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毒育ちが考える“大人”

(画像はいらすとや様より、一部筆者加工)


「普通の人」とは

 少し前に話題になった「普通の人」に関する記事を読んで「いや、星野源は普通じゃねぇだろ」と感じた筆者にとって「普通の人」の条件とは、以下の通りだ。

・定職に就いている
・健全な自己愛を持っている
・依存(症)がない
・健全な趣味嗜好を持っている
・最低限の清潔感と生活力を有している
・他者への配慮や思慮を持っている

 しかしこれらを満たせるのは、パーソナリティや愛着スタイルがかなり安定している人であり、よくよく考えるとま普通とは言い難い。むしろ人格者と呼べる存在だ。まあここまで完璧でなくても相手を配慮できる姿勢、感謝や謝罪を正しく表現できる誠実さがもっとも大切だが、今やそれすらもかなり貴重な“スキル”であるのが現実だ。

 つまり「普通の人」とは、精神的に自立した“大人”とも表現できるのではないか。昨今は、この「普通の人」ないし“大人”になりきれていない成年が多いのかもしれない。(私自身も含めて) そして毒親/毒家族の正体とは、この“大人”になりきれていない、“子供のような大人”の可能性があると私は考える。


幼き私が想像していた“大人”

 私が四、五歳だった頃、幼心ながらにも口紅やハイヒール、アクセサリーの類から大人の色香を感じていた。その口紅を唇に塗りつけ、ハイヒールを履き、アクセサリーを身につけて恋人の車に滑り込む。酒と煙草を嗜みながら、ドライブや食事を楽しむ。時折旅行に赴き(当然ながら車で)、恋人との濃密な時間を過ごす。恋人の部屋に上がれば、散らかった部屋を片づけて手料理を振る舞って“夫婦ごっこ”に興じる。そのうちに当たり前のように同棲を始め、やがて籍を入れて子供を産み育て、その間に家や自家用車を購入する──それが幼き私の描いていた“大人”の姿だ。当時のテレビドラマや漫画に登場した大学生や20代前半の若者さえも、とても“大人”に感じられた。

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(画像はいらすとや様より、一部筆者加工)

 しかしそのような時期もとうに過ぎた今の私は、途轍もなく未熟で幼い。“毒子供”のまま、そして“子供ような大人”である事実に私は愕然としている。

 そもそも“大人”とは何なのだろう。

成長して一人前になった人。
㋐一人前の年齢に達した人。「入場料大人200円、子供100円」⇔子供。
㋑一人前の人間として、思慮分別があり、社会的な責任を負えること。また、その人。「大人としての自覚」「青臭いことを言ってないでもっと大人になれ」

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%A4%A7%E4%BA%BA_%28%E3%81%8A%E3%81%A8%E3%81%AA%29/ より引用

 つまり実年齢として成年を迎えている、そして精神的および社会的に一人前になっていることが“大人”の条件であると。これに先の幼き私が感じた“大人”の要素を加えてみると、以下のようになる。もちろんすべてを満たす必要はないが、複数個を満たしているのが“大人”なのではないかと私は思う。

・自分自身や周辺の管理ができる(身だしなみ、時間や金銭の管理、計画を立てて遂行する)
・運転免許を保有し、自動車を運転できる、自動車社会に参画できる、自動車の利用/管理/保持ができる
・酒・煙草といった大人に許された嗜みや娯楽を楽しむことができる
・トラブルや不測の事態に対応できる
・最低限の家事や炊事が生活力がある、自分の世話は自分でするという姿勢がある
・他人との交際を楽しむことができる、その相手への配慮を持つことができる
・他人と健全な信頼関係を築ける、他人と話し合うことができる、他人と意見をすり合わせることができる
・何事においても責任を持つことができる(誠意ある謝罪と感謝、責任転嫁しない)

※あくまで筆者個人の見解である

 


今、“大人”が減っている?

 20代男性の交際経験および性交渉経験率が四割を超えたが、それに関連してなのか男性の生涯未婚率も上昇の一途をたどっている。
また、昔ならば“大人”の嗜みの筆頭だった、喫煙/アルコール離れも進んでいる。

 その原因は、現代社会では人の死や大きな挫折といった対象喪失経験が減少していること、それに伴って人々の自己愛が肥大化していることではないか。「失敗するくらいなら最初から行動しない」という回避型(言い方を変えれば安定)思考の人間が増えていることも挙げられる。喪失や痛み、それに伴う成長よりも自分自身の楽しみや自己愛(プライド)を重視する傾向にあるとも言えよう。

