見出し画像

左側に気をつけろ

 映画版『ドライブ・マイ・カー』で行われる「本読み」は、濱口竜介監督が映画作りの中で以前から実践していたものだ。ニュアンスを込めず、抑揚を排して読み上げるこの「本読み」を、濱口は『ジャン・ルノワールの演技指導』に収められている「イタリア式本読み」にならったものだと書いている。

 ニュアンスや抑揚を排することは、ジャン・ルノワールが言及するとおり「紋切り型の感情表現」を避けるために必要な準備であった。抑揚やニュアンスを撮影に先んじて決定することは、演じるためのプランを固定することだ。本読みにおいて十分にニュアンスが抜かれていないと、撮影現場におけるシーンの発展が阻害される。それは後々になって理解することだが。シーンの自由な発展のためには、言って見れば「無色透明」な状態でテキストを演者が持っていることが必要になる。

(濱口竜介「カメラの前で演じること」左右社 p. 58-60)

 ここからわかるように、「本読み」は、演技から感情を排するためではなく、むしろ撮影現場でのシーンを自由に発展させるための方法なのだが、一方で、濱口は、本読みの声自体が、独特の魅力を持っていることも記している。

 本読みをしているときの声は言わば、生活の中ではなかなか聞くことのない零度の声だ。それ自体をまだ「いい声」とは呼ばないが、本読みをしているときの声はとても嫌み無く、何度でも聞けるし、何ならずっと聞いていたいとさえ思う。

 映画『ドライブ・マイ・カー』の前半で繰り返される「本読み」の場面で、観客はまさにこの「零度の声」を聞き続けることになる。俳優たちがあえて突き放すように読むその声には確かに不思議と耳に残る魅力があって、映画を何度か観たわたしは、この零度の声を、自分でも出せるのかしらと思って、「ワーニャ伯父さん」のテキストを音読する試みを始めてしまった(濱口作品の「ワーク」は、なぜか自分でやってみたくなってしまう)。

 やってみるとすぐにわかることだが、1人で行う本読みは、複数の俳優による本読みとは異なる。あらゆる役は、一つの声によって実現される。ワーニャはもちろん、ソーニャも、セレブリャコフも、エレーナも、アーストロフも、わたしの声によってそれぞれの境涯を嘆いたり思い直したりする。もちろん、「本読み」なのだから、そこに込められているであろう感情をわたしはできるだけ排し、平坦に声にしている。すると、自分がいったい誰のことばを唱えているのか、その境界があいまいになってくる。役名を越えた何者かになって、見えない誰かに申し立てでもしているような気分だ。

 はて、これは何かに似ている。そう思ってからハタと気づいた。この感じは、カセット・テープに吹き込まれた音の声そっくりではないか。

 音は、ワーニャ役の悠介のために、ワーニャの台詞の部分だけを空けた本読みのカセット・テープを作った。車の中で流れる「ワーニャ伯父さん」では、アーストロフもマリーナもソーニャもマリヤも、すべて音の平坦な本読みの声だ。対話を読む音の声は、次々と別の体に乗り移っていく幽霊のように響く。「なんだか飲む気がしないな。じゃあ、ウオッカになさいますか」。一方、この劇で登場人物たちが口々に語る、ワーニャの言動へのちょっとした違和は、音の声できくと、まるでワーニャの頭の中で響く自身への警句のようだ。「伯父さん、つまんないわ、そんな話! お前、なんだか以前の自分の信念を責めてでもいるようだね」

 多声、というのとも違う。一つの声がいくつもの語りを踏み越えていくかのようだ。誰かには言えることが、別の誰かには言えない。誰かにとっての打ち明け話が、別の誰かにとっての秘密になる。誰かの視野にあることが、誰かにとっては死角になる。だからこそわたしたちは対話する。

 しかし、音の声は、言えることと言えないこと、打ち明け話と秘密、視野と死角を横断する。

***

 映画は、短編集「女のいない男たち」の中から、『ドライブ・マイ・カー』以外の短編をいくつか参照している。

 一つは『木野』で、悠介が予定を変更して帰宅し、音が悠介以外の男とセックスをしているところを目撃してしまう場面はこの『木野』から採られている。ただし、小説では夫はセックスしている妻と直接顔を合わせてしまいそのまま妻と別れてしまうが、映画では、悠介は音の姿を鏡越しに発見するものの、目を閉じて声をあげている音に気づかれぬよう、そっと家を出る。この変更によって、悠介は一方的に音のセックスを目撃しながら、そのことを音に告げぬまま生活を続けることになるのだが、これは映画を貫く重要なできごととなる。

