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毒育ちが考える「夢を追うこと」


※当記事は、映画『パラサイト─半地下の家族─』の内容や演出について言及しています。ネタバレには配慮していますが、未視聴の方は十分ご注意ください。





身の丈に合わない夢

 学生時代に一度くらいは「将来の夢」をテーマにした作文を書かされたものだ。小学生の男の子ならば、プロスポーツ選手や警察官、女の子ならばケーキ屋さんやお花屋さん、教師や医師は男女問わず定番だったが、今はクリエイターやYouTuberが人気なのだろうか。
 夢を持つことは、もちろん悪いことではない。しかし「身の丈に合わない夢」に長いことしがみつくことほど辛いものはないと、私は学生時代のある友人を思い出すのである。


* * *

 同じ委員会に所属していたクラスメイトだった“彼”とは、なぜだか自然と会話を交わすようになっていた。他愛もない話から勉強や定期テストについて、そこからいつしか進路の話題になった。彼は「医師になりたい」と言うと、「人を助ける仕事がしたいから。その最高峰が医療だと思うから」と続けた。その言葉を聞いた当時の私は、何て思いやりのある素晴らしい子なんだという感激を覚えると、淡い恋心さえ抱き始めていた。
 進路の選択肢に医学部などなかった私は、密かに大学医学部について調べてみるとその実情に思わず目を丸くした。失礼は十分承知しているが、彼の家庭はお世辞にも裕福とは言い難かったからだ。彼は、離婚した母親と祖父との三人暮らしだった。たった一度だけ家の前まで訪れたことがあったが、周辺の家屋よりもゆうに数十年は古びていたのを覚えている。彼の家庭の経済事情などは無論預かり知らなかったが、少なくともその家の様相からは医学部を目指せるような環境とはとても思えなかった。詳細は伏せるが、私たちが当時身を置いていた場所においてこそ彼は確かに成績優秀だったが、果たして医学部入学に値するほどの学力だったのかは定かではなかった。
 それでも私は彼の夢を心から応援しようと思った。それは淡い恋心からでもあったが、大方は「努力さえすればきっと夢は叶う」という無知さゆえのことであった。

 数年後、彼と再会する機会があった。医学部は諦めたものの一浪を経て某大学の法学部に入学していた。残念ながら第一志望の大学ではなかったようだが、今度は弁護士になるという新たな夢のために彼は日々大学や私塾で勉学に励んでいた。その時もまだ「努力さえすれば、何でもできる」と信じてやまなかった私は、彼に共感を抱くばかりだった。なぜならば、私も彼と同じようにある夢を追いかけていたからだ。

 その後も彼とはあくまで“戦友”として時々連絡を取ったり、食事に出かけたりした。しかしその頃から私は彼に対してある“違和感”を覚えるようになっていた。彼の話を要約すると、学費は奨学金でまかない、生活費や私塾代は彼の母親と祖父が全面的に工面していた。彼自身は大学の講義と私塾で多忙を極めるゆえにアルバイトをする暇が一切なく、FXやアフィリエイトの類で小銭を稼いでいたようだ。大学生活もサークルや部活には所属せず、恋人はおろか男友達の話もほとんど出なかった。彼ほどストイックな学生生活を送っていなかった私からすると、「友達とも遊ばず、バイトもしないで勉強ばかりで毎日楽しいのかな?」という脳天気な疑問を抱くほどであった。
 しかし今こうして振り返ると、勉学や弁護士になる夢以外に興味がなかった点から彼にはアスペルガー症候群の傾向が多少あったのかもしれない。芸能やスポーツには興味がなく、漫画や小説も読まない、映画も観ない彼からは、法律関連の本やビジネス書ばかり勧められた記憶がある。それが原因とまではいかないが、かつて私の胸に芽生えた恋心はとうに消え失せていった。

 私が就職活動に追われ始めると、彼は大学院試験に向けての準備に取りかかっていた。その辺りから連絡も途絶えがちになったが、私と彼の仲も所詮そこまでだったのかもしれない。その頃には、私は抱いていた夢を諦めて一般企業への就職を考えていたからだ。

『母が病気で倒れたからか祖父が新卒で就職しろとうるさい。俺は絶対弁護士になるって言ってるのに』

 結果としてそれが最後のメールとなってしまったが、珍しく彼が愚痴をこぼしたことに私は驚いた。それと同時にあの古びた家と下の顔も名前も存じない彼の母親と祖父に対する同情をわずかながらに覚えたのだった。