 そう考えると非常に陳腐な表現になるが、今はわざわざ“大人”にならずとも生きていける社会なのかもしれない。地域差はあれど、恋人や車がなくても何とかやっていけるし、最低限の仕事をこなしながら自分の趣味や生活を最優先する生き方も許容されている。
 詰まるところ国民の三大義務のうち勤労と納税を果たしていれば、確かにその人は“大人”と言えるのかもしれない。しかし親や他の家族の家に同居した上で家事や炊事、自分の身の回りのことや家の管理/保全は一切合切親や他の家族に任せ、最低限の生活費以外は自分の趣味や娯楽に充てているような社会人とは、果たして“大人”なのだろうか。こう書いている私は毒祖母と同居していた伯父の姿を思い返したが、私は彼のことを密かに“労働だけしている子供”ひいては“子供のような大人”と認識していたからだ。(以前に話題になった「子供部屋おじさん/おばさん」という表現があるが、その定義や詳細については今回は割愛させてもらう)

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(画像はいらすとや様より、一部筆者加工)

 “大人”の定義および大人と子供、青少年の境界線というものが非常に曖昧になっているが、もはや実年齢とは単なる数値になりつつあるのかもしれない。


結婚、育児こそ“大人”の役割

 私の毒祖母もまさに“子供のような大人”の典型であった。もっとも彼女は確固たる安全基地を持たないゆえに自己愛ばかりが肥大化してしまったが、この肥大した自己愛が、“子供のような大人”および毒親の原因の一つである。
 百歩譲って完全に“大人”になりきれなくても、私の伯父のように自分一人の生計を立てながら生きていく分には何も問題はないと思う。しかし結婚、特に育児となるとそうもいかない。婚姻年齢を満たした上で書類さえ出せば、誰しも結婚はできる。セックスや体外受精を行えば、確かに子供はもうけられるだろう。しかし“子供のような大人”がそれをしたところで、子供が子供を産み育てるようなものだ。以前「この人、結婚してるんだよな」という《感情》について述べたが、その対象の多くはこの“子供のような大人”だったのかもしれない。

 もっとも問題なのは、この“子供のような大人”のほとんどが「自分は結婚/育児をまともにこなせる」と思い込んでいることだ。経済力や生活能力は言うまでもないが、それ以上に重要な要素とは、ひとりでいられる能力子供や配偶者に対して責任を取る(安全基地になりえる)ことである。しかしこの条件を満たせる“大人”が、今の日本にどれほど存在するだろうかという疑問を私は感じざるを得ない。

“子供のような大人”が己のパーソナリティや知能と向き合わないまま子供を産めば、毒親となってしまう可能性は高い。もちろん結婚や育児を通して親自身も成長していくことも考えられるが、それはもともと“大人”としての基礎があることが前提である。極端な表現だが、子供が子供を育てるなんて無理な話である。本物の子供が、人形やペットを愛玩するのとは大きく異なるのだから。


“大人”のハードルが高すぎる社会

 ただ“子供のような大人”本人とその家族にすべての責任があるかというと、そうは言い切れない。冒頭で指摘したように、現在は「普通の人」ないし“大人”のハードルが高すぎるかもしれないからだ。
 科学技術の発展や資本主義の拡大の副産物として、人々の自己愛は肥大化の一途をたどっていると私は常々考えている。その自己愛の肥大化が人を幼稚化させ、自分本位な思考やくだらないプライドを増幅させる訳だが、そのような人間がそのまま親になれば、彼らが後に何と呼ばれるかは言うまでもない。その事実に加えて、現代社会では家庭内における育児や教育のウェイトが大きくなりすぎたことも問題である。

 本音を吐き出させてもらえば、私自身もその“子供のような大人”であり、とてもじゃないが自分の子供を一人前の“大人”にまで育てられると思えない。万が一にも子供を産んだとして、後に成長した彼もしくは彼女に「アンタ(私)は毒親だ」と指さされたらと考えると、たちまち血の気が失せてしまう。
 しかしこんな私と“同レベル”だと私自身が勝手に認識している人たちが、意外にも結婚や出産を経験していることに私は正直驚きを隠せない。この世でもっとも恐ろしい親とは、「自分はまともだと思い込んで解毒もせず、無意識のうちに毒の連鎖に荷担してる親」だと私は思うからだ。もちろん毒親/毒家族持ちが親になるなとは決して言わないが、自分自身をよく見つめ直さないと同じ事繰り返す可能性がある事は自覚すべきであろう。

 より厳しいことを言えば、客観的に見て不安定な愛着スタイルやパーソナリティを持つ人が、比較的安定した人の子育てを真似ても上手く行くはずがない。そもそも一人間としての基礎、いやスタートラインからして違うのだから。


 “大人”のハードルは今後ますます上がっていくとともに、毒親という概念も広く普及すれば、世論や養育される子供たち自身の“目”もより厳しくなっていくだろう。そうなると出産はおろか結婚すら前向きに考えられないのは仕方ないのではないか。

「将来子供に毒親と言われるくらいならば、子供なんて産みたくない」

 そのような考えを拭えない私は、いつまでも自己愛を肥大化させた“大人のような子供”のままである。


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