見出し画像

ザ・バックシート・オブ・マイ・カー

 映画版「ドライブ・マイ・カー」は、原作とはあちこち異なっているが、その中で、比較的地味な、しかし重要な変更点がある。それは、家福悠介の座る位置だ。
 村上春樹の原作では、最初に渡利みさきに試運転させる場面で、家福は助手席に座る。

 彼は助手席に身を沈め、通り過ぎていく街の風景をぼんやりと眺めていた。いつも運転席でハンドルを握っていた彼にとって、そういう視点から眺める街の風景は新鮮に感じられた。

 その後も家福は助手席に座り続ける。

 みさきは何の問題もなく、予定通りに彼をあちこちの場所に送り届け、家福も彼女の運転するサーブの助手席に座っていることに慣れていった。時には深く眠り込むことさえあった。

 家福の視点から記される、みさきの運転操作の滑らかさ、視線の動き、リラックスした運転は、助手席からの印象だ。そして家福は、助手席で、カセットテープに合わせて台詞を読み上げる。みさきはすぐ横で、おそらく周辺視で間近にいる悠介の存在をとらえながら運転をしている。

 一方、映画版では、運転をまかせることを渋る家福悠介に、みさきは挑むように言う。「助手席でご覧になりますか?」 悠介は黙って運転席を倒し(それは自分が運転するのを否定する動作だ)、バックシートに乗り込む。小さいが、決定的な変更だ。悠介は、助手席にいてフロントグラスとみさきの運転を睨むのではなく、後ろでエンジン音を聞きながら乗り心地を試す。

 とは言え、この最初のドライブで、悠介はみさきの運転に身をまかせてはいない。乗る位置は運転席の斜め後ろだ。そこからはみさきのハンドルさばきやシフトチェンジの様子も見える。

 広島の市街を出て橋を渡ると、悠介は、早くも台詞の練習用のテープをみさきに再生させる(原作ではテスト・ドライブの後だった)。しかも、それはちょうど、ワーニャがセレブリャコフに激しい敵意を口にする場面だ。

 黙るもんか! 待った、まだ終わっちゃいない!貴様はぼくの人生を踏みにじったんだ!ぼくには人生なんてなかった!貴様のせいで、ぼくは自分の人生の華の歳月を無駄にし、台なしにしてしまったんだ!貴様は、ぼくの敵だ、憎っくき敵だ!

(チェーホフ「ワーニャ伯父さん」浦雅春訳)

 練習とはいえ、冷たく言い放たれる悠介の台詞には、剥き出しの敵意が込められている。バックミラー越しに、運転するみさきの目の表情が見える。みさきがこの狭い空間を充たす敵意によって運転に乱れを生じさせないか試すように、ワーニャの声が響く。まるで「ブレードランナー」のフォークト=カンプフ検査だ。

 ぼくだって才能もあれば、頭もある、度胸だってあるんだ……。まともに人生を送っていれば、ショーペンハウエルにだってドストエフスキーにだってなれたんだ……。戯言はもうたくさんだ!ああ、気が狂いそうだ……。母さん、ぼくはもうダメです、ダメだ!

 悠介はワークショップの本読みのように、できるだけ感情を排して唱えていく。できるだけ、とは言うものの、そこには、自分の車をひとまかせにしている悠介の憤懣が微かに籠もっているようにもきこえる。激情を伴った声よりは、そういう声の方が、ワーニャの敵意と狂気と絶望は、かえって客観性を得て、救いがたく響く(西島秀俊は、この微妙なトーンを、放り出すような声で実現している)。ぼくはもうダメです、ダメだ。

 ダメだという声とは裏腹に、車は瀬戸内の複雑な海岸沿いに沿って滑らかにカーブをこなしていく。わたしたちは、海岸線を走る小さなサーブのロングショットを観ながら、エンジン音がはっきり聞こえることに何の違和感も感じない。むしろ、サーブのエンジン音の着実さから、ドライブは快調であることを知る。映画の音は不思議だ。

 宿についた悠介は窓の外を眺めながら言う。「瀬戸内の海は静かでいいですね」。それはいま眼前にしている眺めなのか、それとも走ってきた車から見た眺めなのか。ドラマトゥルクのユンスは探るように問う。「彼女の運転は?」

 みさきを運転手として採用することにした悠介は、その後もバックシートに座り続ける。興味深いのは、オーディションを終えた夜から、悠介がみさきの動きの見える斜め後ろではなく、運転席の真後ろに座るようになることだ。悠介は、持続するエンジン音を聴き、バックシートから伝わってくる振動に身をまかせる。聴覚的で触覚的な同乗者となる。まるで、身体動作を排して、台本のテキストを読む声に集中するように。

 みさきは目の前の座席で運転している。しかし車の運動は背中から伝わってくる。見た目には、みさきが前で悠介が後ろにいる。しかし触覚上は、悠介は前にいて車の振動が後ろから悠介を抱く。わたしたちはこのような悠介のありさまを、やがて舞台の上で見ることになる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?