており、片一方とは映画の約束をしていない。その意味で二つの同一個体は区別されるのだ。その同一個体の区別、すなわち自己の存立を担保しているのは「映画に行く」といった約束そのものである。
その最たるものが名前であり、同じ名前で呼び続けられるということそのものが自己の存立の根拠となる。
テセウスの船に戻ろう。テセウスの船は、部品が一個ずつ取り替えられてすべて違う素材になってもまだテセウスの船である。これはなぜか。これに対する回答は、テセウスの船の性質として同一かどうかを問うのが間違いであって、テセウスの船がテセウスの船と呼ばれ続けることによってテセウスの船であり続けるのだ、とまとめられる。
約束に限らず、他人との関係であるとか他の動物・植物との関係、また岩盤に傷をつけた自分でもよいだろう。そういう他者との関係性、仏教用語であるところの「縁起」が自己の存立を根拠付けている。
この理解のもとで血沼に起きた事件を想像すると身の毛もよだつような事実に直面する。
おそらくプランク時間ごとに世界線が再発散しているのだ。とすると、彼の身の回りにあるすべてのものとの「縁起」が切れる。誰とどんな約束をしたか保証されない。身につけていた時計との関係もあやふやである。誰とも約束ができなくなった人間がどうなるか。
それは「空」である。色即是空空即是色の空だ。
空について語るのは難しいが、平たく言えば「恒常的な実体がない」ことを指している。すべては移ろうし、諸行無常であるということの根拠である。
しかし人は約束をすることで、また他の物体と関係を持つことで、恒常的な実体のない世界に連続性を見出している。その連続性がなくなるということは、すなわち空である。
波動関数の再発散再収束を繰り返す世界の因果関係が破壊されていることを思い出してほしい。仏教においてすべての現象は因果関係によって生じるものとされる。その中には約束や、連続的な呼び名も含まれる。その点について二世紀のインドの僧である龍樹はこう説いた。
人は一人で生きていくことはできず、何かしら他者(これにはモノも含む)との関係性の中でその存立をかろうじて保っているのである。しかし血沼はその他者との関係性を破壊された。腕時計との関係すら破壊されている。そうすると何が起きるか。
自己の存立が保証されなくなってしまうのだ。
私が到達した中で本作最高のホラーはこの点である。血沼のこの先を考えると、発狂する他ないほどに狂いそうになった。
最後の救い
物語はここで終わっている。血沼は引きこもり生活を続けるほかなくなり、暗い人生を送るのだろう。
しかし一つだけ血沼には究極の救いがある。それは、彼はまだ死ねるということである。
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