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プレシンギュラリティ世代の皆様へ3

前回までのあらすじ

・ シンギュラリティによって労働統治モデルを終え、生産から提供までの企業活動は自動化されることが分かっている。

・ そのタイミングはおおむね2030年と予想されるが、コロナ期間が長引くことで文明の加速度が乗数的に高まり、著者は一般予想を遥かに越えて2028年頃と踏んでいる。

・ 労働統治モデルが終わると、外的評価に基準を置いたライフモデルも同時になくなり、基本的には内的評価のみが行動の原理原則として働くし、外的評価もより攻撃性を失い、柔らかくなると著者は考えている。

かいつまむと大体はこのようなお話でした。

今回は少し休息も兼ねて、著者がなぜ労働統治が終わると外的評価が緩くなり、条件付きの愛から無条件の愛へシフトするのかについて少し言及しておきたいと思っています。

尚やや心理学の知識もあると読みやすいですが、心理学を取らなかった方でも読める範囲に留めてあります。


労働統治モデルの世の中ではなぜ条件付きの愛が一般的だったのか

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まず、いつものようにあたりまえの事実から積み上げていきたいと思います。

シンギュラリティ以降に無条件の愛や精神的自立がテーマになる、という予想を理解するにあたって大前提にあるのがこの部分の知識ですので念のためです。

結論から述べると、日本などの社会主義国で根強かった労働統治モデルや、労働者層の間では習慣になっている<給与>に原因を求めると分かりやすいのですが、労働契約では「これができたらいくらあげる」が習慣化していて人々の心理動態の下層部を強く支配していたからです。

だから、労働統治モデルが終わって、例えば士農工商のようなサラリーマンが2~3割程度の社会では条件餌付けが相対的に減って外的評価そのものを恐れることがなくなります。

労働統治社会では条件付の餌付けの仕様から、能力を高めないと生きていけない、という一種の心理的拘束状態を拾得的に学習します。

しかしもし、労働がない社会だったとしたら、条件付の餌付けはなくなり、『能力が高かろうが低かろうが本人の勝手だろう』状態になり、これが私の言う“無条件の愛へのシフト”を意味します。

能力なんかで人の優劣を決めるのは異常とは思いますが、それにも比較にならないほど異常なのはその能力の評価が例えば学校のテストの点数などの極めて局所へ偏っているケースです。

例えば暗記力とか、スピードとか、正確さとか、コンピュータやロボットに求めた方が明らかに図太く反応するはずの能力値を人間に求めて評価指標として義務教育にでもしていたとしたらかなり異様なというか、滑稽な光景ですよね。

(そんなものはPythonにでも求めとけよな・・・というのが私の正直な気持ちです。)

心理的拘束(プロパガンダ)がなくなれば、外的評価を恐れて強迫観念に囚われる教育ママも自然淘汰されます。いや、これはむしろ、自然治癒と言っておきたい。元々は能力が高かろうが低かろうが本人の勝手だから。

しかもその能力の高低を決めていたのは文科省やその意思決定者たちです。

だから遡るとこれまで、その一部の意思決定者の意思によって能力評価がかき回されていたことも誰もが大体予想が付きます。

加えて言及すればその評価基準が、時代錯誤甚だしい内容だったとしたら、どれだけ振り回されていたことかもお察しいただけると思います。

なので異常だったのはむしろ労働統治社会の方のパラダイムであって、能力が低くてもどうでも良くて、統治者の見えない陰におびえて一生を過ごすよりは余程精神的な健康で言えばマシなのです。

さて、条件餌付けの心理拘束がなくなったとなれば、別に自分の子どもが成績優秀だろうが成績が悪かろうがただ「可愛い子」で済むからです。これほどに素晴らしいことはないでしょうね。何せ家庭内で無用な軋轢が生まれないですから。

ところが、条件餌付けの心理拘束がある状態だと「かわいい子だけど成績が悪いと将来困るから」という理由で行き過ぎた保護欲から習い事で絞殺しかけてしまうか、教育を受けていないママの場合は「勉強しなさい」の一点張りで結局打開する余地もないままに愛情を受け取れず愛着障害を引き起こすかのどちらか。

まとめると、もし、「能力が高かろうが低かろうが本人の勝手」というパラダイムが根底に有効に働いている状態、つまりある種のフィンランド状態であれば、「この子にはこういう才能があるかもしれない」とありのままの状態を愛せることになるからこちらの方が誰もが精神は正常でいられます。つまり、強迫観念に囚われなくて済むということ。

