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手話の瞬間

 映画版「ドライブ・マイ・カー」の印象的な場面を思い出そうとすると、パク・ユリム演じるユナが韓国手話で話す場面がいくつも挙がる。ユナの手話は、なぜこんなにも、観る者を惹きつけるのか。

 何よりもまず、それは、静けさの中にある。ユナの手話の場面では、音楽はなく、物音も抑えられている。ソーニャ役としてワーニャ伯父さんと2人で話す場面では、台本の上ではテレーギンがギターを鳴らしていることになっているが、映画では、ユナが手話を始めるとギターは止む。

 ユンスの役割も大きい。手話を逐語訳するのでも、円滑さを求めて手早く訳するのでもない。ひとつながりのフレーズや文章が終わるまで黙って手話を見つめ、訳した内容をことばを選びながら語る。そこに時間をかけることを躊躇しない。このユンスの態度によって、ユナの手話の時間は充実したものとして、観る者の眼前に顕れる。同時に、観客はこのゆっくりとした時間の中で、ユナの手話の意味を少しずつ(悠介が「褒める」という手話を解したように)理解する暇を与えられる。

 ユナの手話は静けさを誘い、ユンスはそれを静けさの中で「きく」ことを体現している。作品を通して感じられるユナとユンスのある種の「正直さ」は、この映画の灯と言えるが、その「正直さ」は、彼らの自身のことばに対する態度と表情が醸し出すものだ。

 手話の思いがけない所作もまたわたしたちを驚かせる。たとえば何度も繰り返される「耐える」という手話。自分の胸を指で斜め上から下にざっくり切るように動かす所作は、強い印象を残す。なぜこの手話は記憶に残るのだろう。自分の前面を切り裂く残酷なイメージを想起させるからだろうか。いや、それだけではない。この所作は、シートベルトの軌跡にそっくりなのだ。運転席に乗り込んだみさきが、そして助手席に移った悠介が、ユナの手の軌跡をなぞるようにシートベルトを斜めにかけるとき、その所作は、「耐える」という手話を想起させる。車を運転すること、助手席に乗ることで、彼らは耐えねばならぬ生を負い、生を負う資格を得る。

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 何より、ユナの手話が印象的なのは、それが、手話を話さぬ者に対して思わぬ形で開かれている点だろう。

 ユナがときどき口に当てた手を放しながら「パッ」と放つ声なき声に、観る者ははっとさせられる。なぜならその音は、音声を介さずに行われる手話においては、本来は用いられる必要のない副産物であり、わたしはたまたま耳が聞こえるため、それを聴覚的に漏れ聞いているに過ぎないからだ。にもかかわらず、この「パッ」はわたしの耳を惹きつける。「パッ」は、ゆったりとした手話の動きに、ピストルの音のように聴覚的な瞬間を割り入れ、意味を切断する。
 いくつかの異なる文脈で使われるのを観るうちに、「パッ」はどうやら「つもり」や「できる」といった意味、広い意味で「can」に似たことばなのかなと推測するようになった(この推測が当たっているのかどうかはまだ自信がない)。しかしそうやっておぼろげに意味をつかみ始めたあとも、「パッ」は、手話の時間の中の突然の聴覚的事件として、繰り返し見る者(聴く者)を驚かせる。

 ユナの手話は、相手を後ろから抱くとき、思いがけない美しさを発揮する。手話は受け手の身体を取り込み、自他の視線をひと組の手の所作へと誘う。秋の公園での練習場面は、木々も木漏れ日も引き込まれるような美しさだが、そこで交わされるエレーナ(ジャニス)とソーニャ(ユナ)のやりとりはことにすばらしい。エレーナは親愛の情を示すようにソーニャの手をとって自分の境涯について話す(手をとられるということは、手話者であるソーニャはしばらく聞き手に回るということだ)。エレーナが話し終えると、ソーニャは、いつのまにかエレーナを後ろから抱いている。抱くことで、語り手になる。「ワーニャ伯父さん」の台本を見ると、確かにここには「エレーナを抱きしめる」というト書きがあるのだが、それがこのような抱きしめ方であると誰が想像できただろう。この演出の発明には心底驚いた。
 ソーニャはそばの落ち葉を拾って、小さな葉をエレーナの前にかざして、手話で語る。「ねっ、何か弾いて」。エレーナは落ち葉を見る。ソーニャも後ろから同じ落ち葉を見る。念じれば音を立てる楽器のように。「OK」と悠介が声をかけて演技の終わりを告げる。

 ここで注意すべきは、2人のやりとりは、悠介をはじめ演技に見入っている者たちからは見えないところで行われていたことだ。2人は、まるで自分たちだけの秘密をやりとりするかのように、見物人たちに背を向ける。映画の観客だけが、物語の外側から、2人の親密なやりとりをこっそり目撃する。演技の直後、悠介はこのことを裏書きするように言う。「いま何かが起きていた。でもそれは俳優の間で起きているだけだ。観客にそれを開いていく」。

 (映画の観客は、見ることのできないものを見ることができる特権的な存在ではない。逆に、わたしたちはフレームに収められたできごとしか見ることができない。このあとわたしたちは、悠介がみさきに告げるもっとも重要な台詞において、その瞬間に2人に浮かんだ表情を目撃し損ねることになる。そのとき、悠介の「いま何かが起きていた」という台詞は、ようやくわたしたちのものになる)

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 映画の終盤、悠介演じるワーニャとユナ演じるソーニャとのシーンは、作品の中でも最も美しい時間だが、ここでは誰がどのようにこの2人を見るかが、綿密に演出され、まさに演技が「開かれる」。練習で(そしておそらく本番でも)ユナに抱かれて手話を見る場面を演じたジャニスは、楽屋でモニター越しにユナの演技を見る。ジャニスは、自分が眼前で見たユナの手話だけでなく、その手話を発している表情を見ることになるだろう。みさきは観客席にいて、サーブの中でずっと自分と同じ進行方向を向き、感情を排したワーニャの台詞を唱えていた悠介の姿を、正面から見る。そして映画の観客はいまこそ、秘密裏にではなく、「観客に開かれた」ものとして、ソーニャの手話を見る。

 ソーニャは、後ろからワーニャを抱いて、手話を見せる。まるでみさきの運転する車の振動が、悠介を後ろから抱くように。ワーニャの目の前でソーニャの手が前方を指さし「あの世で」という。2人はあの世のありかを見る。両親指が前後に構えられる(それは運転席とバックシートに座る者たちのようだ)。ワーニャの頬をソーニャが指でさすと、それは「明るい、すばらしい」。ワーニャは頬の触感によって、明るいすばらしい夢のような生活の存在を知る。

 そして、「あたしたち、ほっと息がつけるんだわ」というソーニャの台詞で、ユナは「パッ」と息をもらす。何かができる、という意味の手話なのだろう。けれど、観ているわたしにとって、それは息をつく刹那の「ほっ」という瞬間を表しているとしか思えない。ひそやかに発せられるこの息が、所作を見る者にも、音をきく者にも、そして舞台を見る観客にも映画を見る観客にも開かれた事件として響くのを感じながら、わたしは、「ワーニャ伯父さん」第四幕のト書きの中にいる。

 秋の夕べ。物音ひとつしない静けさ。

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