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「ドライブ・マイ・カー」覚え書き

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ある作品について長く考え続けることができるとき、その作品にはある種の居心地のよさがある。わたしにとって「ドライブ・マイ・カー」はそうした居心地を持つ作品であり、三時間以上あるこの…
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#ドライブ・マイ・カー

「ドライブ・マイ・カー」覚え書きについて

 ある作品について、長く考え続けることができるとき、その作品にはある種の居心地のよさがある。そこに描かれているのがどんなに凄惨で残酷な世界であれ、あるいは甘すぎる砂糖菓子のような世界であれ、毎日のように訪れて、目の前に圧倒的な違和を感じながら、不思議と落ち着く、安全というよりは、安全ではないことを受け入れることができる、そういう居心地が見つかる作品はけして多くない。わたしにとって濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」には、居心地のよさがある。三時間以上あるこの作品の時間に、また

投げと賭け

 わたしは誰かにものを投げる。わたしにとっても誰かにとっても、そしてものにとっても、放り投げることは賭けだ。わたしから離れたものは、しばしの間、重力に委ねられ、放物線を描く。線は、うまく誰かに向かっているだろうか。向かっていたとして、誰かはものを、うまくキャッチしてくれるだろうか。もし、ものがキャッチされなかったとして、地面に落ちたそのものは、壊れずに済むだろうか。どこかに転がり落ちて二度と手元に戻らなくなりはしないだろうか。  こうしたいくつもの懸念を、わたしは、ものとと

ドライブ・マイ・カーのエンディング音楽のこと(詩の練習039)

「詩の練習」からの出張版です。https://anchor.fm/hiromichi-hosoma

ヤマガ

「彼女はときどき、ヤマガの家に空き巣に入るようになるの」  最初は、友達の話でも始まったのかと思った。ベッドの上に、裸のシルエットが映し出されている。シルエットが語りに合わせて微かに息づいているところを見ると、どうやら彼女が語り手らしい。ベッドで物語られているのだとしたら、あるいは夢で見た話なのだろうか。それにしては妙だ。夢の中の見知らぬ人には、たいてい名前がない。自身の知り合いでもない男が、ヤマガなどという固有名詞を伴って出てくるのはどうかしている。  むかしむかしヤマ

ききわける

 すでに記したように、座席の位置取りは、この映画の重要な見所だ。  悠介と飲んだあと、先に店を出た高槻は、自分の写真を撮っていた男を見つけて後を追いかける。そして、ほどなくして戻ってくると、誰かに追われているかのような急ぎぶりで、「すいません、行きましょう」と自分でサーブのドアを開け、先に乗り込んでしまう。その結果、帰りの車では、行きとは逆に、悠介が運転席の斜め後ろに座り、高槻は運転席の真後ろにことになる。高槻の席は、悠介の左隣だが、それは左眼が緑内障にかかっている家福にと

ノックと一撃

 和製英語の「ノック」は、主にドアをコンコンと叩くことを意味する。一方、英語の「knock」は、ブロウ、すなわち強く鋭い一撃を意味する他動詞でもある。だからノック・ダウンとかノック・アウトといったことばが生まれる。一撃は硬い表面に当たって高く響く。ノックということばは、一撃に伴うその音を想起させる。  人の手は便利だ。開くと柔らかいのに、握ると硬くなる。相手に一撃を加えるときには、手を握り、拳を作り、ナックル、つまり第二関節と第三関節の間の平たい部分でノックする。一方、扉を

ノックの不在

 オーディション場面の冒頭に、小さな、しかし印象に残るやりとりがある。マリーナ役の江藤とセレブリャコフ役のロイが第2幕を演じている。江藤に続けてロイが短い台詞を言う。と、江藤は当惑する。「あたしのセリフまだ終わってないのに…」。ま、いいわ、と江藤はしかたなく続きを演じる。  家福悠介の演出では、俳優はお互いに自身の母国語で台詞を言う。インドネシア語・タガログ語・マレー語・スイスドイツ語・北京語・韓国語手話…。自分の知らない言語で相手の台詞を言われるとき、その台詞がどこで終わ

左側に気をつけろ

 映画版『ドライブ・マイ・カー』で行われる「本読み」は、濱口竜介監督が映画作りの中で以前から実践していたものだ。ニュアンスを込めず、抑揚を排して読み上げるこの「本読み」を、濱口は『ジャン・ルノワールの演技指導』に収められている「イタリア式本読み」にならったものだと書いている。  ニュアンスや抑揚を排することは、ジャン・ルノワールが言及するとおり「紋切り型の感情表現」を避けるために必要な準備であった。抑揚やニュアンスを撮影に先んじて決定することは、演じるためのプランを固定する

手話の瞬間

 映画版「ドライブ・マイ・カー」の印象的な場面を思い出そうとすると、パク・ユリム演じるユナが韓国手話で話す場面がいくつも挙がる。ユナの手話は、なぜこんなにも、観る者を惹きつけるのか。  何よりもまず、それは、静けさの中にある。ユナの手話の場面では、音楽はなく、物音も抑えられている。ソーニャ役としてワーニャ伯父さんと2人で話す場面では、台本の上ではテレーギンがギターを鳴らしていることになっているが、映画では、ユナが手話を始めるとギターは止む。  ユンスの役割も大きい。手話を

ザ・バックシート・オブ・マイ・カー

 映画版「ドライブ・マイ・カー」は、原作とはあちこち異なっているが、その中で、比較的地味な、しかし重要な変更点がある。それは、家福悠介の座る位置だ。  村上春樹の原作では、最初に渡利みさきに試運転させる場面で、家福は助手席に座る。  彼は助手席に身を沈め、通り過ぎていく街の風景をぼんやりと眺めていた。いつも運転席でハンドルを握っていた彼にとって、そういう視点から眺める街の風景は新鮮に感じられた。  その後も家福は助手席に座り続ける。  みさきは何の問題もなく、予定通りに

年齢について

 安部聡子がソーニャを演じるのを観たとき、わたしは四十七才だった。  ちょうど京都の街なかに、劇団地点のチェーホフ三大劇上演のポスターが貼られていた頃で、どれかを観たいと思っていたら、扉野良人さんがいたずらっぽく「読みませんか」と言って「六号病棟」の古い文庫本を貸してくれた。わたしはその頃、事務所がわりに京都の古アパートの六号室を借りていた。  それを皮切りにチェーホフを読み進めるうちに、例の文句に行き当たった。  どうにかしてくれ! ああ、やりきれん。……僕はもう四十七だ

ワーニャの部屋

 映画を観たあと、さて何から手をつけようと思ってまずやってみたのは「ワーニャ伯父さん」を音読してみることだった。話者ごとに拳でこつんと机を叩くところまでは真似ないけれど、一人で、声を出して読んでみる。感情をあまり込めずに、小説文を読むくらいの調子で自分の声にしていく。それだけのことでも、ずいぶん今までと違う感覚で読むことができた。ただことばの内容から筋書きを読み取るというだけでなく、ことばにふさわしい時間を、声によって与えているという手応えのようなものが感じられる。ことばを発