外的評価を基準に愛する(条件付で愛する)のではなく、内的評価や内発的動機付けを配慮し、本人の意思を尊重することができれば、自然と勉強しない子どもにも威圧的な態度を取らず泰然自若としていられるママも増える、という訳なのです。

※そもそも日本の学校教育で評価基準になっている「覚えて、覚えた通りに反応する能力」というのは人間のごくわずかに限られた脳しか使わず、その評価=成績に基づき評価された人間は、残りの人間に備わった99%くらいの能力を否定されたままに成人して大人になってしまう計算になります。これがどれほど人格発達の妨げになっているか賢明な読者なら推察することができると思い、同時に日本の子どもたちには健全な心理発達のために義務教育を歩施すことをしないことを祈ります。


なぜ労働統治が終わると無条件の愛にシフトすると言い切れるのか

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最後に、①なぜそう言い切れるのか、②自己同一性との関連

についても言及して終わりたいと思います。

(やや短いですが、そもそもこのテーマは心理学のテキストでも読んでいただければ事足りることなので、私が敢えて言及することも数少ないのです。)

① なぜ無条件の愛にシフトすると言い切れるのか

どの国でも労働者層では条件付きの愛が習慣化しています。このことは日本が社会主義国のため例に挙げると非常にイメージしやすいと思います。

1)まず、労働者の状態では企業側の評価によって収入が変わります。

2)そのため外的評価が生存に関わっています。

3)生存欲求、死への恐怖から、基本的な生存戦略が外的評価に直結します。

4)したがって以上から企業側の評価基準=子どもへの評価基準になり、母親は子をありのままの姿で受け入れられなくなります。

以上です。

特に、日本の場合は

5)日本企業は行政管轄なのでベルギーと同じく公務員社会です。したがって、行政の評価=企業の評価=子への評価 と連結決算しており、支配関係は明白です。行政の意図がそのまま家庭や学校へ伝播しています。

6)日本で自立型組織が作りにくいのは上記の背景が長いからです。要するに労働統治モデルでは自発的に動くことに経済メリットがなかったためです。

だから、日本の場合は労働統治が終わるとそのままそっくり上記の連結が無になり、家庭は家庭、行政は行政、ということになるため労働統治が終わると母親は子をありのままに愛せるようになるというわけです。


ここで気になるのはなぜ父親でなく母親なのか?ということですが、単純な理屈です。
父親は家にいなかったから。以上。


② 自己同一性との関わり

これは私自身が会社経営者を10年以上続けての体験も重ねて感じたことなのですが、労働がなくなれば自己同一性は一般的に高まるものと予想されます。

先ほどの①で外的評価がアイデンティティに与える影響は凄まじいものでした。もっと言えばアイデンティティ=外的評価でした。

したがって、自分にとって「これが素晴らしいのだ」と主張し続けても、大多数が労働者の社会では「でも会社員として勤めるには非合理だからダメ」という声に押しつぶされてしまう。

これで普通の精神が保てない人が多かった。特に労働者社会に亀裂が入り始めた2008年以降は、その外的評価モデルの声が小さくなっていき、不登校が増えた。

それほどに労働者社会は暴力的だったのです。

しかし、労働統治モデルが終わるとなると話は変わります。

内的な評価と内発的動機付けが中心に人格形成が為されていくため、社会に対する大多数との相対な値ではなく、その人本人に生まれながらに備わった絶対的な価値が徐々に認められていくことになるし、1人1人の個性の地位が確立されるのは時間の問題だと言いたいのです。

(また自動化された社会ではより一層ロングテールの法則も働きますから)

それともう一つ、この仮説の背景となる重大なファクトがあります。

非労働者層・・・オーナー経営者や、投資家、資産家、資本家といった経済活動家層の人は外発的動機付けが命取りになるため、原則的には内発的動機付けしかありません

ちなみにこのことを知っているのはオーナー経営者や投資家、資産家、資本家だけです。勿論恐らく巷の本にも書いてい在りませんのでこの領域を体験したことのない一般的なサラリーマンにこの独特な心境や文化は1%も理解できないはずです。

ただし、そうなる立証要因はただ1つしかなく、それは

彼らには元々「利害に責任があるから」です。

というより、それが経済力や確固たる地位の源泉であり、

サラリーマンでは一生かけても得られない大切な無形資産なのです。

勿論、単に言ってしまえば利害に責任の無い人がアイデンティティを確保するのは無理です。

なぜなら彼らは究極誰かが責任を取ってくれます。それはそれは色々と苦労することもあるのは間違いないですが、一方で本当の意味でのリスクは取ってません。彼らは人生に責任を負っているかと言うと微妙な点がいくつかある。

