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毒育ちと希死念慮

注意事項

・当記事は自殺や自死、希死念慮等の表現が頻出します。予めご了承ください。
・当記事はあくまで一個人の意見です。いかなる事象が起きようと一切の責任を負いかねます。


安全基地の不在が希死念慮を生む

 学生時代の私は試験の前夜と直前に決まって、とある“おまじない”を施していた。手のひらに渦を描き、強く両手を合わせながら「絶対に○点以上取れますように。取れなかったら飛び降りて死にます」と、心の中で唱えていた。試験結果や成績が悪い私になど生きる価値はなく、失敗は万死に値する──当時の私はそう思い込んでいたのだ、母や毒祖母らの期待に応えるべく。

 私が自殺願望を持つ方がおかしいと認識したのは、そう昔の話でない。何かを失敗した時、叱られた時、物事がうまくいかない時、必ず「死にたい」という考えが過っていたが、それが「希死念慮」と表現される事実を心療内科に通っていた時分に知った。今でもふと「死にたい」と言うよりも「消えてしまいたい」と思うことが多々ある。私の場合は、恐らく回避型と自己愛型が混在したパーソナリティに起因するのだろうが、原因はそれだけではないと思う。何事も代えの利く社会、自己責任を重んじて諦めを許さない風潮、「やれば何でもできる」という自己実現の暴走が、「私は何てダメなんだろう」「私には生きている価値がない」という自己否定の一因を担っていると私は思うのだ。

 そんな社会だからこそ、何物にも替えがたい安全基地が必要なのはずなのに毒親/毒家族を持つ人間にはそれが許されない。同時に「毒親/毒家族が死ね(消えれ)ばいいのに」と願うのと裏腹にあまつさえ「自分自身が死ね(消えれ)ば、すべて解決するのではないか」という倒錯に陥る。この“歪んだ”思考が強まると自信喪失、自己否定、自傷行為、最悪の場合は自殺に至る。むしろ毒親/毒家族を持つ立場で一度たりとも「死にたい」「消えたい」と思わなかった人間など存在しないほど、毒親育ちと「希死念慮」の親和性は高いと私は考察する。


誰かが死なないと解決しないとさえ思えてくる

 毒親/毒家族(および愛着障害者、パーソナリティ障害者) の恐ろしさとは、直接手を下さずとも標的の精神や身体を脅かす事だと私は痛感している。彼らは標的に「自分が悪いのではないか」「自分がいなくなれば解決するのではないか」という自責の念を植え付けて、自分の都合の云いように“洗脳”するのだ。かつての私は、毒祖母を殺す勇気がなかったがために自分を殺そうとしていた。このような“洗脳”を防ぐには、毒親/毒家族には常識や話が通じない《宇宙人》と認識し、いかに自責の念を捨てられるかが重要だ自責の念を捨てる、すなわち「諦めの心」を持たないと、身も心も追いつめられやがて自殺に繋がってしまう。

 ただ仮に毒親/毒家族と離れられても不安定な愛着スタイル、パーソナリティが原因で社会生活で困窮したり、数々の支障が生じる可能性は高い。その最悪の結末が自殺であるとも指摘でき、その人は毒親/毒家族によって間接的に殺されたと言っても過言ではない。
 さらにその不安定な愛着スタイルやパーソナリティに失業や失恋、金銭問題、心身の健康問題、環境の変化、大きな挫折や不信感、事故・事件に巻き込まれるなどの“トリガー”が加わることで、自殺を決してしまうこともあるだろう。

 かようにして毒親/毒家族が間接的に子供や家族を死へと追い詰めたり、命までは取らなくとも心身的な損失を与えているケースが散見される。それについて毒親および毒家族本人は知る由もないところ、果ては開き直る可能性が非常に高いという現実が、実に恐ろしいと私は感じる。


