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ノックの不在

 オーディション場面の冒頭に、小さな、しかし印象に残るやりとりがある。マリーナ役の江藤とセレブリャコフ役のロイが第2幕を演じている。江藤に続けてロイが短い台詞を言う。と、江藤は当惑する。「あたしのセリフまだ終わってないのに…」。ま、いいわ、と江藤はしかたなく続きを演じる。

 家福悠介の演出では、俳優はお互いに自身の母国語で台詞を言う。インドネシア語・タガログ語・マレー語・スイスドイツ語・北京語・韓国語手話…。自分の知らない言語で相手の台詞を言われるとき、その台詞がどこで終わったかを知るのは難しい。おそらくロイは、江藤の台詞の中の間を、台詞の終了と勘違いして先走ってしまったのだ。

 演技に先立つ本読みで、俳優はそれぞれ、自分の台詞を言い終えると机をコツンと叩く。それはおそらく、お互いの台詞の終わりを予測し難い、多言語の本読みゆえの工夫なのだろう。俳優たちは、指の背で叩かれるコツンという乾いた響きによって、前の台詞の終わりを知るのだが、それは同時に、次の台詞をノックで呼び出しているようでもあり、観る者に強い印象を残す(そういえば、音の吹き込んだテープには、このノックがない)。

***

 最初に映画を観たとき、あざやかに意識の虚をつかれた箇所があった。それは、悠介とみさきが交わす、ごくありふれたやりとりだ。

 「いい天気だ」
 「ええ」

 不思議なことに、わたしはこのとき、みさきが返答することを全く予想していなかった。観ていて体温が上がるのを感じた。わたしはこの思いがけない返答に、明らかに揺さぶられてしまったのだ。

 なぜみさきの返答を、わたしは予想できなかったのだろう。

 運転中のみさきが寡黙で、これまで必要最小限のことしか声にしてこなかったからだろうか。それもある。あるいはこの場面で、この映画には珍しく音楽が使われていたのも原因かもしれない。わたしは、持続音でできたその音楽とサーブの快調なエンジン音とのブレンドに浸っており、そこには確かに、意識の隙ができていた。

 しかし、もう一つ重要なことがある。このやりとりの直前に悠介が行っていた練習だ。悠介はみさきの真後ろに座って、いつものように「ワーニャ伯父さん」の台詞を唱えていた。あの、自分の年齢を吐き出すことばだ。「ああ、やりきれない。どうにかしてくれ。私は四十七になる。六十で死ぬとして、これからあと十三年生きなくちゃならない。長すぎる。その十三年をいったいどうやって過ごしていけばいいんだ?」少し沈黙したのち、悠介は、零度よりもほんの少し体温を感じさせる声で言う。「いい天気だ」。それは、けして短くはない、けれど十三年という長さがまだ名残っているほどには、台詞の中の「間」と言えるほどの沈黙で、わたしはまだ、その十三年に思いを馳せている最中に、「いい天気だ」ということばをきいた。ワーニャが不意にそういうことを言ったような気すらしていた。

 みさきはなぜ、「いい天気だ」ということばを台詞としてではなく、応答可能なことばとして、今このドライブを包んでいる世界を指すことばとしてきくことができたのだろう。

 みさきは、何度も悠介の練習をきくうちに、台詞を覚えてしまったのかもしれない。また、みさきが待ち時間に読んでいる文庫本は(タイトルがよく見えないけれど)もしかしたらチェーホフの戯曲かもしれず、みさきは密かに、台詞の境界を体得するほどに、この劇に親しんでいたのかもしれない。

 しかし、たとえみさきが悠介のつぶやきを注意深く台詞から切り離してきくことができたのだとしても、それは、なぜあいづちを打ったかということの答えにはならない。悠介のことばは、相手の同意を求めるような形をとってはいない。「いい天気だね」でもなければ「いい天気だと思わない?」でもない。みさきは、それをつぶやきとして認知しながら、なおかつ、あいづちを打たずに捨て置くこともできたはずだ。「ええ」というあいづちは、台詞を理解しているということ以上の、ある種の親密さに支えられているのではないか。実際、あいづちが打たれ、なにごともなくドライブが続いていく瞬間、観る者は、2人がお互いの親密さに乗ってこのドライブを過ごしていること、みさきのあいづちによって悠介のつぶやきがたとえ応答可能なことばとなったとしても、それはけしてこのドライブの時間を侵さないのだということを知る。

 悠介に対するみさきの感情がどういうものか、彼女の仏頂面からは簡単にうかがい知ることはできない。ただ、悠介に対する彼女の感情が少しくほぐれているのを知る手がかかりはある。犬だ。犬には、ある種の「正直さ」があるせいだろうか、みさきは犬に対して人以上に、心を許しているようなところがある。ユンスの家で、悠介がみさきの運転を褒めたあと、みさきはなぜか黙って食卓を離れ、床に寝そべっている犬をかまいだす。ゴミ処理場を観たあとの海べりで、自身が北海道から広島にやってきた経緯を悠介に話したあと、「わたしあの車が好きです」と言ってから、みさきはそばに飛んできたフリスビーを、見知らぬ犬のために投げてやる(いい場面だ)。

 悠介の「いい天気だ」というつぶやきは、この海べりでの会話の帰りに発せられる。みさきの「ええ」という声は、交差点にさしかかった者がウインカーを出すような業務的なさりげなさで響く。しかし、ただ黙って聞き流すだけでよかったつぶやきにあえてあいづちを打つことには、たまたま自分のそばに飛んできたフリスビーを投げてやるような親しさがある。「ええ」によって、悠介のつぶやきは、応答可能なことばとしてふいに浮き上がる。

 直後に公園で行われる練習場面のまばゆさ、本読みのノックから解放されたユナとジャニスのやりとりの美しさは、悠介とみさきとのやりとりの思いがけなさを引き継いでいる。ノックによって次の番を呼び覚まされるのに馴れてきたわたしは、ノックの不在ののちに返される応答に、不意に画面が色づくような温もりを感じている。

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