リスクを排除して経営者に肩代わりしてもらう代わりに、労働力を提供しているという基本的なスキームが裏側では働いているため仕方ありません。

経営者が責任を取るなら辞任するなり役員賠償などで、それでだめな時は株主が出資金の範囲で損失を被ることになりますから、いくらストックオプションなどで株式を保有していたとしても通常一般の従業員が職務上の責任を負うことはまず1%もありえない。

あるとすれば秘密保持契約違反して雇用している企業から賠償責任を問われる可能性はあるだとか、職務中のモラルハザードで賞罰程度です。最悪追放となってもまたどこかで雇ってもらえばいい。

こんなハイパーイージーモードの甘やかし状態でまったくダメージの無い天国にいても、毀損の程度は計り知れますし、どんな失敗の痛手や恥を並べても経営者の社会的、精神的ダメージに比べれば塵にも満たないことは確かです。

だって、サラリーマンは言葉の上ではなんとでも云えますけど、決して事実ベースでは仕事に人生もかけてないし命もかけてません。実際に人生も命もかかってません。しかし経営者やオーナーといった人たちは実際に人生も命もかかってますからその緊張感は是非とも全員に人生に一度は味わっていただきたいと思います。笑


ところで、シンギュラリティ以降に自動化される社会では労働がなくなりますが、一方で企業は利益を更に増大させることがわかります。

なぜならお分かりの通り設備投資で資本集約型に一層拍車がかかるからです。

一方で消費がなくなることは在り得ません。食べ物も必要ですし住居も必要ですから。

何度も言いましたが一般的な事実を基にすれば別に収益の源泉は日本人が言うほど「世の中労働賃金だけ!」ではないはずだからです。

特に、資産運用で受け取った配当金や、B2Bなどを源泉として経済が回ったり、役員報酬や事業所得に替わるというだけの話で、まさか経済そのものがなくなるわけではない。

経済学的に考えるならもっと言えば企業のオペレーションが全面的に自動化することで利益を減少させてきた人件費がなくなり、浮いた予算から単価が下がり、今まで手に届かなかったような物資の流通量はむしろ増大するはずだからです。よって経済は恐らくこれまで以上に成長する。

加えて、2026年に流通も自動化することが予想されており、運搬やモビリティのコストは激減。時間も短縮されて経済性能は計り知れないほどに改善することもわかっています。

そのような訳で基本的にはコロナ以降、企業オーナーはより立場を強めていくことになるはずです。(※勿論自動化できないようなビジネスは早晩その株式価値を滅失する羽目になります)

まぁ、もちろんコンピュータが得意とするところと、不得意(というか臨界点のようなもの)があり、全ての動作が自動化するとは考えにくく、例えば芸術や美容師のような1対1で提供した方が付加価値が高いような高付加価値型の事業はむしろ今後も引き続きコンピュータ化されにくいでしょう。

またこの後でも記事に挙げますが、では資本家や経営者でない人は生きる道はないのか、というと多分いくつかあります。

それにいくら日本政府が国民を遺棄して権利濫用しているからといって人類がなくなるわけではないですし、北欧を中心に新しいライフモデルや行政モデルが構築されていくと思いますので、いくらなんでもシンギュラリティで労働に替わるモデルがないとは思えない。

そこで次回は、2021年以降の各経済主体のセクション別に時代変化に適応するための基本的な適応方針と対策について(やっと明るい話題)述べてみたいと思います。



追伸

子どもたちは、何ができても何ができなくても可愛いと思います。

能力が高かろうが低かろうが、というか、そんな概念すらも捨てて、シンギュラリティ以降は全ての子どもが等しく愛されることを望みます。

暗記できる子がかわいいという歪んだ思想を植え付けることは、コロナ以降は許されないべきで、最悪残っても登校せずにリモートのみに限定するか、リベラルアーツに基づく自由教育や情操教育、発想力や創造力の発育に力を入れるべきです。

或いはイギリスのように教育を民営化する等の代替案も検討の範囲で導入すべきです。(私は日本には戻らないから関係はないけど)

子ども1人1人全てに対し、AIによる発達サポートシステムを導入し、本人の成長ペースに合わせて一身に愛を受けて健全に心を育っていくことを見守るゆとりのある社会になることを願っています。


K@ffee






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