 もう一つは、『シェエラザード』、これはタイトル通り、夜ごと男に不思議な話を聞かせる女、シェエラザードの物語だ。「前世がやつめうなぎ」の話や、女子高生が初恋の同級生の家に「空き巣」に入る話はこの短編から採られている。しかし、シェエラザードの語る話にも、映画では重要な変更がなされている。

 音は、悠介とセックスをした後、物語を語る。物語の主人公は女子高生で、彼女は同級生の家族がみんな留守の間に、玄関の隠し場所の下に鍵を発見し、無断で鍵を開けて中に入る。二階にある同級生の部屋に忍び込み、彼の気配を感じては、帰っていく。ここまではほぼ原作通りだ。しかしそこから、映画版の女子高生は、そして語り手の音は、逸脱を始める。

 十数年前に幼くして亡くなった娘の法要を終えた夜、音は悠介と抱き合う。だがいつもと違い、音はセックスに至り始めるとともに、女子高生の話を語り出す。女子高生は、同級生のベッドの上で、それまで自分で禁じてきた自慰行為を始める。音は、物語をまるで自らの唇から悠介の唇に「吹き込む」かのように何度も口づける。おそらく、それまでそんな語り方をしたことはなかった。女子高生にも音にも「していいこととしてはいけないこと」があったはずなのに。

 服を脱ぎ捨てた音は悠介の上になる。そのとき「誰かが帰ってきた」。

 この思いがけない展開を、わたしたちはもはや女子高生の話としてきくことはできない。それは明らかに、「悠介が」帰ってきたことを指している。音はもしや、自分のセックスを悠介に目撃されたことに気づいてこんなことを語り始めたのだろうか。わからない。しかし、音の意識がどうあれ、音の声は、秘密を踏み越えていく。帰ってきた足音が、女子高生のいる二階に近づいてくる。語りながら声は、高みに近づいていく。悠介は、目に腕を当て、ずっと音の姿を見ることができないでいる。しかし耳をふさぐことはできない。声が、決定的瞬間を叫ぶ。音がエクスタシーに達する。

 その瞬間すら、悠介の腕は目の上に当てられたままだ。

 二階の部屋にやってきた者が誰か。その続きを語らぬまま、音は突然死んでしまう。のちに悠介は高槻から物語の続きを語られる。それは意外にも「もう1人の空き巣」だった(この話もまた『シェエラザード』にはない)。問題は、なぜ話の続きが悠介ではなく、高槻の前で紡がれたか、だ。手がかりは、襲ってきた空き巣に対して女子高生が行った行為にある。

 女子高生は、持っていたペンを空き巣の「左眼」に突き立てた。

 それは明らかに、悠介が音のセックスを目撃した後に起こったことを言い当てている。出張から戻った悠介は、家に戻る途中で衝突事故を起こす。病院で診察を受けた悠介は、「左眼」が緑内障にかかっており、視野が狭まっていることを告げられる。緑内障は治療法が不明の病であり、進むのを遅らせることはできても完治はできない、と医者は言う。悠介は医者に眼圧を押さえる薬を処方され、悠介は以後、映画の中で何度か、目薬を左眼に点眼する。緑内障と目薬の関係はまるで、ワーニャの生とソーニャのことばのようだ。

 この「左眼」の物語を、音は悠介の前で紡ぐことはできなかった。ペンを突き立てられた左眼は、部屋に入ってきた者が、悠介であることを告げる「しるし」だからだ。音の声は、語る相手ごとに物語を危うく分岐させ、悠介に対する秘密を、悠介以外の者にもらした。それは悠介の死角で語られたはずだった。

 しかし物語は、高槻の声で語り直される。バックシートで、悠介の「左側」で、みさきの真後ろで。


* 高槻の語りの中で突かれたのが「左眼」であることは Yuko Nexus6の指摘で気づかされた。感謝します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?