SEAねっと寄稿「私とジェンダー」

誰のせいでもなく 誰のためでもなく


乏しかった女性像

 子どもの頃、女性のロールモデルは担任の先生か母だけでした。だから、将来の夢はと聞かれたら、「先生」「お母さん」という言葉しか思い浮かびませんでした。
 実家は、商店街の中の電器店。母は、店番、経理、家事、介護と日々忙しく、じゃまになってはいけないし、甘えて無視され傷つきたくないから、構ってもらえそうな人を自分で探していたように思います。「これからは女の子も手に職をつける時代」と言いつつも「結婚したら家事はやらないといけないから、手伝いはしなくていい。」と私たち3人姉妹に母は話していました。父は明治生まれの母に育てられ、「一家の主」を生きる「殿様」のような人でした。
 末っ子ゆえか、親からの期待も何の制約もない中、ネットもない時代、新聞や本もあまり読まず、テレビや深夜ラジオ、少女漫画や友だち情報の中からの取捨選択~短大のデザイン美術科でグラフィックデザインを専攻し、軽音楽部でバンドを組んでエレキギターを弾くなど、軟派な青春時代を過ごしました。

社会的ジェンダーと寿退社

 中学高校と電車通学だったこともあり、しょっちゅう痴漢には遭遇、勤めた印刷会社でもセクハラは常態化、女性が性的に扱われることを当たり前のこととして受け流しながら思春期から大人の女性へと成長しました。
 結婚へのあこがれも強く、21歳で結婚、手に職をと選んだグラフィックデザイナーもあっさりと寿退社し、21歳で長女、27歳で次女を出産。子育てを通して、改めて一から人生を歩み直すことになりました。
 結婚を機に着付けを習い、家庭菜園から手料理に手づくりおやつ、毎日家をきれいに片づけ、娘たちには手づくりの服を着せ、パッチワークやトールペインティング、ありとあらゆるこれぞ〈奥様!〉を満喫したのですが、喜ぶでもない夫を前にして、物足りなさを感じつつ、自営業者の夫の手伝いをしても自分の労働対価を要求することもなく、それなりに納得して楽しく暮らしていました。


社会教育で広がった可能性

 子どもの頃から好奇心は旺盛で、みんなが楽しむアイデアを考え出すことだけは得意とし、家庭教育学級の運営委員に立候補したことから水を得た魚のような状態となり、仲間と共に高槻市委託女性学級やNPO法人SEANを立ち上げていく中で、自分の持つ可能性を一つずつ開花させていき、自分でも想像もしていなかった市議会議員や大学の非常勤講師の職につくまでになりました。
 子どもの頃に、社会で活躍する女性のロールモデルとの出会いや、知的好奇心をくすぐる社会環境が私の周りにあったなら、もう少し目覚めは早かったかもしれないと思うことがありますが、両親や夫との関係において私自身が選ぶ生き方に制限、管理や支配がなく、取捨選択の責任を自分の手の中につかんできたからこそ今の私があるのだと今では思います。
 責任とは、社会的にみて自由があることに伴って発生する概念だとのことです。ジェンダーによる画一化される選択に押しつぶされることもなく、自分で悩み選んできた人生であったからこそ、その評価も責任も自分の手にすることができたのではないでしょうか。
 ジェンダー規範によって何者かになろうとすればするほど、そのギャップは他者との比較や責任転嫁となり、生きづらさにつながっていきます。至らなさも含めて、私が私であることに正直であることが、逆に様々な可能性へとつながっていったのだと自らの体験を通して感じます。

 残りの人生を次世代とともに

 父と義理の両親を看取り、残るは施設に入った90歳になった母だけとなり、いつの間にか、孫が5人になりました。 
 孫たちの時代が平和であるようにと願い、まじめに市民活動に取り組んでいれば、少しはましな世の中になるんじゃないかとこれまで頑張ってきました。
 しかしながら、予想や願いに反して世界全体が支配とコントロールを手にしたいリーダーの元、マウントを取り合う時代へと変貌してしまいました。残念ながらその責任の一端は、私にもあるのではないかと憤りを感じます。

 でも、議員になって実感することは、あきらめずに言い続ける先に風向きが変わることがあるということです。市民からの要望の元、例えば、障がい児の高学年の学童保育の受け入れ条件の緩和など、働きかけをしたものの1期目の1年目はまったくもって動かなかったことが、4年目にして実現することができました。あきらめてしまったら、すべてがそれで終わってしまう。ベストはないにしても、よりベターは言い続け行動することで変革させることができるという体験でした。当事者の声や支持してくれる仲間の存在が支えとなって、踏ん張り続けることが可能になります。
 
 60代になった今、残された人生を、次世代への責任を明確に意識して、生きていきたい。女性のロールモデルの一人として、少女たちに示したいと強く思うようになりました。
 人生の終わりの時を迎えるまで誰のせいでもなく、誰のためでもない、私自身の人生を私自身の選択で謳歌し、なかなかの人生だったって微笑みながらこの世を去りたいと思います。

 よりベターな社会をめざし次世代のロールモデルの一人として、とりわけ少女たちのロールモデルとして、ジェンダー規範ではなく自分の手で人生の岐路を選んでいきたいものです。 
 きっと楽しいですよ。
みなさんも、ぜひ、ご一緒に!  

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