 さらに年月が経つと、彼との縁は完全に切れてしまった。同級生たちの風の噂や私が一方的に見ている彼のSNSによると彼は未だに弁護士の夢を叶えておらず、それを諦める様子も毛頭なさそうだった。これは私の推測に過ぎないが、金を工面するためか胡散臭いセミナーや投資にも手を出しているようだった。おそらく祖父には「夢を手放して早く働け」と言われ続け、相変わらず友人や恋人も居ないだろうと私は勝手に彼の近況を想像している。

 もっとも万が一にも彼が弁護士になれたとしてもその下積みや研修で根を上げるか、思い描いていた世界とのギャップに落胆するのが関の山だと私は考えている。なぜならば、夢に縛られ続けて肥大化した彼の自己愛は、もはや誰の手もつけられないからだ。

「ここまで来てしまったのだから、もう後には戻れない。ここから必ずや一発逆転してやる」

 そんな幻想に目が眩むと叶いもしない夢にしがみ続けるしかない。そして夢から醒めた現実と己の実力を直視したくないから彼は祖父の進言を頑として聞き入れなかったのだろう。彼がその夢から醒めたとき、いったい何を思うのだろうか──私にはそれを知る由も術もないのだが。


親や周囲からの過剰な期待

 この“彼”と同じように医師や弁護士、公認会計士、大手企業への就職、芸能人や芸術家、スポーツ選手を志す者はいつの時代も多数存在する。それに附随するように難関大学進学を目指す浪人生、様々な分野の候補生、○○の卵たちは、各の夢のために今日も邁進していることだろう。

 ところで先の“彼”は、なぜ医師や弁護士を目指したのだろうか。本人は「人を助けたい」と述べていたが、私にはそれが本心とは思えなかった。おそらく離婚した母親や生活を見てくれている祖父への恩返しの念、己の出自や家庭へのコンプレックス、他人や社会に認められたいという承認欲求といった彼自身や家族の思惑が複雑に入り交じった結果として、医師や弁護士という彼の身の丈に合っていない夢を作り出したのではないか。

 「人のために」や「家族のために」と言って夢に向かって努力することは、子供本人もある種の高揚感を覚え、親や家族は喜ばしく思える行為である。しかしそれはまだ年端のいかない子供や青少年に責任を押しつけて、いわゆる“いい子”を演じさせているに過ぎない。私自身もかつてそのような“いい子”を演じていたが、他人本位な思考のまま夢を実現させたところで本人の心が満たされないことを私は知っている。

 子供の自立を願うからこそ子供に身の程を教え込み、その夢を捨てさせる親が存在する。その一方で余裕も何もない立場なのに子供に対して重荷となるような期待を寄せたり、親自身の自己愛の再生を託したりする親もいる。そのどちらが子供の未来にとって良いのかは無論私には判断しかねるが、少なくとも後者の親は己の身の程が理解できていない事実だけは読み取れる。つまり特に自己愛の強い毒親や毒家族を持つと、その子供は身の丈に合わない夢を押しつけられる可能性が高いと言える。もちろん“彼”の母親や祖父が毒親/毒家族とは断定できないが、もしかすると彼らの強すぎた期待が彼の自己愛と身の丈に合わない夢を肥大化させたのかもしれない。


夢を追う資格

 大きな夢を抱いてその夢のために努力できる人間とは限られていると、私は常々感じている。その夢を追い求められる資格とは、経済的余裕と親や家族、周囲との信頼関係ほかならない。それらを享受できない者は自らの責任を以てして“削り出す”しかないが、いつしか限界という壁にぶつかる可能性がある。結局のところ“持つ者”だけが夢を追った結果周囲からの羨望を一手にし、“持たざる者”とはそもそも夢を追うことさえ許されないのかもしれない。

 そして所詮「蛙の子は蛙」であり、子供は親を“はるかに凌駕するような”才能や能力を持つことはないと私は思う。親とまったく同じ業種や職種を選ぶ必要はないが、親と同じレベルの生活に収束するのが正直無難であろう。
 たとえば我が家の人間は総じて音楽や芸術の才能が皆無だ。そんな家庭に生まれた私が、音楽家や芸術家を夢見たところでそれが叶うとは到底思えない。(無論趣味や嗜みとして音楽や芸術に触れることは構わないだろうが) 万が一その世界に足を踏み入れたところで、果たして“順応”できるのか甚だ疑問だ。所作や作法、思考までもがまるで異なるエリートたちに太刀打ちできるのかという話だが、それは医学界や法曹界、芸能界などにおいても同じことが言えるのではないか。