周囲に打ち明けづらい問題ゆえに

 悩みや不安があれば、信頼する家族や恋人、友人に相談するのが通常なのだろうが、毒親/毒家族育ちの人間には、往々にしてそのような存在が居ないか極端に少ない。もし仮に信頼の置ける恋人や友人が存在したとしても、果たして彼らに毒親/毒家族問題など打ち明けられるだろうか、いや私はできなかった。幻滅されたらどうしよう、自分に責任があると指摘されるかもしれない、と打ち明けるのが怖くて仕方がなかったからだ。そして「“家族なんだから”大丈夫だよ」という悪魔のような台詞を無邪気に言われるかもしれないと思うと、とても言い出せなかった。(私の彼らに対する信頼がそれに足らなかっただけかもしれないが)  毒親/毒家族問題とは、それに直面した人間にしか解り合えないのが現実だと私は思う。そこには、根強い家族神話が存在するからだ。今でこそ「家族は血の繋がっただけの他人」と開き直っているが、昔の私は「家族なのにどうして分かり合えないのか」と家族神話による“呪い”に苛まれていた。
 同じく過去に幾度か指摘しているように毒親を筆頭とした家族問題とは、自分自身で問題を認識した上で自分の方法で解決するほかない。しかしいかなる理由で解決に至らない場合、当事者は知らず知らずの内に心身共に追い込まれてしまい、やがて自傷や自殺といった行為に至ってしまうのかもしれない。


私に生きていく価値など無い

 そうは言っても“みんな”頑張ってるんだから、死んじゃダメだよ!」……当記事が啓発本の一部ならばきっとそう展開するだろうが、私はそうは言わない。(てか“みんな”って何処の何奴だよ。他人が頑張ってるかなんて知ったこっちゃねぇし、それで私の辛さが軽減される訳じゃねぇから)

 この先恐らく結婚も出産もせず、大した社会的地位や役割も持たない自分にこの先生きる価値などあるのかと、私は日々疑問に感じている。“身体”の健康だけが取り柄の私は、来る時が来れば、この身を誰かの役に立てたいとも考えている。心身共に非力な私など、そう長く生きる必要もないからだ。未来ある若者たちのお荷物になりたくないし、お荷物にならないような努力を重ねようとも思えないし、毒祖母のような老害にも無論なりたくない。何よりもこんな人間とは言えないような《宇宙人》だらけの社会の行く末など知ったことではない、が私の本音である。

 現在は母や姉の存在があるから辛うじて死なずに済んでいるが、万一二人の身に何かあったら、その時はいったいどうなるのか今の私は分からない。

 可能な限りの身辺整理を済ませて、ひとり海辺の街へ赴く。最期の娯楽と晩餐を経て夜中に堤防へ向かう。そこで最期の晩酌に興じる。程良く酔いが回ったところで月を眺めながら堤防を散歩し、“つい”足を滑らせて──が私の理想の最期だ。

 今のご時世ではなかなか叶わぬ夢であるが、その時が来る前に精神的理由による安楽死制度が認可されればと強く願う。

 毒親や毒家族の毒に晒され続ければ、「死にたい」「消えたい」と考えてしまうのは痛いほど理解できる。だからと言って自殺を推奨しようとは毛頭にもないが、「強く生きよう」「明日を信じて」なんて綺麗事を言う資格も私にはない。頭の片隅で大なり小なりの「希死念慮」を抱きながら、いつかその日がなるべく早く来るのをただ待つしかないのかもしれない。
「私に生きる価値などないから今すぐ死にたいし、消えたいけど、とりあえず今日は生きるしかない」──ひとまずはそんな感じで良いのではないかと私は思う。そして「そのうち楽な死に方が見つかればいいなぁ」なんて考える私は大層他力本願で浅ましく、明日を生きようと強く思えない社会不適合者である。 ただ毒親/毒家族に植え付けられた毒や呪いとは、時として死を以てして消すしかないという受け入れがたい現実をどうにか受けいれる努力をしつつ、私は今日も仕方なく生きようと思う。

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