 冒頭でも述べたが、夢を持って努力することはけっして悪いことではなく、他人がそれをどうこう言う権利もない。しかし夢を追うにしても生い立ちや家庭環境、経済状況、己の才能および能力、そして自分の身の丈や己の立場を知った方がいいと私は思うのだ。それでもなお屈強な意志と努力を介して障壁や困難すら打ち砕く気概がある人間は、自己責任で精進すれば構わない。


夢という名の重石

 映画『パラサイト─半地下の家族─』の主人公・ギウは大学進学を夢見ていたが、両親も妹もギウ自身も無職である。ある日ギウはエリート大学生である友人・ミニョクに富裕家庭の子供向けの家庭教師を紹介されると、手土産として観賞用の石をもらう。ミニョクへの憧れと自分の夢の象徴としてギウはそれを大層大切に飾っていたが、あることをきっかけにその石が偽物だったと判明する。おそらくミニョクは、ギウの叶うはずもない夢を密かに笑っていたのだろう。しかしすべてを失いかけてもなお、ギウはその石を手放すことができなかった。たとえ身の丈に合わなくとも唯一の“希望”として、その石にしがみつくしかなかったのだ。結果としてその石が軽かった(偽物だった)おかげでギウは命拾いしたのであったが、この石とは夢やそれに伴う自己愛のメタファーだと私は考えている。

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映画『パラサイト─半地下の家族─』より 
画像はhttps://diamond.jp/articles/-/231253?page=2より引用

 成り上がりたい思いが強ければ強いほど、年月が経てば経つほど夢という名の石は重くなっていく。「夢を持とう」や「努力は必ず報われる」とは、あくまで未来ある子供たちや若人たちを鼓舞するための言葉である。ある程度の年齢になれば、己を鑑みることでその夢を捨てるという選択を強いられる。しかしその石とは、本人の意思や周囲の期待からそう簡単には捨てられないのだ。いつまでも子供で居られる現代社会や毒親という存在が、無謀な夢追い人を増やしている原因なのかもしれない。さらに自己実現主義、努力至上主義、「あきらめない」という風潮もまたそれを助長している。もっとも彼らが夢を捨てられないのは、 前述したように「ここまで来てしまったのだから、もう後には戻れない。ここから必ずや一発逆転してやる」という思考からだが、これはギャンブル依存に陥ったり、詐欺被害を被ったりする心理と非常に似ている。己の現実と向き合うことなく、逃避し続けていることを鑑みると、叶わない夢を追い続けるのは一種の依存行為とも言える。


分かっちゃいるが捨てられない

 私は学生時代にとある夢こそ捨てたが、今はまた別の夢にしがみついている。いつまでも毒祖母や過去にとらわれてはいけないと分かっていても「健全な家庭やそれから得られたはずの幸せ」という叶うはずもない夢を捨てられないでいる。捨てるに難い点から夢とコンプレックスとは、紙一重なのかもしれない。

 叶わない夢を追い続けるのはしんどく、現実という地に足を着けるべきだと頭では理解しているが、どうしてもそれができない。それは漠然とした恐怖、己の不甲斐なさややるせなさ、不条理への怒り、周囲からの期待、そして夢を手放した自分に価値を見いだせない強い自己愛からだ。夢や自己愛という名の重石といっそのこと心中する、あるいはどうにかしてそれを捨てようすべく、人は時としてもがき、足掻き、苦しむのだと思う。

 “彼”も私もそのうちの一人に違いないが、苦しんだ末に呼吸すらできなくなったらそれはもはや本末転倒である。しかしそれこそ本望だとして命を絶つ者も確かに存在する。“彼”とわずかにも縁があった身としては、どんな形でも構わないから生きていてほしいと勝手ながらに祈っている。そして願わくば、そんな重石など捨てて母親や祖父と共にまっとうに生きるという選択をして欲しいと思う……など偉そうなことを言っている暇など私にはない。私には他人を心配できるような余裕や器量もなく、私こそ一刻も早く重石を捨てなければならない立場であるからだ。夢という名の重石に、自分自身が殺される前に。



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